1992年10月22日、大安吉日。
その日にキイストンがスタートした。
それから17年が経ち、18年目突入!!
感謝!!
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ケーズカラナリープランニング 代表取締役 越野健太郎氏登場。
本文より~
越野がまず思い付いたのは「ネットショッピングの運営」である。いまの「楽天」のスタイルを考えるとわかりやすい。数人の仲間と共に事業化のプランも立てた。
しかし、資金不足で断念。越野は「いまでも惜しいことをした」と悔しがる。たしかに順調に行けば、日本でネットショッピングを初めて実現していたかもしれない。「楽天」が登場するのは、それから数年後のことである。
構想を断念しなければならなくなったことで、「独立」という思いだけが残ってしまった。そんなとき、ふとひらめいたのが、良く通っていた「Bar」のこと。あの「Bar」でちゃんとした食事を出せばどうなるか、と。後から振り返れば、これが飲食業と越野が、細い糸で結ばれた瞬間だった。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鳥貴族 代表取締役社長 大倉忠司氏登場。
幼少期は恥ずかしがり屋だったという大倉氏だが、小学の頃からはスポーツ万能で、学級委員を務めたこともあった。高校まで明確な将来の目標がなかったものの、学生時代にはじめたビアガーデンのアルバイトで一気に飲食業へひかれてゆく。
「ビアガーデンでオーダーテイクなどを経験し、接客業はなんて楽しいんだ!と思いました。当時、お酒も覚えたばかりで、酒のもつ魅力にも取り付かれました(笑)」
そして高校卒業後、大倉氏は辻調理師専門学校へ入学し、和・洋・中をひと通り学ぶ。リーガロイヤルホテルに入社後は、2年間、ホールを経験。その後、キッチンへの異動をすすめられたが、接客が楽しかったのでホールで働き続けたという筋金入りのサービスマンである。
ホテルのかしこまったサービスから、ビアガーデン時代のフランクな接客へ。大倉氏の中で接客を追求する姿勢はより一層強くなり、知人の誘いを受けて焼き鳥店で働くようになる。もちろんカウンター越しの居酒屋の対面接客が魅力だったからだ。・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社ヘッズ 代表 山本宇一氏登場。
本文より~
山本社長が空間デザインについて学んだのは20代前半の頃だ。都市計画、地域開発などのプランニング会社に約3年勤めた経験が、その後のキャリアのベースになっている。意外にも、建築分野を専門で勉強した経験は一度もないという。
そんな山本氏が飲食業界に足を踏み入れたのは29歳の時だった。東京・西麻布のレストラン「ZARA」を立ち上げたのだ。以前から自分の店を立ち上げたいと考えていた山本氏の念願が叶った瞬間でもあった。
その後はクラブなどを出店させ、バブル期の真っ只中、次々とヒットを飛ばした。さらに97年、同社一号店となる「バワリーキッチン」を展開し、カフェ・ブームを巻き起こしていくのである。
山本氏は飲食企業に勤務したこともなければ、飲食の先輩や師匠から商売のやり方を伝授された経験もない。だから彼の立ち位置はいつも“飲食業”ではない。“都市型消費者に新しいライフスタイルを提案する”という目線を根底に貫いて、空間やデザイン、商材となる料理などをクリエイトしているのである。・・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アイテム 代表取締役社長 伊原純子氏登場。
本文より~
現在、「ごっつい」は、関西の1店舗を含め、20店舗ある。いずれの店もチェーン店と言われないように、内装も、サービスも違うものに仕上げている。この20店のうち、8店舗は「のれん分け」によって、元従業員が出店した店である。いまだ撤退店はゼロというから驚かされる。「私も専門学校出身。いい大学を出て、いい会社に入って、といったような経験はしていません。うちに入ってくる子も、高卒が多い。でも、やればできるんだと、そういうことを教えてやりたい」と彼女。たとえば、「3年、がんばって、のれん分けで独立すれば、月収100万円も可能」ということだ。・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ファイブグループ 代表取締役社長 坂本憲史氏登場。
本文より~
大学時代は友達も決して作ろうとせず、格闘技と夜のバイトに没頭した日々の社長の坂本氏。その経験から、「人とのつながりのない人生は無意味だ」という価値観を持ち始めた。そして、人と触れ合う仕事=飲食業と考え、プロントコーポレーションに入社したのが大学卒業後のこと。赤字店を黒字に変えるなどの結果を残し、27歳で退職。その後2年半は、和食店やラーメン店、バーなどを掛け持ち。そして30歳で独立を果たした。そんな坂本氏は、人と触れ合うことの大切さを、従業員ひとりひとりにも伝えているという。「たとえばある店舗には、『一発ギャグ…時価』というメニューがあります。これも、ルールなしの社風から生まれたメニューのひとつ。注文が入ったら、その場でスタッフがギャグを披露するんです。まぁ、たいてい失笑ですけど(笑)でも、そこでは確実にコミュニケーションが成立している。つまり、人との触れ合いがあるんです。ギャグの出来はおいといて、きっとそのスタッフにはなんらかの気づきがあるはずです。自分たちで考えて、工夫して、やってみることで、成長できる。そのキッカケを与えるのが、ファイブグループなんです」と坂本氏は語る。・・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ろのわ 代表取締役 澁谷剛氏登場。
本文より~
卒業は1987年。円高不況の煽りを受けた就職氷河期。それでも澁谷は希望通り大和證券に入社する。当時の証券業界はNTTの上場もあり、個人が市場に参加しはじめた頃。バブルに日本中が浮かれる前夜でもあった。
澁谷は支店に配属され、個人を相手に株式投資をアドバイスする仕事に就く。バブルの頃は、それこそ「どの会社の株をお勧めしても上がる時代」だったそうである。
支店におよそ6年。その後、本部に移り、法人を対象にした業務に移行する。主にIPOという新規上場のアドバイスを行うようになる。このとき彼が手がけたIPOには有名企業がズラリと並ぶ。「エイベックス」「有線放送」「楽天」「サイバーエージェント」「電通」「総合警備」などなど。・・・・。
先日、5月8日のゴールデンウィーク明けから続けていた100日連続受注を無事達成した。
また、in-職ハイパー内の編集記事「飲食の戦士たち」も13日の更新で100人の社長登場になる。
そしてキイストンも創業してこの22日で丸17年になる。
なんでも続けると自信が付き、信頼と実力が付いてくる。
どんな些細なことでも継続していくことは凄いこと。
最近、特に9年連続200本打ったイチローの言葉がよくわかる。
先日、夜自宅の外を歩いていると
近くで悲鳴が聞え女性が男性にはがいじめされていたので助けた。
※といっても相手が驚いて逃げて行っただけだが・・・。
品川駅近くのオフィス街で環境が良いはずなのに油断できない。
キイストンの社員も女性の方が多くて心配だが、
男性社員より、はるかに強いんで問題ないか?(笑)
最近も多くの社長様を取材させてもらった。
ジェーシーコムサ・大河原毅社長
日本ケンタッキーフライドチキン・中川達司専務
升本フーズ・塚本光伸社長
紅花・青木四郎社長
ケーズカラナリープランニング・越野健太郎社長
チャプチーノ・福田清盛社長
かばはうす・松田幸紀社長
石焼ビビンパ・松原直彦社長
RYコーポレーション・横山藤雄社長
せたが屋・前島司社長
由ら・吉崎俊朗社長
チキンスープカンパニー・石崎弘美様
サンクスプラス・桝本幸典社長
ゴールデンマジック・山本勇太社長
これだけでもなかなかスゴイ!!
今月、あと10社は取材させてもらう予定である。
おそらくこれだけ飲食の経営者に会って話を聞いているのは業界No.1だろう。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ジャパンフーズコーポレーション 代表取締役 藤原司郎氏登場。
本文より~
昭和61年にOPENした『しゃぶしゃぶうどん茶屋 花咲』をはじめ、『ピッツェリア ラ・パスタ陶』、『伊太利亜料理 ラ・パスタ陶』を展開する株式会社ジャパンフーズコーポレーション。その代表である藤原司郎氏(57歳)は、非常にユニークな経歴を持っている。実は同氏、この会社を設立する前まで、首相をはじめとした様々な政治家の秘書を務めていた人物なのだ。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社ノン ピウ ファーメ 代表取締役 柿沼寛之氏登場。
本文より~
祖父が役人、両親は県庁勤務。行政一家の長男として生まれ、何不自由なく、幼少期を過ごす。小学生から俄然、スキーにはまるなど活発な少年だった。
中学から高校、大学までそのスキーに熱中。大学2年生のときにはプロスキーヤーの資格を取得し、講師ができるまでになっていた。
大学3年、スキーを通して知り合ったいまの奥様との間に、長女が生まれる。
スキーばかりに明け暮れていた青年に、にわかに次のステージが姿を現しはじめたのはこの頃である。
大学卒業後、アパレル副資材を扱うTENTACに入社。評価され、深い感謝をしながらも8カ月で退職。家族でカナダに渡る。
カキ氷の店を開いた。夏までは良かったが冬に失速。生活も急に苦しくなる。「娘に毎日99セントのピザしか食べさせられないほど苦しかった」と振り返る。
ただこのときのひもじさが、それからの糧に。飲食を志したのも「食べるには困らないだろう」という発想から。・・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に和くら 那倉大輔氏登場。
高校卒業後は、サービスが学べるからと、都内の「ホテル専門学校」へ進学した。トムクルーズ主演の「カクテル」と言う映画を観て、バーテンダーを志すのもこの頃。「カクテルの勉強にのめり込んだ」という。だが、卒業後には、「店を持つためには料理ができなければ」と考え、和食料理店を修行先に選び、和の道を進み始める。
那倉の思考は、目的からの逆算で成り立っている。だから、わかりやすい。店を持つという目標に対しても、どのような筋道を立てればいいかをまず思考したのではないか。その計算とシナリオが、動き始めることになる。串焼き、豆腐料理の名店などで那倉は黙々と修行を重ねた。
腕には自信がある「僕の作った料理をぜひ食べて欲しい」と語るほどだ。しかし、不遜とは聞こえない。それだけの努力を伴っているからだ。・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社バグース 代表取締役 中田 琢也氏登場。
これまで中田氏は、アルバイトや社員の面接などで約1万人以上の面接をしてきたという。そんな中田社長は人材採用時に以下のことを重要視している。
「まずは第一印象です。面接部屋に応募者が入ってきた瞬間の姿勢や挨拶、最初の受け答えなどを重視しています。面接時に交わす言葉の端々には、その人の生きてきた人生観を垣間見ることができます。それを見極めて採用を決めています」。
加えて、何にでも興味を示す人は、入社してからもスポンジのようにいろんなことを吸収して、成長が早いという。また人間関係のトラブルをすぐに処理する人も成長の度合いが早いという。・・・・。