2010年2月24日水曜日

株式会社ゴダック 代表取締役 荒谷公彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ゴダック 代表取締役 荒谷公彦氏登場。


ゴダック 
本文より~


天性の舌によって、天与の味覚が育まれていく。


ところで、荒谷と「食」との関係はいつ頃、生まれたのだろうか。母が始めたレストランもその一つだろう。「母は天性の舌を持っていた」と荒谷はいう。お世辞ではなく、母の料理食べたさに、連日、店の前に行列ができた。荒谷家の食卓の料理も、頬が落ちるほどうまかったに違いない。「少ない量でも、美味しいもの」が、荒谷家の食卓のルールだった。
天性の舌と母の愛情によって、荒谷の天与の味覚が覚醒していく。ちなみに、日本でも荒谷ほど味覚に鋭敏な人間もいないだろう。それは、これから後、荒谷が世界各地から仕入れる食材によっても証明されている。
一方、こうした安定した生活も長くは続かなかった。開店して5年後、荒谷が中学に上がるときに閉店。客のツケの多くが焦げ付いてしまったからだ。店を失うのは同時に住まいを失うことを意味していた。もう一度、引越しが始まった。親子が窮屈だが、なんとか暮らすことのできる小さな家だ。荒谷の言葉を借りれば、「最初の家では何十とあった水道の蛇口が、ついに1つになってしまった」とのことだ。「1円の大事さ」が骨身に染みたのもこの頃である。
このように生活が苦しくなっても、心まで貧しくはならなかったのは、強く、朗らかに活きる両親の姿があったからだろう。赤貧のなかで荒谷は、初めて勉強に向き合うようになる。都立高校を経て、東京水産大学(現、東京海洋大学)に入学。卒業後、海外を知りたいと、食品の貿易商社に入社。入社2年目にして、そのチャンスが訪れた。 ・・・。


株式会社ゴダック 代表取締役 荒谷公彦氏


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株式会社ダイネット 代表取締役 中川徹也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ダイネット 代表取締役 中川徹也氏登場。


ダイネット
本文より~


フランチャイズ化、失敗。オーナーたちには、いまも頭を下げ続けている。


中川はいまでも「申し訳ないことをした」と当時のことを思い浮かべ、悔しがる。「いける」と確信した中川は、スーパーバイザーを採用し、フランチャイズ本部を作り上げた。十分な勝算はあったが、実際に出店してみると、直営店のように業績は伸びなかった。
「原因は本部の勇み足にもある」と中川。加盟店の募集費、人件費など、ダイネット自身が、押し潰されそうになる。それでも、なんとかFC店に業績を上げてもらおうと努力したが、結局、1億円に増資した資本金を食い潰すまでに、損失は広がった。失敗。夜になって一人で考えると冷や汗が脇の下を伝う。FC事業からの撤退は、中川という人間にとって苦渋の選択だった。 ・・・。 


株式会社ダイネット 代表取締役 中川徹也氏


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2010年2月17日水曜日

株式会社エイト 代表取締役社長 近藤一美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エイト 代表取締役社長 近藤一美氏登場。


エイト 
本文より~


ビジョナリーカンパニーとの出会い


高校生の近藤氏がアルバイトに没頭したのはカラオケ店。そもそも自分の提案に両親が賛同する形で店をオープンし、共に働く仲良しの友達たちもいた。ただただ働くことが楽しく、結局、高校卒業と同時に正社員となって仕事を続けた。
違和感を感じるようになったのは二十歳を過ぎた頃だという。
「ちょっとだけ社会が見えるようになったんですね。周りのスタッフと社長の娘である私の間に溝ができていたんです」。
オーナー企業であり出店・撤退の決断が早い社長は、社員などの周辺とコミュニケーションを取っていくタイプではない。人の入社・退職が頻繁な中、スタッフは次第に社長ばかりか娘である近藤氏とも距離をおくようになっていった。
「割り切ってやっていこうと思ったのですが、本当にきつかった。ある日、母親と大げんかになり、それが決断させてくれました」。・・・。 


株式会社エイト 代表取締役社長 近藤一美氏


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株式会社アジルカンパニー 代表取締役社長 矢内聡郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アジルカンパニー 代表取締役社長 矢内聡郎氏登場。


ワイズ
本文より~


家業からの脱皮を果たす。長男、矢内と次男、裕之氏(専務)のツートップ戦略で、「わいず」は育っていく。


「わいず」は、矢内家の家業に近い。矢内で2代目。しかし、すでに店舗数は、9店舗になり、年商はつぎの一手で10億円に届く勢いである。家業から文字通り法人へと、いまその階段を上っているように思える。そのような視点から、改めて「アジルカンパニー」を捉えると、矢内の立ち位置が明確になってくる。本人がいうように、裏方に徹し、事業の根幹を築くのが、いまの矢内の役割に違いない。
ツートップ。矢内が裏方に徹することができるのも、いち早く同社に入社した次男、裕之氏(現専務)の存在があってこそである。
社長の矢内が裏方に回る一方、専務である裕之氏は、表に出て、現場を取り仕切る。会社の行事も、矢内が企画し、裕之氏が、盛り上げる。互いを補完しあう関係。父の英甫氏から見えれば、嬉しくて仕方がない兄弟の関係だろう。・・・・。 


株式会社アジルカンパニー 代表取締役社長 矢内聡郎氏


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2010年2月11日木曜日

株式会社ケーズネットワーク 代表取締役 山友浩司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ケーズネットワーク 代表取締役 山友浩司氏登場。


ケーズ 
本文より~


3年間で全国を一周。経費を削る旅を続けた。29歳の頃のこと。


日本中をディスコブームに巻き込んだ「マハラジャ」でもあったが、次第にブームに翳りが見えてくる。業績が低下し始め、前半に「しゃぶしゃぶ」(時間別のレストラン営業)をやり、夜にディスコという2業態を同一店舗で営業するようになった。一方、山友は、大阪店の責任者となった後、東京の本部に異動するなど、「マハラジャ」の中枢へと昇格していく。「私が東京に異動した頃には、すでに、かなり厳しい状況に陥っていました。その状況下で、建て直し又は撤退の見極めのために次々と違った店舗に派遣されていくのです」。山友、29歳の時である。


前橋、浦安、札幌、鹿児島、岡山、千葉と3年かけて全国を一周した。「いずれの店舗でも、経費をゼロから見直しました。寮を廃止したり、メンテナンス費用を削ったり。とにかく損益を成り立たせるために、削れる経費はドンドン削りました。そうでもしないと、店を閉めざるをえないからです。でも、私がいる間は良くても、その後にやはり利益が上がらず閉鎖したと聞かされたり、やるせない思いをしたのも事実です」とこの3年間を振り返っている。しかし、山友にとっては貴重な経験を積んだ3年間だったともいえる。徐々に幕を閉じていくブームを少しでも先に延ばそうと必死に戦った、その経験がいまに生きているからだ。・・・。 


株式会社ケーズネットワーク 代表取締役 山友浩司氏



株式会社ディーアール 代表取締役 谷脇宗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ディーアール 代表取締役 谷脇宗氏登場。


DR
本文より~


受験失敗。「責任は自分で取れ」と父に言われ、予備校の費用をアルバイトで捻出。


大学受験に失敗し、浪人すると決めたときに父に言われた。「お前がしたことだから、自分で責任を取れ」と。この一言が後に転機を生む。父からそう言われた谷脇は、予備校の費用などを稼ぐために、本格的に仕事に取り組み始めるのである。これが谷脇の人生の中で大きな転機となる。真剣に仕事に向き合うと、小遣い稼ぎだった高校生の時とは明らかに違う充実感や達成感が味わえた。仕事が楽しくなり、これが自分の進む道とまで思うようになるのである。大学には一浪の末、進学したが、やはり仕事が楽しく、将来の道も決まっているからと、4年で中退。株式会社「道楽」に就職する。 ・・・。 


株式会社ディーアール 代表取締役 谷脇宗氏



2010年2月8日月曜日

玉海力社長、またまた記事に。

ドリームツリーという子供育成プロジェクトに特集で取り上げられました。


ドリキャリ・インタビュー、「010.共に汗を流し、まっすぐ、体当たりする経営者」


海外の企業との人材武者修行も含め人材教育にこれだけ熱心な会社は無い。


「TH E武者修行」


新卒の方は、業種で選ぶだけでなく、人を大事にされる経営者、


また信念をしっかり持っておられる会社を選ぶべき。


お奨め企業です!!



2010年2月4日木曜日

ミニチュアダックスの“たかすぎ”死す。

もともと東京で飼ってたが、自宅やオフィスで飼えなくなり


京都の実家で飼ってもらっていた17歳になっていたミニチュアダックスの“たかすぎ”が1月29日に死んだ。


犬でいうと大往生ではある。


今は亡き母親に元気を与え、一人になった父親にも元気与えていただけに寂しい。


最後、死ぬ数時間前、9日も食べなったのに鳴いたらしい。


父親に「大事にしてくれてありがとう」って言ったと思う。



2010年2月3日水曜日

株式会社とり鉄 代表取締役社長 小林剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社とり鉄 代表取締役社長 小林剛氏登場。


Sl
本文より~


有能な経営者との出会いと、タスコシステムとの出会いが運命をかえる。


小林の母は、小林が5歳の頃からスナックでアルバイトをはじめ、11歳の頃には一つのお店を経営するまでになっていた。バブル期には、絵にかいたような金持ちがやってきた。小林は15歳から、その店を手伝っている。可愛いがられた。2度の大学受験に失敗し、憔悴しているときに救いの手を差し伸べてくれたのは、そのうちの一人。「かぁちゃんを手伝うのもいいが、外に出て力をつけろ」と言われたそうだ。
何千億の資産を持ち、後に、和議申請により負債を抱えることになるこの人物は、叩かれてもタダでは起きなかった。その姿を間近で見て「あきらめない強い男の背中」を小林は初めて見ることになる。「あきらめない」、小林の信念の一つが生まれる。
6年半、その社長から薫風を受けたのち、小林は独立を前提にある焼き鳥屋に修行に行く。それが28歳の頃。30歳になる年に、当時、急成長していた「株式会社タスコシステム」に入社。「とり鉄」を任されるようになる。
ここから先の小林にとって「とり鉄」は不可欠な存在になる。自分のアイデンティティを確立してくれたのも「とり鉄」といってはばからない。
とはいえ、当時の小林はまだ年齢も若く、はねっ返りと思われても仕方のないような言動もとっていた。だが、有言実行。店を任された小林は、業績をまたたくまに上げていった。もちろん、その裏には壮絶な戦いがあった。徹底的に勉強もした。店に泊り込んで、飲食関連の書物を読み漁り、分からない言葉に出会うとネットで検索を繰り返した。夜はすぐに朝になり、朝はすぐに夜になった。寝る間などなかった。・・・。


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株式会社チャプチーノ 代表取締役社長 福田清盛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社チャプチーノ 代表取締役社長 福田清盛氏登場。


チャプチーノ
本文より~


 


予備校講師とディーラーという2つの肩書きを持つ異色の経営者。


赤、青、黄、カラフルなカップケーキが、客の視線を集める。思わず口にするとこれがたまらなくおいしい。視覚も、味覚も満たされる逸品。スイーツと一言で片づけるには、惜しい気がする。これが株式会社チャプチーノ代表取締役の福田清盛が、レシピから開発した自慢のカップケーキである。銀座、広尾などの街にもお似合いの、ニューファッションスイーツだ。
このカップケーキ同様、開発した福田もまた、多彩な色を持つ異色の経営者だ。進学予備校の人気講師、投資家(ディーラー)と肩書も幅が広い。父は大学講師、母は開業歯科医。今回は、この色合い豊かな経営者にご登場いただこう。
福田はイタリアの田舎町で生まれる。大学講師である父が、交換要員として地元の大学に招かれていたからだ。子どもの頃の写真を見ると、丈も合わない洋服をまとった福田が地元の子どもたちといっしょに屈託なく笑っている。陽気で、情熱家といった性格は、この頃、イタリアの風土で形成されていったものではないだろうか。
日本に帰国したのは、7歳の時。帰国と同時に母が歯科医院を開業した。大阪府堺市。大阪市の南に位置するこの堺市もまた下町だ。高校を卒業するまで福田はこの町で暮らしている。高校は「三国ヶ丘」という、大阪府内でも屈指の進学校だ。その後、東京芸術大学に進学。芸術に特に関心があったわけではない。ただ、なんとなく選んだ大学だった。・・・。


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