in-職(いんしょく)ハイパーの“クロスα”に株式会社ジェーシー・コムサ 代表取締役CEO 大河原毅氏登場。
■エリートになれなかった少年。
「非凡な才能」という言い方をすれば、そうじゃないと大河原は否定するだろう。大河原には秀才の兄がおり、その兄と比較することで、劣等感を感じずにはいられなかったからだ。「エリート街道まっしぐら」といっていい兄、そして弟の自分は二度も落第という「栄光学園、初の汚名を持つ」身である。兄は東大に進学したが、大河原は当然それはかなわず、防衛大学を受験するが失敗、かろうじて上智大学に滑り込んだのである。・・・。
■栄光学園で学んだこと。
一度目の落第で、大河原には、ペナルティが課せられた。校庭でも遊ぶことが許されないのだ。「遊ばず、学べ」ということだろう。大河原は遊びもしなかったが、学びもしなかった。実は、一人で掃除を徹底的にやった。「他にすることがなかったから」というのが本人の弁。しかし、この大河原を見ていた神父が、少年の寡黙で献身的な姿に心を打たれた・・・。
■学生時代に見せた非凡な才能。
「非凡な才能」という言い方をすれば、そうじゃないと大河原は否定するだろう。大河原には秀才の兄がおり、その兄と比較することで、劣等感を感じずにはいられなかったからだ。「エリート街道まっしぐら」といっていい兄、そして弟の自分は二度も落第という「栄光学園、初の汚名を持つ」身である。・・・。
■1970年万博。「カーネルおじさん」、日本に降り立つ。
さて、少し先を急ごう。上智大学を卒業した大河原は、大日本印刷を受けるが、失敗し、日本プラント協会という、今で言う経済産業省の外郭団体に就職する。しかし、仕事に満足できず再び大日本印刷にチャレンジする。万博要員。若い人には、ぴんとこないかも知れないが、当時の日本は経済成長の真っ最中にあり、それを象徴したのが、大阪府吹田市で開催された「日本万国博覧会」である。・・・。
■1号店は半年で閉店。会社は債務超過に。もう、後がない。
いままでバラバラだったいくつもの出来事が、まるで最初から決められていたように、ひとつの線になり、つながる。万博終了後、フランクフルト駐在員の打診を受けた大河原だったが、それを断り、まだまだ水商売としか思われていなかった飲食業に進む。そう、前述のロイ・ウエストンに請われ、日本ケンタッキー・フライド・チキンの設立に参加するのである。・・・。
■カーネル・サンダースの片腕、ハーマン氏との出会い。
そんなときに、大河原は、アメリカの本社を訪れる。何かのヒントを探しにいく決死の思いもあったのだろう。しかし、本部はその直前に買収されてしまっていた。ここでも大河原は途方に暮れる。そのとき偶然、彼の肩を叩いてくれたのが、カーネル・サンダースと共にKFCコーポレーションの基盤を作ったピート・ハーマン氏なる人物だった。・・・。
■社長就任、そして退職。
店長からスタートし、1年で営業部長の要職に就き、その後、常務、副社長を経て1984年に代表取締役社長に就任する。大河原、41歳の時である。大河原が敬愛してやまない彼の父はかつて、息子の大河原に次のように言ったことがある。中学校で落第し、その報告をした時のことだ。・・・。