先日、元キイストンの社員で現飲食店オーナーの岡部のお店に突然訪問。
繁盛していたので安心、おかげでごちそうになってしまった。(強制かな?)
キイストンに入社した時は、確かまだ21歳前後だったがしっかりとしてきた。
三軒茶屋に行った際は是非お立ち寄りください。
先日、元キイストンの社員で現飲食店オーナーの岡部のお店に突然訪問。
繁盛していたので安心、おかげでごちそうになってしまった。(強制かな?)
キイストンに入社した時は、確かまだ21歳前後だったがしっかりとしてきた。
三軒茶屋に行った際は是非お立ち寄りください。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社日本レストランエンタプライズ 代表取締役社長 浅井克巳氏登場。
本文より~
大学卒業を控え、就職活動を開始した浅井は、三菱重工や石川島播磨など、そうそうたるメーカーから内定をもらう。だが、旅好きな浅井が選んだのはまだ民営化されるまえの「国鉄」だった。研修の後、金沢鉄道管理局に配属された。ここが浅井の出発点になる。1年はホームで駅員をやり、電車も運転したことがあるそうだ。その後、本社とこの金沢の管理局を代わる代わる異動。後に、会ったこともない人間から「おまえが浅井か」と言われるようになる。というのも、当時の国鉄は違った管理局への異動があたりまえ。浅井のように同じ管理局ばかり異動するのは、特異なケースだったからだ。だから、知らぬ間に有名人になっていた。
もちろん、浅井が注目されたのはそれだけではないだろう。大蔵省(現、財務相)との交渉窓口など、重要な仕事を任されていく。本社と金沢を行き来するたびに新たな業務が与えられ、役職も上がった。駅長になったのは27歳のとき。28人の部下ができた。浅井よりベテラン選手がほとんどだ。 ・・・。
株式会社日本レストランエンタプライズ 代表取締役社長 浅井克巳氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エンカレッジ 代表取締役社長 小森寿文氏登場。
本文より~
この割烹料理屋に小森は8ヵ月ほど勤め、その後、友人に誘われるまま上京する。府中の小さなアパートが、東京暮らしの始まりだった。友人の父の紹介で、ある飲食店で働き始めた小森だったが、3年近くが経ち、「せっかく東京まで来たのだから、もっと派手な、東京っぽい店で働きたい」と思うようになったそうだ。
「そんな時、偶然、三宿の『ゼスト』を見かけたんです。暗闇のなかに浮かび上がるような感じで、これは凄いな、と。すぐに、お店を調べて働かしてくださいと押しかけたんです」。これがグローバルダイニングと小森の出会いだった。グローバルダイニングは厳しさでも有名だ。仕事ができないと容赦ない。「半年間ぐらい、アルバイトからもアゴで使われました。『おい、小森、これやっとけ』みたいな」。だが、その最初の関門を乗り越えた小森は、次第に中心メンバーから直接指導されるような立場になる。当時の、グローバルダイニングには、そうそうたるメンバーがいた。その人たちから直接、薫風を受けられたことが小森にとっては貴重な財産になる。・・・。
・2000人以上のトップセールスマンだけが集まる会社プルデンシャル生命保険で日本一を達成
・史上初、個人としてもチームとしても日本一を達成!
・30代半ばの営業マンで年収1億円突破を達成!
・5年でプルデンシャル営業マン最高位、エグゼクティブ・ライフプランナーに認定
など、次々で誰も達成できないような目標を達成してきた
プルデンシャルの中でも伝説的人物。(2009年3月に退社)
しかし、彼には誰にも知られていないヒミツがあった。
学生時代までは、まったく成功体験のない、ただの学生だったのです。
それどころか、家庭の事情から、どんどん落ちぶれていく生活を続けていたそうです。
本書では、そんなかつてダメだった男が、自分が望む目標を次々に達成できたある方法を公開しています。
◆未来の自分と契約を交わせ!
本書のタイトルにある『億万長者』とは、実は私(著者)のことではありません。
また契約書と言っても、何も「悪魔と契約しろ」と言っているわけでもありません。
本書のタイトルにある億万長者とは、「未来のあなた」のことです。
つまり契約書をかわすのは、あなた自身であり、あなたがこれから作る、「理想の自分」と契約をかわしてほしいのです。
目標達成は「理想の自分」「目標」にコミットメントできた人間だけが達成することができます。
もちろん、あなたの達成したい目標は「お金」ばかりではないでしょう。本書で紹介する方法は、あらゆる目標達成のための方法です。
「仕事の業績アップ」「起業を成功させること」「投資」「経営」などから、「ダイエット」「禁煙」「貯金」などの日常にある目標でも、すべてに使うことができる、そんな方法をご紹介しています。
本書で紹介する目標達成のための技術を持っていれば、あなたの人生は間違いなく変わります。たとえば、
・30代半ばに年収1億円を突破する
・あなたの年収を5000万円以上にする
・あなたの会社を一部上場へ
・営業で日本一の成績を叩き出す
・庭付きの一戸建ての家を購入する
・ダイエットでマイナス10キロを達成する
・幸せな家庭を築けるようになる
・どんな難関試験でも突破できるようになる
かもしれません。
(アマゾンより)
早いもので、2009年も残り10日あまり。
とにかく年齢を重ねるごとに1年がすごく早い。
経済市場の環境もこの数年、インターネットの存在でビジネスが大きく変化してきた。
旧態依然では、存続さえ厳しい時代に突入した。
その反面、小が大に勝てる時代にもなってきた。
そんななか、どの立ち位置にいるかでまったく違ってくる。
キイストンは、社長に会っている数が人一倍多いので、人脈を持っている。
今年残り少ないが、年末までにいくつか契約が待っている。
営業マンたちが、これは行けるとワクワク感出てきた。
やっぱり経営理念で、より多くの人に夢・希望を与えるといっている会社はそれでなくては・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社インテリジェントプランナー 代表取締役社長 原田裕介氏登場。
原田氏は元々、不動産賃貸の営業や通信関連の営業の仕事に就いていた。歩合給だったこともあり、いわゆる「体育会系」という言葉がしっくりくる社風。自分の生活のために、朝から晩まで走り回っていたという。その経験により、「商売とは何か?」が体に叩き込まれていたのだろう。だからこそ、「一刻」がOPENして、まず彼がとった集客方法は、当時では珍しいチラシ配りだった。「今でこそほとんどのお店が路上でチラシを配るなど、いわゆるキャッチをしていますが、あの頃それをやっていたのはカラオケ店ぐらいだったんです。でも、街中にはおなかをすかした人が山ほどいる。そんな方々に、『どうですか?』と一人ずつ声をかける。まぁ営業ですよね。それが、何よりの宣伝になっていたんです」。原田氏はそう語る。また、「お客さまを呼んでくれた仲間のためにも、俺たちはいい接客と料理を提供しよう」と、店外と店内のスタッフの間に自然とチームワークが生まれていったのだという。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社石焼ビビンパ 代表取締役社長 松原直彦氏登場。
松原は開業医の長男として1961年、福岡県北九州市で生まれる。弟、妹の三人兄弟。裕福な家庭だったこともあり、何不自由のない生活を送る。子どもの頃からバイオリンを習っているのも経済的に恵まれていたからだろう。開業医の父をみて育ったからだろうか、「小さい頃から医学書」を読んでいたという。将来は、「医者になる」。それが当然の目標だった。だが、高校進学前に両親が離婚。進学後には父が死去した。一方、進学したのは、県内でも1,2を争う進学校。勉強に熱心で、夏休みも5日間しかないような学校だったらしい。それでも、医者を目標に勉強に精をだす松原だったが、この時点ではすでに音楽に強烈に惹かれていた。・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にフードインクルーヴ株式会社 代表取締役社長 加藤清司氏登場。
「最初は、自信がなかった」と加藤は正直にいう。いくら数字の管理はできても、店の経営となると、また違う次元の話だ。いい人がみつかるまでの「リリーフ」でなければ、断っていたかもしれない。「週の前半を香川で過ごし、水曜や木曜からはこちらという生活が続きました。でも、徐々に東京にいる時間が長くなっていくんです」。村さ来は、居酒屋の老舗であると同時に、日本のフランチャイズの先駆けでもある。オーナーの大部分が、加藤より、年も、経験も上。そのオーナーたちから厳しい声があがる。「香川と東京を行き来して経営ができるのか」と。その声に応えるように、東京で過ごす時間が長くなっていくのである。
「現場を知らない」、加藤は経営者として弱みになるようなことも平気で口にする。・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サンクスプラス 代表取締役社長 桝本幸典氏登場。
こうと決めたら一直線。まったくの未経験で株式会社グローバルダイニングの面接を受けた。同社が経営する「権八」に魅了されたからだ。「ジントニックの作り方も知らないのに、とにかくやらせてくれ」と。アルバイトからでいいのではないか、という担当者の言葉に耳を貸さず、ともかく「正社員で」の一点張り。ついに根負けした担当者が社長に合否を委ね、社長があっさり採用してくれた。ただし、面接官の言う通り、そこからがたいへんだった。実は、同社には正社員とアルバイトに大きな違いはなかった。アルバイトでも長ともなれば平気で正社員を叱りつける。当然、カクテルひとつ作れない桝本には叱責が飛ぶ。実力では到底かなわない。腕力だけでは勝てないことがあると初めて悟った。がむしゃらに働いた。「5倍、10倍、働けば、絶対、勝てる」そう思いながら。それから半年で「体重は13キロ減った」そうだ。・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ピューターズ 代表取締役社長 松下義晴氏登場。
「向こうを八時にでればだいたい10時には店に着く」と松下はいう。向こうとは、湘南の海のことだ。高校を卒業した松下は、実家の寿司屋に就職。だが、仕事より先にサーフィンにハマってしまった。だから、明け方から海に行き、台風が来ると知ると、心を高鳴らせてしまうのだった。一方、寿司屋の修行でも手は抜かなかった。「ただ、次男がやがて本格的な寿司屋へ修行に行くんですが、後で一緒に店をやるようになって弟をみているとやはり基本ができているんですね。私の場合は、実家の店で2年、親戚の店で2年修行させてもらったんですが、上の人が入れ替わったこともあって、なかなかちゃんと修行ができなかった」とも言っている。・・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社リアルテイスト 代表取締役社長 路次徹夫氏登場。
本文より~
中学卒業後、路次は私立の泉州高校に進学した。サッカーが盛んな県立高校に行きたかったが失敗してしまったからだ。この私立高校は、全校で女子生徒1000人に対して、男子生徒わずか100人。もともと女子高だったところに、進学校をめざし、男子のみの特進クラスを設けたようなものだった。授業は朝8時~夜8時まで続いたが、「だんじり祭りの日以外は、一度も休まず通った」という。ところで、路次は、毎日自転車で通っている。女子生徒で満席になるバスに乗るのがためらわれたからだ。・・・・。
もし独立したいなら、また人の上に立ちたいなら、20代、30代前半は、無理してでも人の2~3倍の絶対的な仕事量をこなしてほしい。
仕事の量と続けた期間が、その人間の成長を促進させるはず。
理由は簡単。人の倍することで1年が半年でできる。またそれを続けることでさらに成長を倍増する。
あとは新しいチャレンジを自ら進んでやってみること。
最近、甘くしていたことが実は成長を止めていたことに気がついた。
もう少しで社長として、また年齢相応の仕事ができそうかも・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社かばはうす 代表取締役 松田幸紀氏登場。
本文より~
小・中・高と、野球に明け暮れる。これが松田の記憶だ。「まとめ役を好んでやり、野球ではもちろん、クラスでもリーダー的な存在だった」という。一方で、いずれ「洋菓子店」を引き継ぐだろうと考えていた。高校卒業後、京都の「調理学校 製菓衛生士課」に進学したのも将来、店を引き継ぐための準備だった。この学校でケーキ職人の土台を作った松田は、その後、京都の、ある「ケーキ屋」に入店し2年間、修行する。しかし、彼が2年の修行を終わる頃になって祖父と父が店をたたんでしまった。松田の未来図が崩れていく。
母から「居酒屋」を引き継いでくれないかと誘われたのは、そんなとき。快諾とはいかなかったが、松田は、居酒屋の経営に初めて乗り出すことになった。この店が「かばはうす」の起点になる。引き継ぐといっても、居酒屋のノウハウはない。マスクをかぶりケーキをつくるケーキ職人とは、まるで違うにぎやかな世界だ。だが、むしろこちらのほうが、水があった。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社せたが屋 代表取締役 前島司氏登場。
本文より~
失意の中でゴルファーの道も諦め、父親の経営する割烹料理屋を手伝おうと池袋へ戻った。しかし、再婚した義理の母親とウマが合わず、黙って店を飛び出してしまった。その後有名プロゴルファーが作った会社で、ゴルフ会員権の営業をしたり、電話営業の会社でひたすら電話をしたりするのだが、どれも1年と続かなかった。唯一長く続いた仕事は「ペンキ屋」。自分の都合で仕事の段取りを組み立てられ、給料もよかったからだ。3年勤めて、その後、独立。多くのお客さんが自分についてきてくれたおかげで、仕事は順調だった。
この頃、前島は、すでに「ラーメン屋をやろう」と心に決めていた。仕事が終わった後に同僚と飲みに行ったり、食事に行く機会が増えた。〆はラーメン。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社RYコーポレーション 代表取締役 横山藤雄氏登場。
本文より~
25歳で独立する、と考えていた。だから、その年齢に達した横山は、7年間勤めた会社を退職した。「いま思えば有頂天になっていたんですね。結局、周りに説得され、その歳での独立は断念しました」。振り返れば、その決断が、のちにより大きな横山自身を作り上げるきっかけとなる。起業をあきらめた横山は、より大きな舞台、つまり年商80億円、34店舗の精肉、スーパーを経営する会社へ転職する。一つの挫折が、横山をさらに仕事に駆り立てる。「34店舗でトップになる」、25歳の横山はそう考え、ひたすら働いた。早いときは朝4時30分に、店に入っている。オープンは10時。通常でも7時30分には店に入り、同じスーパーに入っている店の前も掃除したということだ。精肉をさばく技術も徹底的に学び、研究した。・・・・。
他社とは違う大きな特徴。
●どこよりも多くの飲食企業の社長の生い立ちから独立までの背景とこだわりや理念を聞いている事実。
●景気や世の中の構造変化の激しいなか人材採用業務一筋に極めてきた事実。
●元キイストン社員が飲食業界で独立、人事として活躍している事実。独立2名、経営・人事関連4名を創出している事実。
これをうまく活用しよう。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社セクションエイト 代表取締役社長 横山淳司氏登場。
本文より~
早熟といえば、そうかもしれない。ただ周りの、たとえば同年代の友人たちと比較すると、そういえるだけで18歳の青年にとっては、ビジネスの道も、大学などへの進学も、そうかわるものではない。ただし、「高校時代の友人とは遊ばなくなりましたね。持っているお金の額も違うし。遊びに行くところも違いますから」と。大学には行かなかった横山は、その分、ビジネスの現場で、人間学や経営学、経済学も学んできたのではないだろうか。大学卒業の年齢となる22歳。横山は、単身、東京に進出してくる。お店を経営するためである。同じ22歳といっても、目的意識には雲泥の差がある。
「私が東京に来るまえに、父の会社で30坪程度の居酒屋を出すことになったんです。その店が『はなこ』の原点です。居酒屋は素人でしたから、職人さんたちとなかなかうまくいかなかった。そういう経験も、いまの財産になっています」。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
ここ最近も多くの飲食社長様を取材させてもらった。
麦企画・田原旬時社長
一滴八銭屋・大薮 由一郎社長
高田屋・鹿中一志社長
とり鉄・小林剛社長
リアルテイスト・路次徹夫社長
縁商事・ イ キョンミン氏
ゴダック・荒谷公彦社長
ダイネット・中川徹也社長
ケーズネットワーク・山友浩司社長
ピューターズ・松下義晴社長
ポポラマーマ・安家美津志社長
モミアンドトイ・エンターテイメント・川上統一社長
日本レストランエンタプライズ・浅井克巳社長
今月もあと5社は取材させてもらう予定である。
in-職(いんしょく)ハイパーの“クロスα”に株式会社ジェーシー・コムサ 代表取締役CEO 大河原毅氏登場。
「非凡な才能」という言い方をすれば、そうじゃないと大河原は否定するだろう。大河原には秀才の兄がおり、その兄と比較することで、劣等感を感じずにはいられなかったからだ。「エリート街道まっしぐら」といっていい兄、そして弟の自分は二度も落第という「栄光学園、初の汚名を持つ」身である。兄は東大に進学したが、大河原は当然それはかなわず、防衛大学を受験するが失敗、かろうじて上智大学に滑り込んだのである。・・・。
一度目の落第で、大河原には、ペナルティが課せられた。校庭でも遊ぶことが許されないのだ。「遊ばず、学べ」ということだろう。大河原は遊びもしなかったが、学びもしなかった。実は、一人で掃除を徹底的にやった。「他にすることがなかったから」というのが本人の弁。しかし、この大河原を見ていた神父が、少年の寡黙で献身的な姿に心を打たれた・・・。
「非凡な才能」という言い方をすれば、そうじゃないと大河原は否定するだろう。大河原には秀才の兄がおり、その兄と比較することで、劣等感を感じずにはいられなかったからだ。「エリート街道まっしぐら」といっていい兄、そして弟の自分は二度も落第という「栄光学園、初の汚名を持つ」身である。・・・。
さて、少し先を急ごう。上智大学を卒業した大河原は、大日本印刷を受けるが、失敗し、日本プラント協会という、今で言う経済産業省の外郭団体に就職する。しかし、仕事に満足できず再び大日本印刷にチャレンジする。万博要員。若い人には、ぴんとこないかも知れないが、当時の日本は経済成長の真っ最中にあり、それを象徴したのが、大阪府吹田市で開催された「日本万国博覧会」である。・・・。
いままでバラバラだったいくつもの出来事が、まるで最初から決められていたように、ひとつの線になり、つながる。万博終了後、フランクフルト駐在員の打診を受けた大河原だったが、それを断り、まだまだ水商売としか思われていなかった飲食業に進む。そう、前述のロイ・ウエストンに請われ、日本ケンタッキー・フライド・チキンの設立に参加するのである。・・・。
そんなときに、大河原は、アメリカの本社を訪れる。何かのヒントを探しにいく決死の思いもあったのだろう。しかし、本部はその直前に買収されてしまっていた。ここでも大河原は途方に暮れる。そのとき偶然、彼の肩を叩いてくれたのが、カーネル・サンダースと共にKFCコーポレーションの基盤を作ったピート・ハーマン氏なる人物だった。・・・。
店長からスタートし、1年で営業部長の要職に就き、その後、常務、副社長を経て1984年に代表取締役社長に就任する。大河原、41歳の時である。大河原が敬愛してやまない彼の父はかつて、息子の大河原に次のように言ったことがある。中学校で落第し、その報告をした時のことだ。・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社OEC(オーイーシー) 代表取締役社長 小口俊也氏登場。
本文より~
父からの誘いがあったのは、ちょうどそんな時であった。むろん、返事は「Yes」。こうして玉川に、尊敬する父との共同作業で、「郷林坊」という初の店舗が誕生した。「父が蕎麦を打ち、私が支配人となって。江戸会席、蕎麦会席をメインにしたお店でした。おかげさまでオープンから、順調に滑り出し、好調な業績を残すことができました。JAS時代の付き合いでパイロットの人や、Jリーグの選手やOBの人たち、女優さんにもいらしていただいて」。評判になる。一方で、小口は、蕎麦や豆腐料理の修業を重ねる。水産加工会社に入って日に何百匹という魚をおろして腕を磨いたこともある。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社グッドスパイラル 代表取締役 熊谷光裕氏登場。
本文より~
さて、熊谷氏は27歳のとき、株式会社グローバルダイニングに入社した。東京・恵比寿にある同社の「ZEST」をお客として訪れ、衝撃を受けたからだ。
「和気あいあいというより、ピーン!と空気が張り詰めていました。ホールスタッフの声がとてもハキハキしていて、体育会系の雰囲気。実にいい店!」。さっそく翌日、同店の門を叩いた。
しかし入社後、飲食業界未経験に近い熊谷氏が、「誰も、何も、教えてくれない~!」となげいていると、ある日、上司にこう言われてしまう。「教えてくれない?なんで自分で勝手に覚えていこうとしないの?」。
この言葉で、熊谷氏は自分の甘さを改めて認識し、その後、約2年間で同社のホールリーダーにまで昇格する。さらに、外食人として精進すべく、株式会社クリエイト・レストランツなどにも転職し、人気店の新規立ち上げなどに積極的に参画していくのである。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
同社代表取締役 青野玄氏は福岡県の出身。父親が転勤族だったことから、幼少時代は転校を余儀なくされるが、昔から勉強は得意な方で、中学・高校は名門ラ・サールへ進学する。
「別段、変わったところはなく、普通の子だったと思いますが、小さい頃から周りに流されるのがとにかく嫌いでしたね。ラ・サールに通っていた頃は、周りはほとんど東大進学を目指していました。そうやってそのままエリートサラリーマンになって、一流企業に就職する…という道が、私には描けなかった」と話す青野氏。
そんな青野氏が選んだのはクリエイティブな仕事だった。
「メディアとか映像とか、そういうクリエイティブな仕事なら、受け身ではなく、すごくアグレッシブな人生を送れるのでは…と期待したのです」と青野氏。・・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社平城宛 代表取締役社長 鏑木順之氏登場。
正しいと思ったことは、曲げない。だから、意見が食い違い会社を辞めざるをえないこともあった。鏑木 順之、株式会社「平城宛」代表取締役社長の過去を振り返ると、そんな葛藤が見えてくる。
「平城宛」はいうまでもなく、昭和45年開業の焼肉の名門店。株式会社「平城宛」は、関東圏に焼肉専門店「平城宛」をはじめ、5業態32店舗を展開する老舗のフードビジネス企業でもある。創業者は、現在会長を勤める内田 寛氏。鏑木は、今年、2009年4月、その内田氏から社長椅子を引き継ぐことになった。
鏑木が「平城宛」に入社したのは、26歳の時。すでに、大工、ガソリンスタンド、居酒屋、焼肉店など、職を転々として、この年に「平城宛」に入社することになる。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ケーズカラナリープランニング 代表取締役 越野健太郎氏登場。
本文より~
越野がまず思い付いたのは「ネットショッピングの運営」である。いまの「楽天」のスタイルを考えるとわかりやすい。数人の仲間と共に事業化のプランも立てた。
しかし、資金不足で断念。越野は「いまでも惜しいことをした」と悔しがる。たしかに順調に行けば、日本でネットショッピングを初めて実現していたかもしれない。「楽天」が登場するのは、それから数年後のことである。
構想を断念しなければならなくなったことで、「独立」という思いだけが残ってしまった。そんなとき、ふとひらめいたのが、良く通っていた「Bar」のこと。あの「Bar」でちゃんとした食事を出せばどうなるか、と。後から振り返れば、これが飲食業と越野が、細い糸で結ばれた瞬間だった。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鳥貴族 代表取締役社長 大倉忠司氏登場。
幼少期は恥ずかしがり屋だったという大倉氏だが、小学の頃からはスポーツ万能で、学級委員を務めたこともあった。高校まで明確な将来の目標がなかったものの、学生時代にはじめたビアガーデンのアルバイトで一気に飲食業へひかれてゆく。
「ビアガーデンでオーダーテイクなどを経験し、接客業はなんて楽しいんだ!と思いました。当時、お酒も覚えたばかりで、酒のもつ魅力にも取り付かれました(笑)」
そして高校卒業後、大倉氏は辻調理師専門学校へ入学し、和・洋・中をひと通り学ぶ。リーガロイヤルホテルに入社後は、2年間、ホールを経験。その後、キッチンへの異動をすすめられたが、接客が楽しかったのでホールで働き続けたという筋金入りのサービスマンである。
ホテルのかしこまったサービスから、ビアガーデン時代のフランクな接客へ。大倉氏の中で接客を追求する姿勢はより一層強くなり、知人の誘いを受けて焼き鳥店で働くようになる。もちろんカウンター越しの居酒屋の対面接客が魅力だったからだ。・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社ヘッズ 代表 山本宇一氏登場。
本文より~
山本社長が空間デザインについて学んだのは20代前半の頃だ。都市計画、地域開発などのプランニング会社に約3年勤めた経験が、その後のキャリアのベースになっている。意外にも、建築分野を専門で勉強した経験は一度もないという。
そんな山本氏が飲食業界に足を踏み入れたのは29歳の時だった。東京・西麻布のレストラン「ZARA」を立ち上げたのだ。以前から自分の店を立ち上げたいと考えていた山本氏の念願が叶った瞬間でもあった。
その後はクラブなどを出店させ、バブル期の真っ只中、次々とヒットを飛ばした。さらに97年、同社一号店となる「バワリーキッチン」を展開し、カフェ・ブームを巻き起こしていくのである。
山本氏は飲食企業に勤務したこともなければ、飲食の先輩や師匠から商売のやり方を伝授された経験もない。だから彼の立ち位置はいつも“飲食業”ではない。“都市型消費者に新しいライフスタイルを提案する”という目線を根底に貫いて、空間やデザイン、商材となる料理などをクリエイトしているのである。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アイテム 代表取締役社長 伊原純子氏登場。
本文より~
現在、「ごっつい」は、関西の1店舗を含め、20店舗ある。いずれの店もチェーン店と言われないように、内装も、サービスも違うものに仕上げている。この20店のうち、8店舗は「のれん分け」によって、元従業員が出店した店である。いまだ撤退店はゼロというから驚かされる。「私も専門学校出身。いい大学を出て、いい会社に入って、といったような経験はしていません。うちに入ってくる子も、高卒が多い。でも、やればできるんだと、そういうことを教えてやりたい」と彼女。たとえば、「3年、がんばって、のれん分けで独立すれば、月収100万円も可能」ということだ。・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ファイブグループ 代表取締役社長 坂本憲史氏登場。
本文より~
大学時代は友達も決して作ろうとせず、格闘技と夜のバイトに没頭した日々の社長の坂本氏。その経験から、「人とのつながりのない人生は無意味だ」という価値観を持ち始めた。そして、人と触れ合う仕事=飲食業と考え、プロントコーポレーションに入社したのが大学卒業後のこと。赤字店を黒字に変えるなどの結果を残し、27歳で退職。その後2年半は、和食店やラーメン店、バーなどを掛け持ち。そして30歳で独立を果たした。そんな坂本氏は、人と触れ合うことの大切さを、従業員ひとりひとりにも伝えているという。「たとえばある店舗には、『一発ギャグ…時価』というメニューがあります。これも、ルールなしの社風から生まれたメニューのひとつ。注文が入ったら、その場でスタッフがギャグを披露するんです。まぁ、たいてい失笑ですけど(笑)でも、そこでは確実にコミュニケーションが成立している。つまり、人との触れ合いがあるんです。ギャグの出来はおいといて、きっとそのスタッフにはなんらかの気づきがあるはずです。自分たちで考えて、工夫して、やってみることで、成長できる。そのキッカケを与えるのが、ファイブグループなんです」と坂本氏は語る。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ろのわ 代表取締役 澁谷剛氏登場。
本文より~
卒業は1987年。円高不況の煽りを受けた就職氷河期。それでも澁谷は希望通り大和證券に入社する。当時の証券業界はNTTの上場もあり、個人が市場に参加しはじめた頃。バブルに日本中が浮かれる前夜でもあった。
澁谷は支店に配属され、個人を相手に株式投資をアドバイスする仕事に就く。バブルの頃は、それこそ「どの会社の株をお勧めしても上がる時代」だったそうである。
支店におよそ6年。その後、本部に移り、法人を対象にした業務に移行する。主にIPOという新規上場のアドバイスを行うようになる。このとき彼が手がけたIPOには有名企業がズラリと並ぶ。「エイベックス」「有線放送」「楽天」「サイバーエージェント」「電通」「総合警備」などなど。・・・・。
先日、5月8日のゴールデンウィーク明けから続けていた100日連続受注を無事達成した。
また、in-職ハイパー内の編集記事「飲食の戦士たち」も13日の更新で100人の社長登場になる。
そしてキイストンも創業してこの22日で丸17年になる。
なんでも続けると自信が付き、信頼と実力が付いてくる。
どんな些細なことでも継続していくことは凄いこと。
最近、特に9年連続200本打ったイチローの言葉がよくわかる。
先日、夜自宅の外を歩いていると
近くで悲鳴が聞え女性が男性にはがいじめされていたので助けた。
※といっても相手が驚いて逃げて行っただけだが・・・。
品川駅近くのオフィス街で環境が良いはずなのに油断できない。
キイストンの社員も女性の方が多くて心配だが、
男性社員より、はるかに強いんで問題ないか?(笑)
最近も多くの社長様を取材させてもらった。
ジェーシーコムサ・大河原毅社長
日本ケンタッキーフライドチキン・中川達司専務
升本フーズ・塚本光伸社長
紅花・青木四郎社長
ケーズカラナリープランニング・越野健太郎社長
チャプチーノ・福田清盛社長
かばはうす・松田幸紀社長
石焼ビビンパ・松原直彦社長
RYコーポレーション・横山藤雄社長
せたが屋・前島司社長
由ら・吉崎俊朗社長
チキンスープカンパニー・石崎弘美様
サンクスプラス・桝本幸典社長
ゴールデンマジック・山本勇太社長
これだけでもなかなかスゴイ!!
今月、あと10社は取材させてもらう予定である。
おそらくこれだけ飲食の経営者に会って話を聞いているのは業界No.1だろう。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ジャパンフーズコーポレーション 代表取締役 藤原司郎氏登場。
本文より~
昭和61年にOPENした『しゃぶしゃぶうどん茶屋 花咲』をはじめ、『ピッツェリア ラ・パスタ陶』、『伊太利亜料理 ラ・パスタ陶』を展開する株式会社ジャパンフーズコーポレーション。その代表である藤原司郎氏(57歳)は、非常にユニークな経歴を持っている。実は同氏、この会社を設立する前まで、首相をはじめとした様々な政治家の秘書を務めていた人物なのだ。・・・。
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