in-職ハイパー編集長の“国谷淳平”率いる編集部のブログをスタートした。
国谷流のメッセージを乞うご期待。
今年1年振り返ってみるといろんな出来事があったが、それなりに充実した1年だったかもしれない。
とにかく、たくさんの飲食経営者の皆さんとの出会いがあり、1年間で150名以上の社長取材ができた。
これは大きな、大きな財産である。
飲食業界に多くの人材が集まるよう頑張らないといけない。
これがキイストンの使命だと改めて感じた。
2011年は、原点に戻り経営理念でもある“より多くの人に夢・希望を与える”を実践していく。
社員の個々のレベルアップするため教育面も強化し、工夫創造できる人材になってもらいたい。
また、関係各社の皆さんと共有しながら、強力なネットワークを構築したい。
今年1年、本当にありがとうございました。
1月4日より新年スタートします。
適性試験。
人が採りやすいので有効的なツールである。
事前に現在いる社員にも実施しておき
自社の社員のタイプを知っておくと
なおいい。
おかげさまで、マーケティングも兼ね各社様(100社強)のデータ取らせてもらっているが
どのポイントが高いといいかとかいろいろ見えてきた。
現在、約50社ほど導入してもらっているが
早く200社ほど導入してもらおう。
多くの飲食経営者にご登場頂いている“飲食の戦士たち”のトップページを21日よりリニューアルしました。
おかげさまで現時点で、約200社の社長に登場頂きました。
キイストンの目的、社会的な意義は、飲食業界を支えている経営者の生き様にスポットを当てることで、より多くの転職や独立志向の皆さんに飲食業界の奥の深さや魅力、そして働く人たちの思いを伝えれたらと考えています。
新卒者、フリーターの方やそれに失業中の方、それに独立志向の方たちに、記事を読んで頂く事で夢・希望のきっかけになればと考えています。
今後は、海外で活躍する飲食経営者にも登場してもらおうと考えています。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社大島ラーメン 代表取締役社長 大島啓二氏登場。
「夢を実現する」。わずか5万3000円の軍資金を握りしめ、列車に飛び乗った。「大宮あたりを通過したとき、建ち並ぶビルをみて仰天しました。東京はやっぱり凄いやって。実際は、まだ東京都にもついてなかったんですけどね(笑)」。何もかも、初めての東京だ。めざすは、帝拳、世界チャンピオン。だが、生活もある。親戚が経営しているラーメン店に住み込み、アルバイトを始めた。夕方までの時間を利用し、帝拳ジムで汗を流し、深夜2時、仕事が終わったあと、また走る、そんな日が続いた。どれぐらい経った頃だろうか。大島はアルバイトから、正社員になる。「店が忙しくなったのと、スタッフが辞めたりしたことが重なって、ジムに通う時間がなくなってしまったんです。ボクサーになろう、チャンピオンになろうと東京にでてきたのに、オレなにやってんだろうって。何でラーメン屋なんだろうって」。だが、この時の決断が、大島の一生を左右する。大島のラーメン人生が本格的にスタートした時ともいえるからだ。・・・。
in-職ハイパー“飲食の戦士たち”を通していろんな飲食企業の経営者に社長取材をしているが、
どの経営者も優秀な方ばかりだ。
それもそのはず。
優秀だから独立でき、また弊社が社長取材したいと思える会社になっておられるから。
では、社長がなぜ優秀か?
いろいろあるが一言でいうと他人以上に仕事の量をこなしてきたから。
量は間違いなく質を呼ぶ。
その仕事ぶりをまわりのスタッフ、またお客様、業者の方は必ず見ている。
そこに、こいつなら、この人ならと信用関係が生まれ、
まわりが自然に集まり仕事ができるようになる。
なので、いろんな個性特徴がありそのいくつかが特に突出していて優秀で当然。
そこに、ナンバー2がしっかりいる会社ならもっと伸びる。
ナンバー2は、必ずしも仕事ができるということだけではない。
社長に対し“絶対”でいれるかだ。
当然人間なんで好き嫌いはある。
ただ社長が好きだからでは長く続かない。
社長の生き様や考え方、価値観に共感できないと無理である。
仕事ができるとついつい、自己主張の強いナンバー2もいる。
元気も明るさもない根が暗いナンバー2もいる。
なにかにつけ他人の悪口や陰口、不満をいうナンバー2もいる。
社長に気を使わしているナンバー2もいる。
やはり、社長の人柄、または社長の理念に対して絶対的なYESマンでやれるナンバー2がいる会社は強い!!
大きくしていこうというなら経営者はナンバー2の採用に人一倍力を注いでほしい。そのためには、経営理念が必ず存在する。
“飲食の戦士たち”に登場頂いた飲食の社長も来年1月にはいよいよ200人になる。
その前に、トップページのレイアウトを大幅リニューアルする。
プロントコーポレーションの竹村社長、ダイヤモンドダイニングの松村社長、クリエイト・レストランツ・ホールディングスの岡本社長を既に取材させてもらっているが、年内にダイキチシステムの牟田社長、それにがんこフードサービスの小嶋会長にも取材させてもらうため1月はお楽しみ!! 乞うご期待ください。
プロ野球でいうと他球団の4番打者の加入で、キイストンが益々楽しみになってきた。
まだ名刺もできていないのに、入社時1ヵ月の目標を来週早々には達成する。今週の月曜に導入研修してたから一週間も経っていない。
普通に考えて、なかなかできるものではない。それをやるからすごいもんだ!!
伝説を作ってほしいし、いや伝説を作るだろうな。
それに加えて、今までとは違う雇用体系の営業チームを結成し教育指導中。ここが戦力になると大きく裾野が広がる。
「いい人材を採用してもらう。そのために何をするか」
型にはまらない提案もできる提案力とヒアリング力を付けるため日々皆が真剣に取り組める環境作りとキイストンイズムの継承をしていこう。
“より多くの人に夢・希望を与える”の経営理念のもとに・・・。
楽しみ。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に井筒まい泉株式会社 代表取締役社長 岡本 猛氏登場。
岡本伊三美というプロ野球選手を覚えているだろうか。現役引退後は、関西テレビ野球解説者を経て、サンケイ、南海、阪神、近鉄のコーチを歴任。1984年から1987年の3年間は、監督として近鉄バッファローズを率いている。今回、ご登場いただく株式会社「まい泉」代表取締役社長 岡本猛は、この元プロ野球選手の長男。母方の祖父は、富士火災の社長を務めた財界人でもある。「物心がついた頃には、父はもう、現役を引退していました。なので、私には解説者や、コーチ、監督としての岡本伊三美のほうがしっくりくるんです」。岡本が生まれたのは、大阪府茨木市だが、すぐに帝塚山に転居。小学校から、高校までは、教育大学付属の小・中・高で過ごしている。余談だが、岡本は、父とキャッチボールをした記憶がない。運動神経には恵まれていたが、根っからの野球オンチだという。岡本のその後をたどれば、アスリートの父よりもむしろ、大経営者であり、財界人でもある母型の祖父の血を色濃く受け継いだ気もする。もっとも岡本伊三美氏も近鉄専務取締役球団代表も務めるなど、財界人との交流は祖父に負けないものがあったに違いないが。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社ジョカーレ・ヴィゴーレ 代表取締役 森川秀一氏登場。
「中学卒業時に、憧れのホテルで修行をしようと門を叩いたのですが、高卒でなければだめだと断られました。だから、高校に行ったのはあくまで<高卒>の肩書を手に入れるためだったのです」と、森川。むろん、その3年間も無駄にしなかった。1年生からファミリーレストランでアルバイトを開始。飲食業を体験する。授業では、先生に頼み込み、一人、女子に交じって家庭科で料理を学んだ。そこまでするか、と一般人は思ってしまうが、料理人に一歩でも近づきたい森川にとっては、あたりまえの選択だった。何しろ小学校から、料理人に憧れ、卒業文集にそう記していたぐらいだから。これが、明確な料理人への第一歩となる。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に未来貢献株式会社 代表取締役 山本友大氏登場。
「兄たちと仲が悪かった」。長男とは6つ、次男とは4つ。年の離れた兄たちからすれば、最初は、からかっていただけかもしれない。だが、三男の山本は、すべてを真剣にとらえた。小さな隙間が大きな隔たりとなり、山本はどちらかといえば大人しい兄たちと正反対の生きかたをするようになる。「唯一、妹とは仲が良かったのですが、兄たちとはいまも連絡を取らないような関係です(笑)」と山本。一度、掘られた溝はいまでも埋まっていないようだ。それはともかく小学1年生から山本は、格闘技好きの父の薦めもあり、拳法を習い始め、中学時代には柔道で好成績を残している。一方、新聞配達のアルバイトを開始。家を出るための資金作りだ。「ともかく早く家を出たい」。そう思うようになったのは、兄たちと暮らす日々がわずらわしかったからにほかならない。そういう意味では、兄たちとの関係が山本の自立心を育てたことになる。
中学になると心に溜まった鬱憤を晴らすように、悪友たちともツルむようになる。柔道をやっていたからだろう。ケンカも強く3年生になると「番長」となって仲間たちを仕切るようになる。警察沙汰を起こしたり、新聞に載ったりしたのも、この頃だ。大人たちも手を焼く少年だったに違いない。だが、この、すさみ、荒れた生活から山本を救うのは、母のやさしさだった。「何をしても、母は私をかばってくれました。何をやってもこの子は悪くない、と」。もしこの時、母が見捨てていたとしたら、むろんいまの山本はない。母のために、山本は高校に進学し、ギリギリの出席日数だったが卒業もちゃんとしている。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ベイサイド・ダイニング 代表取締役 小林大悟氏登場。
4年の夏、まったく就職する気のなかった小林は将来について、バーなどの飲食店を経営するか、また面白くなりはじめたピアノの腕を磨いてプロのジャズピアニストを目指すかで迷っていた。父親はどちらの道でも応援すると言ってくれた。ところが母親はどちらにも大反対。もともと「公務員になってほしい」と願っていた母親にとって、息子が夜の街に入り浸り、食べていけるかどうかもわからない仕事を目指していることが許せなかったのだ。「普通に就職して! 今からでも就職活動をして!」と半ば泣きつかれた小林は、渋々ながらこれを承諾。ただ、採用試験を受けたのは1社。様々な業態の飲食業を見ることができ、経営も学べるという理由で選んだ「リンク・ワン」のみ。しかしこの就職がまた将来を大きく変えることとなり、小林は「いまの自分があるのは母のおかげ」と感謝している。・・・。
経費削減関連、食材関連、紙メディアやネットはもちろんTV関連の販促支援、物件情報、業務用フラワーなど飲食業界に必要なネットワークもようやく構築できた。
かなり強い商材、他には無いラインナップが揃った。あとはその層を厚くしていくだけ。
そのために社内の仕組化が急務である。
現在、居酒屋甲子園で優勝した「うまいもん炙り いざかや炎丸」(PrunZ)、「どすこい酒場 玉海力」(玉海力)、「七志ラーメン」(ナナシフードサービス)の自慢メニュー登場。
お試しください。料理バトラー
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社肉のやしま 代表取締役社長 八島且典氏登場。
子どもの頃から商売に興味を抱いていた八島が改めて「商売人はカッコいい」と思うようになったのは、母に連れられて行った豆腐店の社長を見てのことだった。周りも違った。田舎町と比較するとすべてがケタ違いに思えてくる。ちなみに、この豆腐店の社長は、いまでも八島の師匠であり、商売のイロハを教えてくれた恩人でもある。「人に認めてもらおうと思うな」「お金の使い方を学べ」、と、当時、言われたことをいまでも覚えている。特に後者は、身を持って覚えたことでもある。どういうことか。最初に入店した時の時給は450円。それが1ヵ月で500円になった。社長からは良くがんばったから昇給してやると言われた。すると昇給したことはもちろんだが、認められたことがうれしく、さらに努力をするようになったのである。これがお金の使い方の一例というのである。ところで今でもカウンターのなかで仕事をする八島は、当時から人一倍仕事に打ち込むタイプだった。豆腐屋は朝が早かったが苦にもならなかったと言っている。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
『武田あかねの食の応援団』11月のゲストは“ROI 恵島良太郎社長”です。
武田 クライアント数も、会員数も順調に伸びているとお伺いしています。「ファンくる」「グルリザ」とネーミングもユニークです。まず初めにこれらのサービス内容からお聞かせください。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社トップアンドフレーバー 代表取締役 山内勝常彦氏登場。
野球少年だった。それもピッチャーで、打順は常に4番か5番。野球の上手な少年だった。「たまたま野球チームをつくるというので、誘われたんです。それがきっかけですよね」、今回、ご登場いただく山内 勝常彦は、笑いながら子ども時代を振り返った。まさか、たまたま誘われた野球で飯を食っていこうと思うようになるなんて、本人も予想していなかったことだろう。中学になり、山内は、調布大会で優勝。都大会にも出場している。横手投げながら、スピードに乗った球は、凡打の山を築いた。あわや完全試合も経験している。当然、プロも視野に入ってくる。山内は多くのプロ選手を輩出した早稲田実業に進学。8年下には荒木大輔がいた。江川や掛布といったわれわれでいえばブラウン管のなかでしかみたことのない選手たちとも実際に戦っている。「でも、もういいかって気持ちもありました。だから、野球ができる大学には進まず、宮崎の航空学校を受験したのです」。だが、この受験に失敗する。2回受けたが、ついに合格のキップは手に入らなかった。挫折といえば一つの挫折だろう。パイロットになるという目標は砕け散った。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社三和ホールディングス 代表取締役社長 茂山幸一郎氏登場。
茂山12歳の時、突然、母が東京に移り住むと言い出した。実はこの頃、父親は東京進出を成功させており、東京と京都を行き来する生活をしていた。それがきっかけで、家族全員で東京に住むことになったのだという。最初は京都弁をからかわれたりしたこともあったそうだが、すぐに溶け込み、学級委員長に選ばれたりもしたそうだ。東京の中学に行くと、体育と美術以外の点数も急に伸びた。もともとスポーツは万能。クラスの仲間たちからも、すぐに認められたのだろう。中学ではソフトボール部に所属し、都立高校に進学して野球を始めている。主にピッチャーで、四番。白球を追いかけながら、茂山少年は、体躯のいい青年に育っていった。大学は明治。2度失敗し、明治に進んでいる。この頃の大学生は、どのような生活をしていたのだろう。茂山は。スキー同好会に入り、いまでいうパック旅行を企画。1シーズンに、900人の客を山に連れて行ったそうだ。「赤字ギリギリの1万5000円です。スキーが流行っていたこともあって、次から次に参加者があつまりました。主に女の子のお客様が多かったと思います(笑)」。採算割れの時もあったが、もともと儲けるという意識はなかったそうだ。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
日本航空よりパイロットが110人、客室乗務員が90人、休職者50人の合計250人の整理解雇を発表。
今まであこがれの職種であったパイロットやCAだが、今やその転職事情はきわめて厳しい。
インターネットの進出でテレビ業界や新聞・出版業界も厳しい。
そんななか、不人気業界の一つである飲食業界が、もしかして人気業界に変わるかも知れない。
ただし、そのためには定年まで長く働ける職場環境のある企業が数多く増えないと難しい。
先日、武田が取材した2011年8月で50周年迎える「月刊食堂」様(12月掲載予定)、また過去最高の収益出されている「料理王国」様(1月掲載予定)の話の中にヒントあるかも・・・。
乞うご期待ください。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”の社長取材をしているが
先週は、まい泉(井筒まい泉)の岡本社長、キャン・プランナーの小島社長、大島ラーメンの大島社長、DFCの阪田社長といろんなご経歴の社長とお会いした。
先週は特に今までとは違う環境、またバイタリティーある社長様の取材だった。
きっと今後独立したい方、現在どん底にいる方、田舎にいて東京に出てきたい方、業界未経験の方などいろんな方に元気になってもらえると思う。
決して、メディアに露出していない会社や規模がまだ小さくても、働きやすさやおもしろい会社が山のようにある。
我々の使命は、業界全体の採用通じて元気にすること。
もちろん、社長取材には弊社のスタッフを同席させているが、こんな機会は正直まず無いため社内も元気注入させてもらっている。
記事アップを乞うご期待!! ※毎週火曜更新。
縁商事様、この動画のおかげでテレビのニュース番組で取り上げられます!!
ただ採用だけでなく、もっと会社全体のPRにも関わっています。
やっぱり違います、我々のブレーンのテレビ制作会社は・・・・
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社Syonan Tonbi Project(しょうなん とん びぷろじぇくと) 代表取締役社長 小野寺 崇氏登場。
無事、高校に進学した小野寺は正式に野球部員になる。1年から試合に出場し、3年間4番バッターとして試合に出た。進学校ということもあったのだろう。日曜日は練習が少なく、時間があまった。1年生から小野寺は飲食店で、禁止されているはずのアルバイトを始めた。「女の子にモテるんじゃないかって。そんな理由からです(笑)」。まさか、このときのアルバイトが一生を決めるとは、本人が一番、想像できなかったはずだ。ただ、始めてみると、おもしろくてしかたなかった。接客・サービスに魅せられた小野寺は、関内のYMCAホテル専門学校に進学する。大学進学率100%の学校設立以来の、快挙だった。少年が青年になり、与えられた安穏な道ではなく、自らの意思で道を求め歩き始めたという意味で。学校に通いながら、ヒルトンホテルなどで実習を行う。これもまた、たのしくてしかたなかった。よほど接客という仕事に向いていたのだろう。卒業後、小野寺は「ブリーズベイホテル」に就職。ベルボーイ、フロント係を勤めた。だが、ここで将来に疑問を持つ。このままでいいのだろうか、と。結局2年で退職。求人誌に載っていた「平成フードサービス」に応募することになった。・・・。
前職の後輩の堀田君が運営するハンドカットログハウスの宿 「素楽(sora)」に、フラッと立ち寄った。
といっても栃木県の那須郡那須町だから東京からは180kmはある。行くって言っててなかなか行けなかったので約10年ぶりであったが会えてうれしかった。
本当にすばらしいペンションだ。是非ともオススメ!!
堀田君には、前職の営業所長時代、退職する最後のクォーターで全国ナンバー1の営業所になった時、チーフとして大変よく頑張ってくれた。今でも当時の記憶がよみがえってくる。
今度は、ちゃんと連絡入れてゆっくり泊まりに行くぜ。
母校である大学エグゼクティブ同友会があり名古屋に午後から入る。
名古屋で、2件仕事の打ち合わせし、会に参加した。
まわりに同じ大学の経営者がいないだけに安心感と親近感がある。
帰り、栄のテレビ塔周辺を通った。
学生の時とはずいぶん変わったと思うが、やはり懐かしさがある。
創業からの求人業務を軸としていくことは変わらないが、いろんな試み・新サービスを着々と進行中。
キイストンしかできないこと。
キイストンならでは。
これが、より多くの人に夢・希望を与え続けるという経営理念を実践することになる。
乞う、ご期待!!
2日までに、焼とりの八兵衛の八島社長、せい家の山内社長、 未来貢献の山本社長、ごっつの森川社長、ベイサイド・ダイニングの小林社長、湘南とんびプロジェクトの小野寺社長の取材が済んだ。
かなり、各社長からおもしろいお話聴けた。
皆さん、会社の大小や業態の違いはあるものの魅力的だ。
話を聴いて感じるのは、飲食企業の社長で自分の幸せだけ考えている社長は、間違いなく先が無い。
苦労無くして成長無し!!
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ダイヤモンド・ドリーム・ダイニング 代表取締役 小澤仁裕氏登場。
「個人投資家」。いまでこそ一般的な言葉だが、1970年代の個人投資家と聞けば、一部の資産家など、特別な人をイメージしがちである。今回、ご登場いただく(株)ダイヤモンド・ドリーム・ダイニング、代表取締役の小澤仁裕の祖父も、その時代を生きた個人投資家の一人だ。小学3年生の頃、両親が離婚。小澤は母と姉とともに、この祖父の元に身を寄せ、暮らすようになる。当時の記憶を伺うと、「祖父が、東京の銀行や証券会社などに行くときにくっついて行って、高島屋などで食事をしたという記憶がいちばん鮮明に残っていますね」とのこと。小澤の「食」の原点が顔をのぞかせる。一方、学業のほうはどうだったのだろう。「小学生の頃から勉強は好きでしたね。成績はクラスで一番。だから勉強で悩んだことはありません。ただ、小学5年生の頃、ガキ大将とのケンカがきっかけで友人たちが去っていってしまったのです。あの時は正直キツかったですね」。ところで、当時から起業という思いは、抱いていたのだろうか。「祖父の影響もあるのでしょう。わりと小さい頃から、将来、社長になりたいと思っていました」。子どもの頃の目標を実現することはむずかしい。はたして、小澤のおぼろげな目標はかたちになっていくのだろうか。・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エイチワイシステム 代表取締役 安田 久氏登場。
秋田県男鹿市は、秋田県の西部に位置し、日本海にひょいと突き出た男鹿半島の大部分を占める。「なまはげ」でも有名で、「男鹿のなまはげ」は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。人口は4万人足らず。株式会社エイチワイシステム 代表取締役 安田 久が、この市に生まれたのは1962年。父親は自衛隊の職員だったが、農業も営み小さな畑で野菜などを収穫し、生計を立てているような家だった。むろん、当時、コンビニもない。一軒のレストランもない。夜になると月明かりだけが頼りという辺鄙な田舎町だった。「小学校6年生の同級生は17人」だったと安田。中学校は5キロ先の隣町。夏は自転車で、冬は1日に5本というバスで通学した。野球部に入っていたこともあって、練習が遅くなって、このバスに乗り遅れるとさぁ、たいへん。灯りもない山道を一人歩いて帰らなければならなかった。「怖かったよね」と安田は当時のことを振り返る。ただ、怖いだけではなかった。家では、両親が毎晩のようにケンカをする。豚を飼っていたために、部屋のなかまで匂いが侵入する。TVで東京の生活を観たとたん、コンプレックスが生まれた。この田舎者の生活から、逃げ出したくてしかたなかった。・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ビッグイーツ 代表取締役社長 後藤 順氏登場。
一方、後藤はどのような家庭で育ってきたのだろうか。「父親は出版関係の会社に勤めていました。父を亡くしたのは高校3年生のときでした」と後藤。母親は、息子の後藤を信じ、「たいていのことは許し、希望も叶えてくれた」という。高校になると遠征も多くなる。経済的な負担も少なくない。何一つ文句を言わず、母親は、その費用を捻出してくれたそうだ。大学進学はもちろん考えた。1浪までしたが、アルバイトで入った「オープンカフェ」がたのしく、勉強よりもバイトに気持ちが傾き予備校にも行かなくなってしまった。結局、このカフェに就職。これが飲食業の始まりだった。この会社は、大型レストランやディスコも経営しており、当時の社長を尊敬していた後藤は「新店舗の立ち上げをはじめ、さまざまなことを経験させてもらった」という。19歳から数えて5年、24歳になるまで勤務。後藤の社会人としてのベースをつくったのは間違いなくこの会社だろう。その5年間で、多彩な人脈もできた。後藤はこういっている。「人脈はもちろんですが、人とのコミュニケーションの大事さ、店舗づくりのノウハウ、フード(商品)の大事さを、この5年間で学び、それがいまの財産になっています」。・・・。
フードアナリストの里井真由美さんお奨めのヤマサ醤油の“鮮度の一滴”減塩しょうゆを日本フードアナリスト協会の横井理事長より頂いた。
社員はじめ取引先やお客様含め皆喜んでもらった。
まだまだほしい方が多かったが、それは次回のお楽しみということで・・・・。
横井さん、そしてヤマサ醤油様ありがとうございました。
早いものである。
1992年10月22日に武田とキイストンを設立し、この10月22日で丸18年になる。
いつも夢・目標持ってワクワクした気持ちで、その時その時を一生懸命やってきたから今がある。
これからもコツコツ、お客様の視点で喜んでいただける仕事していこう。
仕事できるだけでありがたい。
社員には、自ら機会を作ってその機会でワクワクし、今の仕事量の3倍はやってほしいが・・・(笑)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ハートランド 代表取締役社長 竹 麓輔(佐藤 薫)氏登場。
「人が離れていく、それが一番辛かった」と竹は当時を振り返る。「どんなにたいへんでも信じ合える仲間がいればなんとか乗り越えられる。だけど、その時は、仲間のすべてを失いました」。傷心を癒すすべもなく、追い討ちをかけるように迫る借金返済の催促。竹は、命を絶つことを考えた。「最後に迷惑をかけた友人に電話をしたんです。遠く離れた九州のね。電話をすると、いまどこにいるんですか、というので、海が良く見えるドコドコだと。迷惑をかけたから一言謝っておきたかったんです。すると30分も経たないうちに、ヘリとか、パトカーとかが押し寄せてきたんです。枝が折れたりして、手間取っている間に」。だが、この未遂だけではなかった。もう一度、竹は未遂をしている。その時は枝ではなくバスルームの渡し棒が折れた。「生きろ」という啓示だったのではないだろうか。そんな竹を救ったのは、軟禁されるというもう一つの事件だった。むろん借金がらみである。「軟禁といっても、別段危害を加えられるわけでもなく、ただ、その屋敷で寝起きするだけでした」。2ヵ月間、軟禁されたことですっかり毒気が抜けた。世話になっていた社長から連絡があったのは、解放されてしばらくしてのことだった。・・・・。
株式会社ハートランド 代表取締役社長 竹 麓輔(佐藤 薫)氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社S.S.C 代表取締役社長 川口 洋氏登場。
社名『SUU・SUU・CHAIYOO』は、タイ語で『頑張れ・頑張れ・万歳』と訳す。この言葉、勇ましい意味なのに発音してみるとタイ語独特のかわいらしい音がして“どこかミスマッチな雰囲気がいい”のだという。
何事にもそんなユーモアを大切にする株式会社S.S.Cの社長・川口氏は、名付けた社名だけでなく自身の経歴もユニークだ。
19歳で海外ヒッチハイク旅行にハマり、就職した外務省では中東を専門とする業務を経験。その後、11年間勤務した外務省でのキャリアをあっさりと捨て、タイ料理店を開いた。「パワーある海外の文化を日本に紹介し、異文化交流の場を作りたかった!」。役人としてではなく一事業者としての価値提供に、今は並々ならぬヤル気とこだわりを持っている。
1969年6月、兵庫県に生まれた川口氏は、サラリーマンの父、そして母、4つ上の姉に囲まれて育つ。スポーツ好きは小さい頃からで小学校では野球、中学からはバレーボールに打ち込んだ。
その後、神戸大学法学部に入学した川口氏は、2年生(19歳)の時にはじめて海外旅行を経験する。ニュージーランドに1カ月間滞在してのヒッチハイク旅行。日本では味わえない空気や景色、そして言葉や食事、現地の人々との交流など肌で感じる海外のパワーが忘れられなくなり、それからは車、列車、船を使い地べたを這うような貧乏旅行にあちらこちら出かけていった(これまでに旅した国は40を越える!)。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
ここ最近、よく目にするのが○○○○円のコースが50%offというフラッシュマーケティングがいろんなところで、やたら目立つ。それこそ、全盛のホットペッパーを彷彿させる。
この値引き合戦が、元の客単価に戻らない薄利多売の泥沼にならなければいいがと思ってしまう。
飲食業界全体見ていると正直厳しい環境で、つぶれる店や大幅に閉店する会社が増えはじめている。
それもそのはず、個人の可処分所得が減っているから当然外食も減っている。
事務所が田町にあるが、近くの弁当屋もなんと300円台で十分満足する内容である。
今大事なのは経営者が自ら率先して法人まわりするとか、店内・店外にもっと出ること。
お客様が求めているのは、単に値段だけではないはず。
もっともっとお客様が望むマナの声・求めていることを感じとる、知恵絞って喜ばれることは何か考え実行してみる、新しいサービスにチャレンジなどしないと明日が無い気がする。
この1月、2月に商売繁盛するため今から動いてみては・・・・、そのタイミングですよ!!