なんと根室食堂様、 新業態に挑戦されるのがテレビに!! 日経スペシャル「ガイアの夜明け」 2月2日放送 | ||
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2010年1月30日土曜日
「ガイアの夜明け」2月2日放送、きっかけはin-職(いんしょく)ハイパーから。
2010年1月29日金曜日
海外武者修行・・・・シドニー編
これからの飲食企業の成長においては、海外進出も選択のひとつである。
ただ、それだけではない。優秀な人材発掘、また人材育成においても海外は魅力的だ。
今回、シドニーの鱒屋グループ様×日本の玉海力様の人材交流をきっかけにドンドンと役立つきっかけを作っていきたい。
2010年1月27日水曜日
株式会社大真 代表取締役 眞鍋大作氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社大真 代表取締役 眞鍋大作氏登場。
1975年、愛媛県四国中央市、香川に隣接するこの街で四人兄弟の末っ子として生まれた。
祖父の代から酒屋を営んでいた眞鍋家は、父の代になり、「うどん屋」、後には「バッティングセンター」まで手広く手がけることになる。末っ子として生まれた眞鍋は兄、姉と年齢が離れていたこともあり、一人遊びが多い少年だったそうだ。小学校の卒業文集には、「将来はうどん屋を全国チェーンにする」と書いている。小・中学生では野球にのめり込み、キャプテンも務めた。スポーツが得意でカラダも丈夫な眞鍋だったが、高校時代には、内臓を患い入院。2ヵ月間、点滴だけの生活を送った。「この時に、食べることのたいせつさを痛感した」と眞鍋。「毎日、料理本を見ては、空腹を癒していた」ともいう。ただ、高校時代になると、小学生の頃の夢は頭の隅に追いやられ、家業よりも、「カッコがいい」という理由で商社マンをめざすようになっていた。 ・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
株式会社TOKUCHI(根室食堂) 代表取締役 平山徳治氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社TOKUCHI(根室食堂) 代表取締役 平山徳治氏登場。
手痛い失敗の後、平山がとった次の一手が、伝説の店「根室食堂」中目黒店を生んだ。
だが、平山は、さらなる賭けにでる。
いったん悪化した業績はなかなか元に戻らない。理由も明確だった。いつの間にかお客様をみていなかったからだ。では、どうすればいいのか。悩みぬいた上での結論が、新規出店。しかも、いままでとは、まったく逆の発想で始める店舗の出店である。これが冒頭に書いた「根室食堂」の始まりである。
いまでは超人気店の「根室食堂」だが、順風満帆に、いまに至るわけではない。中目黒に続き、学芸大近くに2店舗目を出店した平山だったが、この2つの店をたたんでまで勝負にでた。2008年の、渋谷道玄坂への出店である。「妻以外は全員、反対だった」と振り返る。「大きな賭けでした」と平山。「ここで失敗すればまたすべてを失ってしまう」。・・・。
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2010年1月19日火曜日
株式会社ジェイ・ダヴリュウ・エー 代表取締役社長 平野準氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ジェイ・ダヴリュウ・エー 代表取締役社長 平野準氏登場。
「三越」で貴重な経験を積む。一人で年間4億円以上を販売する。
「さっぱりわからなかった」と平野。それもそうだろう。配属部署は呉服部。三越のなかで、もっとも厳しい部門の一つだ。「反物を巻くのって難しいんですよ。先輩たちはシュルシュルと音を立て簡単に巻くんですが、ぼくにはまったくできない。控え室で1日中、練習をしたこともあるんです。繰越いくら、丈が何寸、そういう専門用語も覚え、初めて接客にでることもできるんです」。三越は百貨店の老舗。しかも、平野の配属は日本橋本店。格式の高さでは群を抜いていた。1年後、平野はインテリア部に異動した。
ところで、百貨店には外商の仕事もある。お客様宅を訪問し、ご用を伺う仕事のことだ。売上比率も、意外に高い。特に平野は、この外販比率が高かった。だからインテリア部なのに、食料品から別荘まで販売したことがあるそうだ。結局、三越は27歳で退職することになるのだが、全販売員のなかで売上2位。4億数千万円を1年で売り切ったこともあるという。 ・・・。
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有限会社一滴八銭屋 代表取締役 大薮由一郎氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社一滴八銭屋 代表取締役 大薮由一郎氏登場。
男なら弱音を吐くな、と父から諭された少年は、やがて大都会「東京」に憧れる。
中・高時代。当時、父から言われたことを覚えている。部活に疲れて返ってきたときだ。「弱音を吐いていたんでしょうね」。父は、「男なのだから、痛いとか、しんどいとかいうな!」と。「ほかに父から言われたことは、記憶としてあんまり残っていないんですが、この言葉だけは強烈に心に残っています。でも、日頃から将来、男は独立するべきだと吹聴されていたのかもしれませんね」。
高校卒業と同時に、東京に出る。「田舎者でしたから大都会の東京が憧れだったんです。大学に合格し、東京で暮らしはじめた頃は、いつも街をブラついていました。車窓から東京を見て、うれし泣きをしたこともあるんです。それぐらい東京に憧れていました」。この大学生活で、大薮は再度、転機を迎える。
大薮は、入学早々、「世界旅行研究会」というサークルに入った。飲んで語るだけのサークルだったが、ここで初めて議論すること、理論的に物事を組み立てることを覚えていく。だが、転機はそのことではない。実は、このサークルで出会った先輩に刺激され、大薮は世界を巡る旅に出ることを思い立つ。アルバイトで必死になって貯めたお金と、片道チケットだけを持ってサンフランシスコに旅立った。 ・・・。
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2010年1月18日月曜日
ホテル設置型・地元のおすすめ情報誌「doco-ico(どこ・いこ)」。
2010年1月17日日曜日
元キイストンpart2。
元キイストンで、現在VOCO 三軒茶屋を経営してる岡部君が、年明けに来社してくれ飲食経営や将来について語ってくれた。
飲食店を楽しんでやっているので、こちらもうれしい。やはり飲食店を実際経営しているので説得力ある。
キイストンを食べさせてほしい。(笑)
2010年1月16日土曜日
さすが食べログは強い。
2010年1月12日火曜日
縁商事株式会社 取締役 イ キョンミン氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に縁商事株式会社 取締役 イ キョンミン氏登場。
本文より~
一号店オープンの三ヶ月前に結婚!新しいことづくめの生活
イ氏の出身地、韓国・済州島は韓国半島の最南端に位置する火山島。年間約5,00万人の観光客が訪れる韓国でも有数のリゾートアイランドで、日本から一番近い海外のリゾート地である。
イ氏は大自然に囲まれた済州島でのびのびと育った。もともと実家が観光客を相手に飲食店を営んでいたので、幼少の頃から飲食という商売を肌で感じ、高校時代には自然と庖丁を握るようになっていたという。社長は4人兄弟の中の3番目。時には兄弟と競い合いながら、鍋料理や刺身盛りを作った。
「来日したのは24歳の時。最初はまったく日本語が話せませんでした。周りにも日本語を話せる人間がいなく、日本に来てからもしばらく韓国語を話していました」とイ氏は当時を懐かしく振り返る。
22歳で済州島の料理学校に通いだし、その後、一念発起して来日。この頃から日本のフードサービス業界で成功したいという野望が、ふつふつと湧き上がっていたのかもしれない。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
株式会社ウイリー 代表取締役社長 橋口政治氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ウイリー 代表取締役社長 橋口政治氏登場。
本文より~
パン屋の店主であり、島の先輩に教わり、鍛えられた日々。
「拾っていただいた」と橋口は表現する。橋口が会社を辞めたことを知った島の先輩が、声を掛けてくれたのである。先輩は、千葉県でパン屋を営んでいた。橋口はその店で勤務することになった。
橋口は、この店主を「恩人であり、師である」という。商売のたのしみを教わったのも、「お客様に喜んでもらうのが商売だ」と「商人道」を叩き込んでくれたのもこの店主だった。「当時、オイルショックというのがありましてね。何でも値上がりするわけです。私も、よかれと思ってパンの値段を書き換えたんです。それで店主に怒られてしまうんですね。商売は儲けるためだけにするもんじゃない。お客様の喜ぶ顔をみるためにやるもんだと」。この店で橋口は、文字通り朝から晩まで働き詰める。商売人の体力も身についていく。
一方、店主は、事業意欲も旺盛だったようだ。橋口が勤める10年間で5店舗を出店。しかも、当時としては画期的な店作りを行った。もともと山崎パンの販売店だったが、自前でパンを焼き、サンドウィッチを手作りするようになる。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2010年1月11日月曜日
今年の漢字一文字は『整』。
毎年、年初めに漢字一文字を書いているが、今年は『整』。
整理整頓、調整、整備。
毎Qごとに決起会をやっているが、今年は大きく変わる年でもある感じ。
だからこそ、1月は出社日を多くして、このチャンスに仕掛けたい。
とにかく、なんでもそう、日々コツコツの継続は力なり。
2010年1月6日水曜日
元キイストンpart1。
元キイストンで、現在ある飲食企業の人事責任者で活躍している篠崎君が、年末に来社してくれ飲食業界、新卒者の採用について語った。
現在、4名が転職して企業の人事に就いて頑張っている。
若い人材こそ日本の宝である。だから、今こそ新卒者を飲食企業は採用してほしいのと、今だからこそ新卒者には、飲食企業に就職してほしい。
2010年1月5日火曜日
株式会社升本フーズ 代表取締役 塚本光伸氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社升本フーズ 代表取締役 塚本光伸氏登場。
本文より~
飲食業なんて大嫌いだった。
飲食業の経営者でありながら、「飲食業が大嫌いだった」と話す人も珍しい。今回、登場いただく(株)升本フーズ 代表取締役 塚本光伸は、そんな珍しい一人だ。塚本の場合、嫌いどころか、憎んでいたといってもいい。むろん、いまの塚本からは想像できない過去の話だが。なぜ、塚本は、飲食業が嫌いだったのか。それがどうして、いまに至るのか、そこに飲食業界の「光と影」が潜んでいるような気がしてならない。塚本の過去を辿り、「光と影」のありかを探ってみよう。
1951年、塚本は東京都亀戸に生まれる。兄弟には、2つ上の姉と10歳下の弟がいる。家は、明治38年から酒屋を営んでいた旧家だが、空襲で店が全焼したこともあり、当時は父と母が夫婦で切り盛りするような小さな飲食店を経営していたそうだ。・・・。
株式会社ポポラマーマ 代表取締役 安家美津志氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ポポラマーマ 代表取締役 安家美津志氏登場。
大学4年、牧場との出会い。父の一言でダイエーに入社。
さて、大学まで無事進級した安家だが、大学卒業間際になって、人生の転機の一つに巡り合う。大学4年生、安家は、一人旅に出た。そのとき偶然に出会った学校の後輩が、「牧場をやりたい」と夢を語り、安家自身も興味をそそられたのである。そういう経緯もあって、安家は4年の夏休みに北海道に行き、牧場でアルバイトを始めた。やがて就職を目前に控えた頃、安家は父親に「牧場をやりたい」と、素直な気持ちを伝える。返ってきた言葉は「なら、まず流通を学べ」ということだった。安家は、その言葉通り、ダイエーに入社する。
ダイエーのような大組織ともなればどのような部門に配属されるか、わからない。しかし、安家いわく、「肉を扱う部署なんて誰も希望しないわけですよ。だから、最初から希望がかなった」とのこと。やがて、肉を専門に扱うダイエーミートに異動。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
日本ケンタッキー・フライド・チキン 取締役執行役員専務 中川達司氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“クロスα”に日本ケンタッキー・フライド・チキン 取締役執行役員専務 中川達司氏登場。
■日本ケンタッキー・フライド・チキンと師である大河原氏との出会い。
教壇から見れば、階段室の最後尾。そこから質問が次々に降ってきた。向かってくる奴だな、というのが現ジェーシー・コムサ社長、当時、ケンタッキーフライドチキン(以下:KFC)の日本1号店店長、大河原氏が最初に抱いた印象だった。
1970年11月、大河原氏は、間近に迫った1号店(名古屋市のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内)オープンに向け、アルバイト集めに奔走していた。苦肉の策として訪れたのが市内にある栄養専門学校。就職を控えた学生たちに「日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下:日本KFC)」という飲食事業を行う会社をプレゼンテーションさせて欲しいと頼み込み、階段教室に学生達を集めてもらったのである。・・・。
■1号店の失敗。事業継続に赤信号。最後の賭けで、4号店出店。
大河原氏が奔走して、開店に漕ぎつけた1号店だったが、結局、不発に終わってしまう。「月を追うごとに業績が悪化していくんです。でも、僕たちからすれば、毎日食べても飽きないほど旨いし、鶏肉だから高タンパク。当時の日本人は、そういうのを求めていたから、いずれ業績は回復すると信じていました。それが支えにもなったんです」と苦戦の日々を振り返る。しかし、業績が回復する気配はない。しかも、店長の大河原氏は、アメリカ研修に行ってしまう。思いとは裏腹に、結果は空回りするばかりだ。・・・。
■1950年生まれの愚直な青年が、引き継ぐ、ケンタッキーの理念。
1950年、中川は、公務員の父と教師の母との間に生まれる。1950年といえば、戦後間もない頃だ。幼稚園まで愛知県の新城市で育ち、その後、父の転勤に伴い豊橋市に移り住んでいる。「両親が忙しかったため育ての親は祖母だった」と中川はいう。学業はもちろんだがスポーツも万能で、中学時代には、バレーで県大会に出場し、高校に上がる頃には、「スカウトが来るぐらいの選手だった」という。・・・。
■ケンタッキー号、いよいよ発進。神戸から東京へと一足飛びに飛躍する。
神戸三ノ宮のトーアロードで大成功を収めたケンタッキーは、いよいよ東京に進出する。南青山に5号店となる青山店を出店したのだ。もちろん、この店に送り込まれたのは中川である。その後、中川は、下北沢、原宿と、新店舗の立ち上げを任されていく。フランチャズもスタートし、中川は、トレーニングを任され、トレーニングスーパーバイザーとしても手腕を発揮する。業績が認められ、海外研修にも参加することができた。・・・。
■ケンタッキーを育てた中川から、いまの若者たちへのメッセージとは。
大河原氏と中川。名古屋にある、ある専門学校で偶然出会った2人が、ケンタッキーを育て、日本の食文化の、新たな一面を切り開いていくことになる。大河原氏が頭とすれば、中川は手足である。しかも、その手足には、頭脳も組み込まれていた。
いまの私たちには、「クリスマスにケンタッキー」というのが定番の一つになっている。それを仕掛けたのが大河原氏である。「サラダとアイスとチキンをひとつにして、売り出そう」、大河原氏はそう言い、当時、マーケティング部長だった中川が、冷たいアイスと出来立ての熱いチキン、そしてサラダを一つのセットしたバケット、いわゆるパーティーバレルを作りあげた。ちなみに、このパッケージは、中川の名で実用新案に登録されている。・・・。
40年前、勘当された父とも、いつしか酒を酌み交わす間柄になったと、中川はいう。2人で飲んでいるときに、その父がしみじみといったことがある。「公務員の俺と、お前とどちらの人生が楽しかったかといえば、あれほど反対したけれど、結局は、お前のほうかもしれないな」と。・・・。