2025年11月25日火曜日

株式会社M-STYLE/株式会社豚ギャング 代表取締役社長 松永龍太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社M-STYLE/株式会社豚ギャング 代表取締役社長 松永龍太氏登場。

本文より~

祖父、父、そして。

今回、ご登場いただいたのは、株式会社豚ギャング・MーSTYLEの代表、松永 龍太さん。1994年生まれの31歳(2025年11月現在)。
口調が明瞭で、エネルギッシュ。お父様の若い頃と似ているのかもしれない。松永さんが小学生の頃に、お父様は映画のプロデューサーをされていた。
「最初こそお金の工面に苦労して、トラックの運転手もしてたみたいですが、結構売れっ子のプロデューサーだったみたいです」。
映画のプロデューサーだったお父様が、お祖父様の会社を譲り受けた。生活が好転する。
「祖父は、もともとホンダではたらいていて、ホンダのディーラーのネットワークをつくった一人です。そのうちの一社の社長に就任します」。
「その後、SYMっていう台湾のバイクの貿易事業で起業して独立します。父が引き継いだのは、この会社で、それを縁に、今は中国に飲食店を3店舗オープン。ある飲食店でも、父が大きな役割を果たしています」。
お父様のお年は、57歳。まだまだ現役。今では、親子とも同じ飲食の世界にいるが、資本の関係はない。コロナのときには、「親子ともに打撃を受けた」と笑う。

名門野球チーム。

松永さんは、小学生で野球を始めた。からだが大きく群を抜いていた。中学ではクラブチームで活躍する。先輩の一人は、プロ野球選手となった。「今でも交流がある」という。
「私が所属したクラブチームは、かなりの強豪チームで、トップ選手たちは推薦で甲子園の常連校に進みました。私は、常連校じゃない高校から、おまけのような形で、いったん推薦をいただいたんですが」。
松永さんは、苦笑いする。内申点と、素行の悪さで推薦が取り消された。
「中学生の頃になると、ほめられた話じゃないんですが、野球よりバイクとか、そっちが楽しくなって」。
だから、素行でマイナス評価となる。
「第一志望に通っていたら、もう一度野球をするつもりだったんですが」。
言い訳か、本心か、つぶやくようにいった。
高校でも、遊んだが、「やればできると思っていた」と明かす。
「でも、行けるだろうと高をくくっていた明治がダメで、桜美林は合格したんですが、けっきょく東京ではいちばん偏差値が低いと言われていた多摩大学に進みました」。
アルバイトは、たまプラーザの「ひものや」。飲食以外でも、警備員、コンビニでバイトをした。大学は、つづいたが、アルバイトは別。
「2ヵ月以上、つづいたことがない」と笑う。
「大学も、もともと進学するつもりはなかったんです。父親の『大学に行ったら、免許代を払ってやる』という甘い誘いにのって。じゃぁ、行くかって。だから、授業もでたり、でなかったり」。
「中学くらいから、将来は、父の会社を継ぐと思っていた」と松永さんは明かす。
バイトを転々としながら、車を走らせ、大学生活を謳歌する。そんな松永さんが、大学を卒業して2年経った24歳で独立するとは、だれが想像していただろう。

2ヵ月とつづかないアルバイト。

「大学を卒業して就職したのは、Googleの代理店です。配属は営業でした」。初の営業。天性の才があった。つぎつぎ契約を取ってきた。新人だが、実績はエース級だった。
「特別、なにかをしたわけじゃないんです。ただ、昔から相手が喜ぶことがある程度分かったんです」。
好成績を上げる新人に、上司はきつかった。
「たしかに、先輩にもフォローしてもらっていたんです。ただ、上司いわく、私の成績はすべて、先輩たちの手柄だと。それはない」。
新人離れした業績をあげた松永さんは、社会人になってもやはり半年ももたず、辞表を叩きつけている。
バイトにしろ、Googleの代理店にしろ、まるで辞めるために就職したみたいだと松永さんは笑う。
「2社目は祖父のマネではありませんが、ホンダのディーラーに転職しました。商材はぜんぜんちがいますが、セールスの基本はおなじ。ディーラーでの仕事ははじめてですが、昔からバイクや車が好きでしたから、それもまたいい成績につながったのもしれません」。
ただし、セールスはできても契約書類などのあと処理がよくわからない。「ある時、店長に頭を叩かれたんです。それでイラっときて」。
今度もまた、半年つづかなかった。
履歴書に、まず2つ、社名が載った。
「普通なら、そろそろ真剣に悩むと思うんですが懲りてなかったですね」と松永さん。
いよいよ飲食の世界へと入り込む。
アルバイト時代の先輩が松永さんに耳打ちした。「飲食は儲かるぞ」。

辞めると切った啖呵の未来。

先輩は「ひものや」を運営するサブライムではたらき、同社の独自のシステムを利用して独立されていた。つまり社長である。
大学を卒業して1年。松永さんは23歳だった。「飲食は儲かるぞ」。一言のキャッチフレーズが、心に響く。
社長にもなれる。悪くはない。
「サブライムを辞めるときは先輩のように独立するときだ」と腹をくくる。今までと違って、今度は早ければ、早いほどいい。
「最初の配属は、登戸にあった沖縄料理店でした。営業とはちがいましたが、いい成績を残したと思います」。
普通なら店長に昇格する成績だった。
「でも、そううまくいかないです。いつものことですが(笑)」。
タイミングが悪く「むちゃくちゃ評価が高い30代の人が転職してきた」と松永さん。
それでも店長はオレだろうと思っていたが予想が外れる。
やはり、イラッとした。
「独立したいから店長にしてくれ」と部長に直訴した。
「でも『まだ若い』って言われて。年齢でみるんだったらサブライムに入社した意味もないでしょ。だから『そんじゃ辞めます』って。面談の最中に席を立ったんです」。
頭のなかでは「またやっちまった」と思っていた。肩を落とし、会社をあとにした松永さんの携帯が鳴った。部長だった。
「『神保町の焼鳥屋の店長ならいい』っていうんです」。
「実力を示すには文句なしでした。月商150万円。損益分岐点にもとどかない。立て直しというのは実力がないとできません」。
「やります」。
「辞める」といったおなじボリュームで快諾した。

独立。

神保町の焼鳥店で実績を残した松永さんは店長を経て、サブライムのスキーム通り、独立する。もっとも賭けだった。
「サブライムはこの店をと手を挙げるんですが、私が手を挙げたのは赤字店でした。店長がかわればなんとかなるんじゃないかな、と」。
150万円のセールスがぎりぎりだった。もちろん、赤字。「とにかく、独立したかった。それに焼鳥だったら経験もありましたから12月まで神保町で実績を残し、1月に面談を受けて、2月に独立です」。
業務委託だったが、オーナーだ。
「家賃と、サブライムに支払うお金と合わせ45万円でした。もともと150万円ですから、なんとか業績を上げないといけません」。
松永さんのタレントの一つ。人が寄ってくる。
「特別何かをしたわけじゃないんですが、アルバイトも昔の仲間がやってきてくれて。最初はいろいろいわれたんです。若いですからね。まだ、無理だって」。
外野の声を一蹴する。
赤字店を70~80万円の利益がでるまで伸ばし、1年で3店舗をオープンする。松永さんの力量以外なにものでもない。
「それまでは、言っても小箱だったんですが、そのつぎに150席で家賃100万円の店舗の契約を結んでスタートします。橋本にある沖縄料理でした」。
松永さんは、思い切ってアクセルを踏む。しかし、踏んだときにコロナがスタートする。

・・・続き

株式会社M-STYLE/株式会社豚ギャング 代表取締役社長 松永龍太氏

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2025年11月24日月曜日

株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏登場。

本文より~

高校は、ふたつの山の向こうにあった。

今回、ご登場いただいた株式会社AZismの手塚社長の話を聞いて、興味が出て調べてみた。栃木県塩谷郡塩谷町船生。
高校に通うには、山をふたつ越える。村の人口は、そこそこあったがクラス30人のうち斎藤が12人、手塚が6人と、名字ではなく、昔から今風に下の名で呼び合い、識別していたそうだ。
「小学校だって、校区がめちゃめちゃ広いんです。幸いうちはたまたま学校から近かったから何キロも離れてはいなかったんですが」。
近いと言ってもキロ単位。何しろ隣家との距離が400メートルあった。「回覧板一つもっていくのがたいへんだった」と手塚さんは笑う。
回覧板には「熊がでたので注意」と書かれることもあったそうだ。「熊の被害は聞いたことがないですが、熊も、鹿も普通にいました」。
「もともと船生っていうのは日光東照宮に参拝する際の最後の宿場町だったんです。うちも昔は『万年屋』という屋号の旅籠だったそうです。ただ、徒歩が車になると宿場町は閑散とし、今はみる影もありません。そうそう、先日、行ってみると、中学校はあとかたもなくなっていました」。
山間、中学生になる頃までコンビニ一つなかったが、自然はある。自然を駆け回る少年をイメージして話を聞いていたが、若干、ちがった。
「園児のときに、跳び箱10段を跳んでいました。そんな私をみて、将来オリンピック選手になると、大人たちがさわいでいたのを記憶しています。ただ、小学校にあがってからアトピーに苦労します」。
「爪がのびない」と手塚さんは手をみせる。アトピーで掻きむしったからだ。
「ただ、小学3年生のときですね。漢方薬で、突然アトピーが治ったんです」。
アトピーになり、内向的になっていた手塚さんが変わりはじめたのは、この頃から。ただし、中学に上がり将来なりたいことを聞かれて「仙人」と回答している。
今も世界を旅し、当時から活発で学校のなかで人気者だったお姉様と比較すると、内向的で大人しい。
「姉は、運動神経も抜群だったので、私が中学にあがると手塚の弟が入学してきたと言って、野球部からすぐに声がかかりました」。
山ふたつ越えた高校は、栃木でも有名な進学校。毎年、東大生も数名でている。「宇都宮にでるのが、一般的だったんですが、私は塾の先生に言われるまま宇都宮とは反対の県立大田原高校に進みます。宇都宮だったらまだちかかったんですが、大田原高校には自宅から駅まで車で30分、電車で30分、自転車で30分の行程でした」。
それでも、ちゃんと皆勤賞を取っている。毎年、5月に行われる85km競歩にもかかさず出場している。
「私は飽き性です。中学の野球部も3年になって辞めているし、高校のクラブもそう。勉強も、塾の先生にお尻を叩かれやっていましたが、高校には塾のこわい先生がいないこともあって、ぜんぜんしなくなってしまいました」。
ちなみに、大田原高校の生徒全員が24時間、歩き続けるらしい。なにしろ85キロである。あの、年に1回あるTV番組の目玉企画のマラソンと、そうかわらない。
「でるのは楽しみでした。ただ、3年のとき、この行事の最中に父と母が交通事故に遭ったことを知らされるんです。母は回復しましたが、父は、この事故の4年後になくなります」。
農協に勤めるやさしい父だった。毎日、駅まで車で送ってくれたのも父だった。
手塚さんは淡々と話を続ける。
「私は、帝京大学に進みますが、奨学金(交通遺児育英会)を受けて進学できました。月5万円。ありがたかったです。今では全額完済して寄付する側に回っています」。
これが手塚さんが大学生になるまでの話。

ゲーム好きな青年が味わった、趣味とプロのちがい。

「私が大学を卒業するのは2008年。リーマン・ショック直前ですが、2008年の春ですから、経済は活況で売り手マーケットでした。私も4社受け、4社から内定をいただきました」。
話は手塚さんの就活に進む。
「内定はもらったんですが、今一つ乗り気になれないというか、邪魔くさくって内定者懇親会にも出席しなかったんです。結果、内定辞退となって夏過ぎになっても就職先は決まっていませんでした」。
もともと不精な性格。拘束されるのが苦手なタイプ。
「自分で撒いた種なんですが、夏がすぎるとさすがに焦りだした」と手塚さん。
「社会にでてはたらくことがイメージできなかったような気もします。社会だけでなく、内定をいただいた会社についても、じつは何をするかよくわかってなかった。そんなとき、学生時代に通い続けていたゲームショップの求人と出会ったんです」。
じつは手塚さん、子ども時代からゲームが大好きだった。学生になってもゲームショップに通い続けた。愛着もある。
「そのショップが、AZismが経営する「PAO」だったんです」。
手塚さんは、アルバイトからスタートして、翌年、新卒第一期生として正式に入社する。
「私は新卒募集と勘違いして面接に臨みます。じつは中途入社の募集だったんです。だから、卒業までアルバイトという約束で内定をいただきます。『新卒第一期生』私1人です」。
当時、AZismはゲームショップやカーブスなどを運営していた。AZismについては、現会長、当時、社長の和田さんにご登場いただいた記事<第1070回 株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏>をご覧いただくとよく分かる。
さて、新卒第一期生である。「大卒」「新卒」という響きに、会社の期待が高まり、どこかで「嫉妬」もうずまく。
「たしかに、期待は多少あったと思いますが、『仕事できないヤツ』だったから、すぐに期待はしぼみ、嫉妬されるまでもありませんでした」。
大学時代もゲーム三昧。ゲームには詳しかったのでは?と伺うと、「まるで違う世界」とのこと。
「ユーザーと店員は全く違います。ユーザーは好きなゲームに打ち込むでしょ。それだけでいいんです。でも、ショップのスタッフとなると好きなゲームだけとはいきません。ゲームは毎週のように新作がリリースされるんです。これは?と質問され、知らないとはいえません。これが、趣味と仕事のちがいです」。

社長の教えと、バイオハザードと。

「当時の私は最低な社員だった」と手塚さんは苦笑する。趣味とプロのちがいに戸惑いつづけた。
「どうでしょう。2年くらいは、ただショップに立って、接客を繰り返すだけのスタッフでした。正直、転職するのが面倒だったし、当時、ゲームショップの売上は良くはなかったのですが、危機感もありませんでした」。
ただ、あとで知ることになるのだが、じつは当時、会社は火の車だった。
「私が入社する3年くらい前に加盟したカーブスが大苦戦していたそうです。ゲームショップの利益でカバーしていたといいますが、億単位の赤字で、社長の和田も毎週、銀行に呼ばれていたそうです」。
社員総会で、和田さんが、「うちは赤字企業」といって、はじめて苦境を知ったが、ゲームショップのイチ店員にできることは何も無かった。
「もちろん、コントロールできる範囲では、私なりに頑張りました。ゲームは新作と中古で利益がまるでちがうんです。中古のほうが断然、高い。だから、会社の号令もあって中古のセールスにちからを入れました」。
それでも、期待の新卒はいち販売員に過ぎなかった。入社時の期待の星が、会社の業績に大きく関わりはじめたのはいつ頃からだろう?
「当時は、会社も小さかったので、年に1度、社長の和田と、マンツーマンの酒席が設けられていたんです。ある日の酒席で、社長の話に感銘を受け、それを実践したことをお話すると気に入ってくれたのか、そのあとしょっちゅう私だけ飲みに連れて行ってくれたんです」。
期待されると、そのぶん頑張るタイプ。「当時の部長が怖くて怒られたくなかったってこともあるんですが」。このあたりは、中学時代、塾の先生がこわくて勉強した頃と変わらない。
ちなみにどんな話だったんですか?と話をふると、「和田の原体験で、和田流の商売の原点です。和田が電気屋さんで仕事をしていた頃の話。アイロンの話です。聞かれませんでしたか?」
和田さんとのインタビューを思い出し「説明書の話ですね」というと、「そうです。そうです」と言って話をつづけてくれた。
「最初は安いアイロンばかりを勧めていたんですが、ぜんぜん売れない。それで説明書を読みまくって、性能の高いものには高いだけの価値があることに気づいて、そちらを勧めると、高価なそのアイロンがつぎつぎ売れていったって話です」。
その話を聞いた手塚さんは「すぐに実践した」という。「仙人」になろうとしていた頃とはまるでちがう行動力だ。物を売るのではなく、価値を売る。ゲームの価値なら、だれより知っていた。
「バイオハザードってゲームがあるんですが。当時、うちのショップには980円と3980円のふたつがあって、当然、980円のほうが安いんですが、ゲームをする立場からすると、3980円には価格以上の価値があったんです。私自身ゲームが大好きなんで、その価値がわかる。だから、『じゃぁ、社長流で、こっちを勧めてみよう』と。すると和田が言う通り、そちらばかりがバカ売れするんです」。
ショップの売上は面白いように伸びた。当然、社長の和田さんの目にも、面白い存在と映る。
ただ、それを知ってすべてが開花したわけではない。じつは、このつぎ。「漫画喫茶」に異動して、「そこで、人生が変わった」と言っている。
最後にその話を少し。

・・・続き

株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏

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2025年11月19日水曜日

11月19日、ZAKⅡにて「ここだけの外食産業ニュース」スタートしました。

 11月19日、産経デジタルのZAKⅡにて「ここだけの外食産業ニュース」の連載(隔週10回連載・3月まで)スタートしました。

夕刊フジからの継続されてるzakⅡにて産経デジタル様からキイストンの連載の枠をいただきました。

より飲食業界に風穴を開けていきたいと考えてます。

求人の形が変わってきた現在だからこそ、「スマホで検索が簡単にできる」また「AI検索」の主流になっていく今だからこそ、メディア連載はほんとにありがたいです。

キイストンzakⅡ新連載


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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏登場。

本文より~

熊本から東京、そして、ふたたび熊本へ。「だったら、今だろ」。

「はよ、こっちば手伝わんか!」
農園に遊びに行くと、そんな声が飛んできた。
農園とは、今回ご登場いただいた株式会社ユームスの代表、田尻 秀一郎さんの父が創業した、正確にいうと観光農園。名称は「優峰園フルーツランド」という。
「熊本ではそこそこのスケール」と田尻さん。
田尻さん自身は、熊本を離れ、東京で飲食店を経営し、現在では熊本でも事業を起こしている。
「熊本での事業は震災がきっかけでスタートします。熊本での創業店『テラス TERRACE』は、もともと著名なシェフがお店をオープンする予定だったらしいんです。ただ震災で、その話が流れ、代わりに私が手を挙げ『テラス TERRACE』をオープンしました」。
「なんとか支援をしたかった」と田尻さんはいう。
「私は、熊本をコンセプトにしたお店を東京で展開していましたので、熊本県人のお客様がいらして、『どうする?』なんて話を、お客さんといっしょにしょっちゅうしていたんです」。
「私にできることは限られていましたが、なにか支援できることはないか、と。それにいずれ熊本にも店をだそうと思っていたので。だったら、今だろ、と」。

「優峰園フルーツランド」を離れるまでの話。

話は、田尻さんが農園で走り回っていた頃に移る。
「私がちっちゃかった頃は、『みかん』と『なし』と『ぶどう』をメインに栽培していました。祖父が農家で、父の代で観光農園としてスタートします。農園と言っても、優峰園フルーツランドがあるのは、熊本市内です。都内で暮らす人には、市内というと驚かれるかもしれません。熊本といえばみなさん、阿蘇山をイメージされますが、そっちじゃなくって、島原のほうがちかいです」。
「優峰園フルーツランド」のホームページにあるマップでみると、熊本駅から西に向かっていくところにあった。
「市内ですが、周りは山。自然が残ると言うと聞こえも悪くないですが、今も実家の周りは昔のまま。ただ、一つ、かわったのは、電動付き自転車で子どもたちが坂を上がっていることですね。ぼくたちの頃は、坂がきついから、自転車なんて乗ることができなかった」。
田尻さんが笑うと、どことなく、空気がゆるむ。
じつは田尻さんは、お父様が経営する「優峰園フルーツランド」のあとを一度はついでいる。
「高校生の頃に、今はもう元気なんですが、父が病になって、ふだん、ぼくに何かをしろとは言ったことがない両親が、『フルーツランドをつぐのは秀一郎しかいない』と。それで、いったんつぐには継ぐんですが、じつは3年で弟にバトンタッチしてしまうんです」。
「オレに代わって、『優峰園フルーツランド』を引き継いでくれ」。
田尻さんが弟さんに深々と頭を下げると、兄の気持ちをわかっていたのだろう。「ええばい」という声が降ってきた。
「今はもう、弟の代になって、『いちご』もやっていますし、『釣り堀』や夏は『流しそうめん』をはじめて、人気のスポットになっています」と頬をほころばせる。
「2歳下の弟が入社したのは、私が入社して3年目の時。弟に了承してもらい、父母には、私が宅建免許の取得することと引き換えに、家をでることを許してもらいました」。
<宅建ですか?>
疑問をそのまま口にすると、優峰園フルーツランドでの葛藤が、田尻さんの口をつく。
「ぼくは、優峰園フルーツランドの仕事をしたくて、はじめたわけじゃありません。これが弟とはちがう点です。それに、農園のことになると父が、ふだん何も言わない父が、あれやこれや指示だすんです」。
「ぼくは、わがままっていうんでしょうか、やりたいことでしかエネルギーがでないタチなんです。親父に指図されるまま2年くらいのらりくらりやっていたものの、やっぱりだめで。それで弟が入ってきたのを幸いに、家をでていこうと画策するんです」。
「事業家だった父の背中をみてきたからでしょうね。ちっちゃな頃から独立志向がつよく、農園で、父の下ではたらいたことで、独立への想いが加速したんだと思います。もちろん、親を説得しないといけません」。
「幸い、父も回復していたんで、父と弟で農園の経営に問題ありません。『宅建』という高いハードルを越えたら、『オレの好きにさせて欲しい』とお願いします」。
「どうして宅建かっていうと」と言って、頭をかく。
「理由なく、宅建を取れば独立できるという思い込んでいたんです。一方、2人は高校までのぼくの成績を知っていますからね、まさか合格するとは思ってなかったんでしょう。『わかった、約束だ』って」。
ご両親の予想を裏切り、田尻さんは見事、合格。
「弟に2代目を譲り、晴れてぼくは福岡に向かいます」。
ふるさとからの旅立ち。田尻さん、21歳のとき。

Barとサーフィンと。

「宅建は口実で、無事、取得はできましたが、そっちの分野に進むつもりはありませんでした」と田尻さんは、正直に打ち明ける。
Barではたらく友人の姿に惹かれ、福岡でアパート借り、21歳の暮らしがはじまる。
「ともだちに紹介してもらったBarに行くんですが、2年間はトイレ掃除だと言われて」と苦笑する。
「それでも、お酒をマスターしようと酒屋さんでアルバイトをして、のちにちゃんとBarでもはたらきます。その一方で」。
いったん、言葉をためて「サーフィンに出会うんです」という。
まるでとっておきの一言を放つように。
波に乗ることですべてから開放される。サーフィンは田尻さんに開放感をもたらし、虜にする。
こののち、サーフィンとBarが折り重なって田尻さんの人生を織りなしていく。
「波をもとめて、オーストラリアでも暮らします。向こうではフルーツピッキンのバイトして、あとはサーフィン三昧です」。
帰国した田尻さんは、宮崎で1年間サーフィンしながらお金を貯め、上京することになる。
だが、最初に、降り立ったのは上野。思い描いていた東京とまるでちがった。
「東京っていえば、表参道でしょ。あのイメージが刷り込まれていたんです。それで、実際、表参道に行って、そこにあったBarではたらきます。赤坂のBarでもはたらきました。東京が、ぼくのなかにだんだんと染み込んでくるんです」。
異質で、格好いい東京の街並みが、見慣れた風景となる。
「そのあとですね。これも大きなターニングポイントなんですが、『恵比寿でもつ鍋をやる』という先輩から声をかけてもらって『博多もつ鍋 蟻月』で仕事をはじめました」。
当時、千葉の市原に住んでいた田尻さんは、恵比寿の白金に移り、仕事にどっぷりとつかっていく。
「けっきょく29歳から35歳まで『もつ鍋 蟻月』で勤務します」。
ちなみに、「蟻月」はグルメサイトでもとりわけ高得点の、もつ鍋店だ。
<蟻月を退職され、独立されたわけですね?>
「ええ、そうです。たいへんな道のりのはじまりです」。

あれ? イメージとちがう。

2010年、 田尻さんは、渋谷に「熊本バル うせがたん」をオープンする。「うせがたん」とはかわった名だが、何でも田尻さんだけが知るパワースポットの名とのこと。コンセプトは、熊本だ。
「16坪で、家賃29万円。借り入れ1000万円、自己資金300万円でスタートしました」。
「ぜんせんわかってなかった」と田尻さん。
「蟻月では、一日中、電話が鳴りっぱなしだったもんですから、そのイメージでオープンしたんですが」。
意に反して、客足はまるでのびなかった。
「電話もならない(笑)」
「月商500万円はかたいとふんでいた」と田尻さん。
「しかし、実際には200万円。営業時間ですか、18時から深夜0時です。『蟻月』では、マーケティングなんていらなかったから、広告もわからないです。それで、とにかくランチをはじめようと思って。夜も、昼も、休むこともできません。でも、ランチのおかげで、少しずつ認知いただくようになって」。
7月にオープンし、夜もにぎわうようになったのは10月。3ヵ月は、そこそこ長い。
「初めてですし、不安がないと言えばうそになります。それでも、なんとか軌道にのり、今度は『熊本ラーメン』だと2店舗目をオープンします。しかし、ラーメンはむずかしくって。それですぐに、餃子と麺の居酒屋に切り替えます」。
「とにかくぼくは、プランB」と田尻さん。メインのAじゃなく、サブのB。
「2店舗目も最初は、ラーメン。これがプランAです。でも、Aがだめで、居酒屋というプランBが動きだします。3店舗目も同様で、つぎは高級路線に舵を切ろうとアッパーな和食店をプランAとしてスタートするんです」。
「幸先よく、なだ万出身の料理人を採用できたんです。これで、いけると思ったんですが、彼はしばらくして、著名人に引き抜かれてしまって。それで、こちらもプランBとして、再スタートです」。
<それでも、3店舗、プランBもなかなかやりますね>
「ま、いまだからね。最初に『うせがたん』をオープンした時なんて、奥さんのお父さんが、ともだちを連れて毎晩のように来てくれて、それで、なんとかかんとかって感じだったから。休みもないし。それに、料理長がいなくなったときもきつかったですね。渋谷を歩いていても、ぜんぶ、脱色したようにグレー色なんです」。
<サーフィンのように波に乗るのは簡単じゃない?>
「そうですね。ただぼくのなかには、熊本人というアイデンティティがやはりあるんです。『うせがたん』も、熊本の名物料理である馬肉を食べてもらいたと思ってスタートしたんです。東京という大都会だからこそ、熊本というアイデンティティが光るとも思っていました」。
「しかし、熊本ならなんでもいいってわけじゃない」。プランAは、プランBにかわり、熊本というアイデンティテもまた東京に飲み込まれていく。
「そんななかで起こったのが、熊本地震です」。

・・・続き

株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏

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株式会社サン・ルート 代表取締役 原 光範氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サン・ルート 代表取締役 原 光範氏登場。

本文より~

父との別れと、飲食への本格的な一歩。

今回、ご登場いただいた株式会社サン・ルートの代表、原 光範さんが生まれたのは1988年7月31日。3人兄弟の長男である。
小学生の頃の将来像は、サッカー選手か本屋の主人。
本屋とはめずらしいですね?というと「今もそうなんですが、小さな頃から本が好きで」と原さん。文学少年をイメージしたが、「活発で、気性が多少荒かった」とのこと。
岸壁を作る仕事をされていたお父様は、学校の先生や医者といったかたい職業についた兄弟のなかでは、異端だったのかもしれない。その血を継いでいる。
小学校でサッカーをはじめた原少年は、3年生でサッカーを辞め、中学からはテニス。高校では1年程度、硬式テニス部に所属する。その一方で、レジやガソリンスタンドでアルバイトを経験。
「大学は福岡のFラン大学」とのこと。実家の北九州から福岡の大学に通った。すでにご両親は離婚されていた。
「父と母は、私が小学3年生の頃に離婚。子どもは、3人とも母に連れられ出ました。でも、1キロ程度しか離れていなくって、父とも週に1回程度は会っていました。母とケンカして、父のところに逃げ込んだこともあって、離婚したあとも父とは付かず離れずといった感じで。その父が他界したのが、私が大学3年のときです」。
原さんは大学を辞めて、当時、アルバイトをしていた飲食店に就職する。
経済的な問題を優先してのことだった。
「その時、勤めていた飲食店の上司が事情を知って誘ってくださったんです。今もお付き合いがあるんですが、その後も、ずっとお世話になっています」。サン・ルートの生みの親の1人でもある。
結果として、その誘いが、原さんを飲食に導くことになる。

独立と3人の部下。

「独立志向はあったが、飲食でと決めていたわけではなく、ただ、「漠然と経営者になろうと思っていただけ」と原さんは話す。
実際、就職した飲食店では独立は頭になく、日々の仕事に没頭した。経営者の右腕となって、奔走する日々。「上が抜けていくんで」と原さんは笑うが、実力が評価されて、就職して2年で部長に抜擢されている。
「オープンも多く、刺激もありましたし、部長になったあとも、当然ですが、会社をのばそうと全力投球していました」。
店舗数は3店舗から、11店になった。24歳の若さで、事業を牽引する原さんは、部下の憧れだったのではないだろうか。
「ただ、」と、原さん。
「部長となって、組織の核心にちかづくと、理想とはかけ離れた現実がみえてくるんです。みえてきたのは、人として、商売人として、どうしても受け入れることのできない一線でした」。
原さんは批判するのではなく、去ることを選択する。「恩義もある人でしたから、批判するのはちがうかな」と。それが原さん、24歳のこと。苦悩の末、原さんは退職するのだが、苦悩していたのは原さん1人ではなかった。同年代の部下の3人が「辞める」といいだした。
ほっておくわけにはいかなかった。

サラ金、4人分と、もう一つの苦悩と。

「その3人と、いっしょにスタートしたのが、北九州の小倉にオープンした『うわさの小鉄』です」。
「うわさの小鉄」は、和食ベースの創作居酒屋。初期投資、500万円。42坪で家賃は28万円。
「4人でやるとなると、ある程度のスケールがないと計算が立ちません。リスクは高くなりますが、前職での経験があったもんですから、居抜きで出店コストを抑えればなんとかなるだろうと」。
ただし、資金がない。
「若いし、実績もない。銀行の融資も受けられません。私と共同経営者となる料理長で100万円ずつ。残りは4人、それぞれが消費者金融から50万円ずつ借り入れて。あと100万円は、さきほどいった転職先の社長からお借りした分+色々集めてなんとか500万円を用意することができました。運転資金もなく、すべてギリギリでした」。
資金はなかったが、自信はあった。
「家賃が安いのはロケーションがよくないからです。じつは、今も人通りがありません」と原さん。
人通りがなくても、原さんには広告戦略という、前職で経験済の強力な戦略があった。狙い通り、広告を打った2ヵ月目から予約も増え、月商も800万円をオーバーすることになる。
「やればできると喜ぶというより、サラ金に借りているんで、とにかく、いちばん年下から50万円ずつ返済していきました」。
全員が完済したのは数ヵ月のち。その頃から、共同経営者である料理長と意見が合わなくなる。
「料理長は2人の社員ともぶつかるようになり、けっきょく、話し合って辞めていただくしかなかったです」。
「ぼくたちをとるか、料理長をとるか」と、社員2人に迫られたそうだ。
仲間を大事にする原さんにとっては、これもまた、苦渋の決断。その一方で気になることがある。料理長というキーマンが抜けたことで業績はどうなったんだろう?
「3人で今まで以上に結束するしかありません。料理長がいなくなったからといって業績を落としたくなかったんで役割を再構築して。とにかく、お客様に喜んでいただこうと」。
結果として、1円も業績を落とさなかった。これが、つぎへの弾みと自信となった。2年後の2014年11月「百舌のしわざ」を、おなじ小倉にオープンしている(この時期に、3名のうち一人は独立するために巣立ち、今は人気店のオーナーとなっているそうだ)。
「百舌のしわざ」は「うわさの小鉄」のスケールをさらに大きくして、60坪、120席。コース料理を全面に打ち出し、宴会需要に特化した和食居酒屋としてオープンする。
「百舌のしわざ」は初月から大当たり。いきおいそのままに、翌月には個人事業主から株式会社サン・ルートへと法人化を果している。原さんは20代半ばにして、2店舗の繁盛店を率いる若き経営者となった。
創業メンバーの2人に、新たな仲間が加わり、風景もかわる。
・・・
続き

株式会社サン・ルート 代表取締役 原 光範氏

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2025年11月4日火曜日

株式会社LDFS 代表取締役 車田 篤氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社LDFS 代表取締役 車田 篤氏登場。

本文より~

神宮前で輝くアメリカンカルチャーの象徴。

グルメ、ファッション、カルチャーがカラフルに交差する神宮前。その一角にある、2007年のオープン以来行列の絶えない店――「THE GREAT BURGER」。
南カリフォルニアをイメージした空間に、アメリカンビーフ100%のパティと自家製天然酵母バンズ。アメリカンテイストなインテリアやグッズに加え、店内表示もほぼ英語のみ。「料理だけでなく、空間すべてを楽しんでほしい」というオーナーのコンセプトが、訪れる客の気分を引き立てる。
その仕掛け人は、株式会社LDFS代表取締役・車田 篤氏。一年の3分の1を渡米で費やし、“アメリカの今”を東京に持ち帰る男だ。

母から受け継いだ舌と鼻、父から受け継いだ感性。

専業主婦だった母は料理上手で、パンもお菓子も日常的に手作り。幼い車田氏は、母と一緒にパンをこねながら自然に料理の基礎と味覚を身につけた。10歳のころ母が喫茶店を開業、車田氏と飲食の絆はすでにこのあたりから芽生え始めていた。
「僕、味覚と嗅覚が異常に鋭いんです。喉を通った時に味が爆発するっていうか。友達には“鼻探知機”って言われてます(笑)。母からの最高の贈り物ですね」。
両親は高校の同級生同士。父は機械製造・販売会社から独立した合理派で、洋画やラジコン飛行機を始め趣味にとことんのめり込む人だった。
そんな父の影響か、子どものころから洋画に触れる機会が多く、ドライブインシアターではハリウッドのスケール感に心を奪われる。カラフルな街並み、自由なファッション、活気あるダイナーの雰囲気──これらの直感的な経験はすべて、自らの店をつくる際の土台になっているという。

迷走と挫折を経て上京。「東京、やべぇ!」

小学校までは野球一筋。中学では軟式テニス部でレギュラーを獲得するも、高校入学後に競技ルールが大幅に変更され、その違和感から帰宅組に。一浪して入った大学も、あまり興味が持てず2年の夏に中退。動物関連の専門校に進むため一旦帰郷するが、入学直前にその学校が倒産、21歳で上京し専門学校に通う。
「友達もいないし“東京コワイ”って思ってたのに、来てみたら『東京、やべぇ!』って(笑)」。
東京の専門学校でも、理想と現実のギャップに悩んだ車田氏は、就職への意欲も湧かず、卒業後はフリーター生活に。自分の未来図を描けずに、日々焦燥感だけが募っていった。

2000年のカフェブームが心に火をつけた。

そんな中、ミレニアムの幕開けと共に“東京カフェブーム”が花開く。その火付け役となったのは、専門学校時代に足しげく通った駒沢公園そばの「バワリーキッチン」だった。
「それまで飲食店と、インテリアやグッズ、カルチャーって言う概念は、ほとんどリンクしてなかったんですよね。それが全部ミックスされているのが“カフェ”で。『こういうの、いいよね。自分もやりたいな』って友達に言ったら、そいつが『やればいいじゃん』って」。
母は専業主婦から自分の店を始めた。父もサラリーマンから独立した。起業は何も特別なことではない。「自分だってやれるんじゃないか」。
アメリカ文化への憧れと自分の理想が心の中でやっと重なった。それからおよそ1年半の間、時給800円で月に450時間は働き、飲食の知識と経験を蓄えていった。
「親に、『店をやってみたい』って相談した時、賛成も反対もされませんでした。これまでのことから、どうせ無理だろうって思ったんでしょうね。これはヤバいって思って、もう一度事業計画を練り直しました」。
ある程度貯金も貯まったところで、再度親に自分の想いを打ち明けた。息子の変化を感じ取った両親は真摯に向き合ってくれた。父親が保証人になり、おかげで資金も調達できた。

原宿の地下15坪からのスタート。

2002年6月6日、原宿・京セラビル地下にカフェ「ease by LIFE」をオープン。15坪で家賃35万円のスケルトン、内装にこだわり開業資金1600万円をほぼ使い切ってしまった。運転資金ゼロでのスタートは想像以上に厳しく、どれだけ働いても一銭も残らなかった。オープン半年で資金はショート寸前、定休日をなくし朝9時から翌朝5時までぶっ通して働くという地獄の日々が始まった。
「朝9時に店に出て、家に帰るのが朝5時みたいな、そんな生活を365日続けました。それでも数万円残るかどうか。給料を払ってるスタッフに、僕が奢ってもらうような状態で」。
店から自宅のある曙橋まで、自転車で約20分。明け方、大型トラックとすれ違うたびに「このまま自転車ごと吸い込まれたら楽になるんじゃないか……」と思ったという。
─ そんなに辛かったのに、なぜ頑張れたんですか?
「やっぱりお客さんの反応ですね。『美味しかった』とか『ご馳走さま、また来ますね』とか、『頑張って下さい』とか。そういう言葉に救われました。仲間もいたし、スタッフもついてきてくれた。そういうのですかね」。
SNSや地図アプリもない時代。ビル地下の店は、その存在が認識されるまで時間を要したが、インターネットの普及に伴い、ブログで店を紹介してくれる人が徐々に増えた。来てくれるお客様の反応はいい。味や空間、接客の良さには自信がある。自分を信じ、仲間を信じて働き続けたことで少しずつ、しかし確実に店の評判は広まっていった。

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2025年10月30日木曜日

株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏登場。

本文より~

父の生き方に憧れた少年時代。

伊藤氏の父は山形県米沢市出身。父とその兄はスポーツ万能で、特に兄はノルディック複合でその才を発揮した。後に兄が競輪選手になったことから、その弟である父も兄と同じ道を選んだ。
兄弟と言えど性格は対照的。早々に鮮烈なデビューを飾った天才肌の兄は、練習嫌いが祟り数年で競輪界を引退。一方、努力家の弟は日々のトレーニングを欠かさなかった。40代前半で多くが引退する競輪競技において、父が50過ぎまで走り続けることができたのは地道な努力の賜物といえよう。
父が長く現役を続けた理由はもうひとつあった。それは愛する妻とその両親を安心させるためだった。山梨県内のスケートリンクでその妻に一目ぼれし、20代半ばで結婚した父。しかし「競輪なんて不安定な職業の男と結婚するなんて」と、彼女の両親に猛反対されたという。
「ならば、子どもが社会人になるまでは何が何でも現役で居続ける」。
それが父の決意だった。
「父は午前中に激しいトレーニングを積んで、午後は休むというスケジュールだったんです。学校から帰るといつも父がいて、毎日キャッチボールしたりお風呂に入ったり。夕食も必ず一緒で、家族団らんの時間を大切にしていました」。
誰にも縛られず、自分の裁量ですべてを決める父の生き方に伊藤氏は憧れていた。
「だからもう、絶対サラリーマンにだけはならないって決めてました」。
父のトレーニングをサポートするため、母は栄養バランスの取れた食事を毎日ふんだんに作った。その影響で伊藤氏は幼いころから多品目の手料理を口にすることができ、舌は肥え、味覚も鍛えられていった。ゆえに、カレーライスもしくは焼きそばだけが鎮座する同級生の食卓には衝撃を受けたという。母の愛情で育まれたこの味覚が後に飲食業で開花する流れは、ある意味必然だったのかもしれない。

「学校辞めたら別れるから」彼女の一言で一念発起。

父と同じ競輪選手を夢見ていた伊藤氏は、自転車競技部のある高校に進むつもりだった。しかしある時、自分の運動神経でプロになるのは無理だと気づき、単願推薦で拓大一高に進学。ラグビー部に入るもルールを覚える間もなく試合に駆り出され、あばら骨を折ってしまう。やがて授業をサボるようになり、遊びやアルバイトに没頭。時には警察のご厄介になることもあったそうだ。
成績不振や出席日数不足がたたり、生徒の96%が進学できるという拓殖大学への道は閉ざされてしまった。生活指導主任教師に「美容師か調理師か自動車整備士か。そのどれかならコネで入れてやる」と迫られ、消去法で調理師を選択。
どうせならコネでいける所ではなく、最難関を一般で受験してみろと進められ、武蔵野調理師専門学校に合格した。
だがやる気のある生徒との差は歴然で、伊藤氏はまた学校をサボりだす。
そんなある日、高校時代から付き合っていた彼女に「これで学校辞めたら別れるしかないから」と最後通牒を突き付けられた。心を入れ替えた伊藤氏は、再び学び舎へと戻る決意をする。
「髪の長さなど校則の厳しい学校だったんで、玄関先で父に坊主頭にしてもらったんです。そのとき思わず号泣しちゃって。今でも時々父にからかわれますよ」。
家族仲のいい伊藤家ならではのエピソードだ。

ホテルからイタリアン、そして「ピアンタ」との出会い。

調理師学校を1年で卒業し、丸の内ホテルに就職。大手企業だけにきちんと休みはとれたが、一日中鍋をかき回しているような単純作業が多く、やりがいを感じられずにいたという。
「自分が一生懸命やっている仕事が、誰かの喜びにつながっている。そういう現場じゃなかったですね」。
将来的に家族との時間を大切にするならホテル勤めは理想的、しかし面白みには欠ける……そう思っていた矢先、イタリアンで独立を図ろうとしている先輩シェフに声をかけられた。入社10か月目、その先輩に引き抜かれる形でホテルを退職。朝から晩まで休みなしの激務に変わったが、お客様の喜びを肌で感じられることは嬉しかった。学びの多い日々をがむしゃらに過ごし、2年後には店のナンバー2にまで昇格。忙しすぎて彼女とは疎遠になってしまったものの、やりがいのほうが大きかったという。
店が代官山から銀座へ移転することになり、準備のため2か月間の休業を言い渡された。その間つなぎのアルバイト先として選んだのが、板橋駅前のビルにあった「ピアンタ」だった。

低迷していた「ピアンタ」を再生。

当時の「「ピアンタ」の経営母体は、かんぽ生命の旅行やツアーを専門に扱う旅行会社。独占営業を背景に売り上げは上々、そこで「レストランでも作ろう」という話が持ち上がった。1997年4月、自社ビルの1階に「ピアンタ」を開業、当初は素人集団による趣味的経営の様相が強く、一等地にもかかわらず月々の売り上げは300万円程度だった。
伊藤氏は店の改善に着手。メニューを一新するなど孤軍奮闘し、売上げが上向き始めた3か月目には「ピアンタ」にとってすでに欠くことのできない人材になっていた。ほどなく再招集をかけてくれた先輩に詫び、こうして伊藤氏は「ピアンタ」とともに歩み出した。
「バイト面接に来た学生に、『最近、このお店って料理長が変わりました?料理が美味しくなったって評判なんですよ』って言われて。あぁ、自分がやってることは間違いじゃないなって実感しました」。
この時、伊藤氏は23歳を迎えようとしていた。

地元のお客様に愛される店づくり。

伊藤氏が現場を完全に掌握してからの「ピアンタ」は月商700万円台と安定、順風満帆の日々が続いた。学生バイトが皆同世代ということもあり、自分たちの働く店を盛りあげようと夜遅くまで熱く語り合った。今も続く「ピアンタという大きなサークルの仲間たち」という社風の下地はこの頃にできあがったそうだ。
「ピアンタ」の代表を兼務する旅行会社の専務を説得した伊藤氏は、23歳で「ピアンタ」2号店をオープンする。2階建ての一軒家で40坪・延べ90席の大型店は大当たりし、月商1200万円を叩きだした。ただ、2号店開設にあたり新たに採用した年配のスタッフたちと歯車がかみ合わず、専門学校時代のクラスメイトに声をかけ人事を刷新。その中で最も親しかった同級生のA氏とともに二人三脚で店を拡大し、25歳で3号店、その2年後に4号店と、順調に出店が進む。
出店にあたり立地へのこだわりは強く、不特定多数が往来する都心の繁華街は避け、地元に根付く店づくりを心がけている。そのおかげで、東日本大震災のときもコロナのときも、「毎日テイクアウトを買いに来るから潰れないでね」と話しかけてくれるコアな常連客を獲得できた。チェーン店に引けをとらない規模にまで成長した現在も、初心を忘れず、その地域に根ざした店を出させて頂くという姿勢は一貫している。

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株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏

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