より飲食企業を応援するため、必要と思われる分野で次々と提携しています。
さらに満足してもらえる要素が増えた。
29日も応援している食材の製造会社様より、店舗数の多い飲食店に食材を納める契約成立の連絡をもらった。
当社の営業マンと先方の飲食店とのパイプが深いのが勝因だ。
良かった・良かった。
ぼちぼち、いろんな分野でコツコツ仕掛けているのが大爆発してきそうである。
より飲食企業を応援するため、必要と思われる分野で次々と提携しています。
さらに満足してもらえる要素が増えた。
29日も応援している食材の製造会社様より、店舗数の多い飲食店に食材を納める契約成立の連絡をもらった。
当社の営業マンと先方の飲食店とのパイプが深いのが勝因だ。
良かった・良かった。
ぼちぼち、いろんな分野でコツコツ仕掛けているのが大爆発してきそうである。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にイートアンド株式会社 代表取締役社長 文野 直樹氏登場。
本文より~
昭和52年(1977年)、「大阪王将」は法人登記を済ませ、大阪王将食品株式会社として新たなスタートを切っている。そのとき文野は、18歳。当時、大学へ進学するかどうかで文野は悩んでいた。16歳から店長をやり、商売の楽しさに魅了されていたからだ。「結局は、いったん大学に進学したんですが、すぐに飛び出し20歳の時に父から5000万円を借り、東海の三河で『東海王将』を起業しました」。この「東海王将」で文野は、従来の駅前の「餃子専門店」というスタイルを変え、ラーメン、チャーハンなどフルメニューをそろえた郊外型店舗を出店している。「3~4年で10店舗を出店した」そうだ。だが、父親から帰ってきてはどうだと打診され、文野は、重い腰をあげる。「東海で、機嫌ようやっとたんですがね」。すでに文野も25歳になっていた。この昭和60年(1985年)、文野は「大阪王将」の社長に就任し、父親は元来好きだった画家の道を歩み始める。だが、この時、すでに「大阪王将」のビジネスモデルは時代遅れになり、ビジネスモデルの転換を迫られていた。 ・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社山路フード 代表取締役社長 松井大輔氏登場。
中学になると父との仲も険悪になる。「ことあるごとに厳しく叱られた」と松井は当時を振り返っている。拳骨が飛んでくることも少なくなかった。ダラけていると、家を追い出されたこともある。中学といえば反抗心が芽生えてくる頃。松井は厳しい父に反抗し、家を飛び出し3ヵ月戻らないこともあったそうだ。そういう生活をしながらも、松井の成績は良く、県内トップの進学校に3位の成績で合格している。ちなみに、中学ではバレーボール、高校ではサッカー部に所属。スポーツもできる少年だったようだ。だが、高校の3年間で成績がグルリと反転する。上位3位で入学した松井の成績はみるみるうちに下がり、卒業時には下位から3番目というありがたくない順位となった。父への反骨心が、そういうカタチで表現されてしまったのかも知れない。その後、大学に進学した松井だが、スグに中退してしまっている。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
社長に対してメディアを紹介。
社長に対してコスト削減になる商材を紹介。
社長に対して社長を紹介。
他社では出来ないことが多くなった。
飲食業界に対してキイストンが元気発信していきたい。
その飲食店が日本のサラリーマンやOL、学生を元気にしてもらいたい。
先週も6社の飲食社長を取材。
アズザクロウフライの小林社長、エイチワイシステムの安田社長、ミュープランニングアンドオペレーターズの吉本社長、インターナショナルダイニングフーズの中村社長、エイムの横内社長、サービスビジネスコンサルティングの日賀野社長から社長取材させて頂いた。
現在、in-職ハイパーの“飲食の戦士たち”は、128社の社長に登場頂いているが、すでに計200社の社長に取材済みならびに取材承諾決定している。
これで約350社以上の飲食企業の社長と接点できた。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ベビーピュア 代表取締役社長 渡邉敏行氏登場。
来日翌日から横浜中華街で職を求めた渡邉氏は、中国粥の名店『謝甜記』で洗い場の仕事を得て、1週間後には広東料理の老舗『聘珍楼』に親戚の紹介を通して移っていた。面接時にネクタイをしていったこと、親戚が中国ではエリートだったことをアピールしてくれたことが功を奏して『聘珍楼』ではいきなりのフロアデビュー。しかし「お冷や」や「水割り」といった中国で習っていなかった日本語に直面して失敗の連続だったという。
1年後、21歳になった渡邉氏は、このまま成りゆきの生活に甘んじていてはいけないと考えるようになる。「もう一度大学で勉強しよう!」。アルバイト生活にピリオドを打ち日本語学校に通い始めた。目指すは1年後の大学受験。そして東大、京大、慶応、早稲田を視野に入れ、見事慶応義塾大学の商学部に合格する。「計画性はないんですが集中力はあるみたいですね(笑)」。1年間受験に向けてがむしゃらに勉強し、自力で自分の将来の一歩を築き上げた。
「大きなビジネスがしたい。できれば故郷中国と日本の掛け橋になるような仕事をしたいと思うようになっていました」。就職を控えた渡邉氏は、大手総合商社の面接に臨む。しかし中国で学生運動に参加した経験もある渡邉氏は、その企業に敬遠されてしまう。逆にそうした生き方を面白がってくれたのが国内最大手の製薬会社だった。武田薬品工業に就職を果たした渡邉氏は、いきなり国際本部に抜擢される。もちろん本人は鼻高々だった。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社プライム・リンク 代表取締役社長 大槻哲也氏登場。
2軒の店を持つ経営者には、大学であそぶ時間もない。3年ですべての単位を取得し、卒業。経営や会計といった知識の穴を埋め、経営者として大槻は、いよいよ羽ばたいていく、はずだった。実際、卒業後、デザイン性に溢れた斬新な店を2500万円といういままでとは比較にならないコストをかけ、開業している。だが、おかげで損益分岐点がはねあがった。売上でいえば月250万円。それでも軽々、超えられるはずだった。しかし、60万、80万の月が続く。その穴埋めに、蓄財をあてた。日経レストランの「経営診断」に応募したのもこの頃。著名なコンサルタントに指摘された部分を改善したが、それでも150万がやっとだった。「もう逃げ出したくてしかたなかった」。当時の心境を大槻はそう語っている。気丈な母がなくなったのも、その頃。病院生活を強いられながらも、子ども達に心配をかけまいとなくなる前日まで、洗たくまで一人でされていたそうだ。4つ年の離れた兄がふらりとやってきたのは、それよりも以前。「母から聞いていたのでしょう。ふらりと店にやってきて、400万円の現金を置いていってくれたんです。もう、少しがんばってみたらどうだって。でも、ほんとうのことをいうと、もう、ぼくは逃げだしたかったんですけどね」。資金だけではなかった。起業家でもあった兄は、ある会社を紹介してくれた。ファミリーレストランを代表とする大手資本によるチェーン店運営から、小資本を集めるフランチャイズ方式が外食の主流になりつつあった頃だ。 ・・・。
来月の25日でマイケルジャクソンが亡くなり、ちょうど1年になる。
そんなマイケルジャクソンの版権を持っておられるマイケル・ジャクソン・ジャパン株式会社に弊社・武田と訪問。
PRニュース
MJJ公認 マイケル・ジャクソン1周忌にゆかりの地を巡る ロサンゼルスツアー5日間 販売開始
今週は、ドリーマーズの中村社長、ビーエムの青沼社長、OECの長谷川社長、KUURAKU GROUPの福原社長、フォーブスの松崎社長、SSCの川口社長、サクセスストリートの大和社長、福しんの高橋社長、ドリームリンクの村上社長、アバの徳永社長、一家ダイニングの武長社長、ビッグイーツの後藤社長から取材させてもらった。
社長様の年齢も経験も、前職も皆バラバラ。
そんな社長の生い立ちや社長になられるまでの話を聴けるキイストンの営業マンはなんと幸せなことか・・。
たぶん、その会社の社員の皆さんと一緒、いや社員の皆さんよりも多く社長の考えや生き様をおしえて頂いたかもしれない。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社春夏秋冬 代表取締役社長 鈴木寿彦氏登場。
正義感が強かった少年、鈴木は、大人になっても正義を貫くために、医師になるか、弁護士になるか、と将来なるべき職業を真剣に悩んだそうだ。その結果、弁護士になると決意。中学、高校と進み、父親の母校でもある中央大学の法学部に入学した。当時、司法試験では東大に次ぐ、合格者を輩出していたからだ。3年の時に初めて司法試験に臨んだ。合格率1.4%。長年の夢にたどり着けるか。勝負はあっさり決まった。不合格。そのうえ力の限界まで思い知らされる。耐え難い思いにさいなまれながら、鈴木は弁護士の道を断念した。「人生最大の挫折」と鈴木。そんな鈴木を救ったのは、「弁護士を使うような立場になればいい」という父親の友人の一言だった。 ・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社amkユイマール 代表取締役社長 和泉康成氏登場。
本文より~
勤務して20年目、和泉は日本マクドナルドを退職した。第一回の希望退職者が募られた時、それに応募した。最後に所属していたのは、商品開発部。これもまた退職の引き金になった。「商品開発部に異動したことで、いままでとは違った人たちと出会うことになります。たとえばメーカーの担当者もそう。店舗ではけっして出会えない人たちとのネットワークも生まれていく。そういう人たちにも刺激されたと思うんです」。ともかく20年間の日本マクドナルド生活を卒業した和泉は、同社を定年で退職した食品安全のスペシャリストと共にコンサル会社を立ち上げた。amkユイマールを立ち上げたのは、それから2年後の2006年のことである。こちらも単独ではなく、仲間と共に興した会社だった。このamkユイマールが注目され始めたのは、名古屋・栄のランドマーク「SUNSHINE SAKAE」のリニュアルで、全面的なプロデュースを行ったことがきっかけだったのではないだろうか。これを機に、吉本や韓流スターのマネジメント会社とも交流が生まれていく。和泉の多彩な才能が目を覚まし始めたのは、この頃からだ。・・・。
イートウォーク「AWkitchen(エーダブリュキッチン)」のオーナーシェフ渡邉明氏が結婚される。
前職グローバルダイニングの総料理長で伝説のシェフであった。
シェイプUPガールズの中島史恵さんとのご結婚おめでとうございます。
幸せをお祈りします。