2010年7月31日土曜日

クーポン販売サイトには落とし穴 があるらしい。

ダイヤモンドオンラインにこんな記事が出ていた。


WEBサイトで割引クーポンを共同購入する新たなサービスが人気を博している。リクルートなど20社以上が相次いで参入するほどの熱狂ぶりだが、思わぬ落とし穴がありそうだ。

これは「グルーポン系サービス」と呼ばれるもの。飲食店やエステサロン、レジャー施設などが、1地域に1日1品、割安な目玉クーポンをサイトに出品。店舗とサイトが定めた一定以上の人が応募した段階で取引は成立し、集まらなければ不成立となる。


ところが日本では、問題が出始めている。
一つ目は、2つの価格を比較して割引率などを表記する際、比較基準となる通常価格について実際と異なる金額や、あいまいな表示をした場合は、不当な二重価格表示に当たるらしい。
二重価格は、2回繰り返せば刑事罰の対象となるから、軽く見てはいけない。

二つ目は、クーポンとして商品券などの金券を販売しているサイトも問題になりそう。取引が成立してクレジットカードで決済した後、購入者が金券を換金したとする。もし、その購入者が返済不能となっても、金券はすでにないから回収できない。つまり、初めから現金を手にする目的で応募することができるというわけ。これは、いわゆるクレジットカードの「ショッピング枠現金化」に近い。

三つ目は、クーポンの有効期限内に店舗が倒産しても、サイト運営会社が返金に応じるかどうか、利用規約などに明記されていないサイトも多い。

「今にも倒産しそうな飲食店のクーポンを掲載していることも少なくない」(あるサイト運営者)というから、購入者は安心していられない。 (「週刊ダイヤモンド」編集部 池田光史)


キイストンとしては、そんな情報もしっかり流していきたい。



2010年7月29日木曜日

地下鉄大江戸線にも。

大江戸線
今、もっとも旬な広告に・・。



株式会社秀穂'(しゅうすい) 代表取締役 草野秀雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社秀穂'(しゅうすい) 代表取締役 草野秀雄氏登場。


しゅうすい


本文より~


半年で行列。お客様が営業マンに


『ラーメンとん太』の店主となった草野氏は、朝9時から翌朝5時までお店に立ち続け、ろくに睡眠もとれない日々を過ごすが、オープンから半年で行列のできるラーメン屋に育て上げ、それからは様々なことが順調になっていったという。
「親戚やお客様が次々とこの味で俺にも店をやらせてくれ!と言ってくれる」。営業せずとも自然と人が集まり店舗拡大の土台が作られていく。株式会社秀穂'は、社員120名となった今でも営業は4名しかいないが、それは創業当初からの伝統らしい。草野氏は味に惚れ込んでくれた人が続々手を上げて参加してくれる、ある意味"自然の成りゆき"を利用し、FC展開の先駆けを実現していった。なんと独立から5年経った1987年には、100店を展開することとなる。
ところが草野氏は、ラーメン屋の親父から経営者に自身も成長していくうちに、従来のFCの在り方に違和感を感じるようになる。それは"オーナーの縛り"による弊害だ。オーナーがもっとハングリー精神を持ち、楽しくやりがいをもって商売をできるよう、本部は契約内容において自由度を高めるべきだと考えるようになる。突き詰めた結果導き出した答えは『フリーネームシステム』という、まったく新しいFC展開の実現だった。



有限会社アトミックハート 代表取締役社長 荻久保功一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社アトミックハート 代表取締役社長 荻久保功一氏登場。


アトミック
本文より~


「ビッグになりたい」。役者への道。


17歳で、高校を退学した荻久保は、反省したわけではないが、それまでの素行の悪い生活と決別。朝5時から築地で、昼は喫茶店で、夜はレストランでと、勤勉に働いた。睡眠時間3時間という生活を1年近く送っている。「遊びよりも、仕事が楽しくなった」と、勤勉に勤めた理由を語っている。一番、年下ということもあったのだろう。どの店でも可愛がられた。19歳になった荻久保は、雑誌で見かけたオーディションに応募。見事、アクターズスクールに合格する。これが役者への第一歩だった。ところが二歩目、三歩目がなかなか踏み出せなかった。芸能事務所にも所属し、舞台や映画などにも出演したが、そこまで。「自分の立ち位置がわからないんです。イケているのか、そうでないのかも」。だから、諦めることもできない日々が続いた。24歳になって、そんな荻久保に転機が訪れた。・・・。



2010年7月21日水曜日

試食会jpは、画期的な実践型販促である。

試食会jpは、なかなかすばらしい。


何よりもその一つは、試食会jpの経営者が自ら飲食店経営者だったため目線が飲食店よりである点だ。


その試食会jpとキイストンは販売代理契約を締結した。


提携基準は簡単。お客様にとっていいもの=効果的なもの→売りやすい。


いいものなんで、案内は積極的にしていく。


ここ数年で、今までの強い商材からまったく違ったサービスの商材に大きく変化してきている。




試食会jpとは→こちら





2010年7月20日火曜日

カフェ・カンパニー株式会社 代表取締役社長 楠本修二郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にカフェ・カンパニー株式会社 代表取締役社長 楠本修二郎氏登場。


楠本


本文より~


早稲田の政経に進学。イベントなどの企画団体に所属し、プロデュース力の片鱗をみせる。


楠本が小学6年生になった年、楠本家は市内に戻った。父親の酔狂が終わったわけではなく、兄の高校受験という現実的な問題が優先されたからだ。楠本の父は根っからの博多男児だそうだ。剣道にうるさく、兄弟3人とも剣道をやっていた。姉と兄は、それなりの実績を剣道でも残したが、楠本は唯一抵抗し、剣道だけではなくサッカー部にも所属し、2つの部を掛け持った。ささやかな抵抗というところだろう。高校は修猷館高校という進学校に進んだ。だが、成績のほうは450人中、444番。3年生になっても成績は上がらず、早くから浪人を覚悟。というか、祭り好きで企画好きな楠本にとっては、9月に開催される運動会のほうが優先順位が上だった。副ブロック長となり、企画とリーダーシップの発揮に没頭する。この運動会が終わるまで勉強はお預け。さすがに巻き返す時間は残っていなかった。1浪の末、進んだのは早稲田の政経。浪人中の様子を伺うと「1年間365日1日も休むことなく、1日10時間勉強すると決め、好きな音楽も断った」とのこと。少年の自立心の芽生えが見て取れる。早稲田大学進学。周りには個性的な人間がそろっていた。起業家の卵も少なくなかった。楠本は「491」という企画団体に所属し、ライブハウスで開かれるイベントなどを企画するという活動を行なっていた。実際にパーティーを企画したり、雑誌に企画を持っていったりもした、この当時の活動が後の楠本の仕事につながっていく。ちなみに、この当時にはすでに「起業」という二文字が念頭にあったそうだ。・・・。


カフェ・カンパニー株式会社 代表取締役社長 楠本修二郎氏


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有限会社エイム 代表取締役社長 横内新一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社エイム 代表取締役社長 横内新一氏登場。


横内


本文より~


「3畳1間」「共同トイレ」からの脱出。


横内が、中学2年の時、横内家は6畳のアパートに引っ越した。子どもたちの体も大きくなっていたため、長男は、仕事先で寝泊りした。横内は新聞配達とバレー部に所属。部活動に専念した。授業は貴重な睡眠時間だった。ところで、中学で横内はバレーを辞めるのだが、高校になって授業で行なわれたバレーの試合を観た当時のバレー部監督が目を留め、1年間限定という約束でバレー部に入り部長を務めたという。運動神経も群を抜いていたのだろう。ケンカも強かった。だが、ケンカよりも、授業よりも、クラブ活動よりも、一番は仕事だった。働かないと「小遣い」さえなかったからだ。高校時代もさまざまなバイトを経験。高校3年生の頃には20人程度が入れる小さなラーメン店だが、店長のような仕事を任されている。幼少の頃から「独立起業」をめざしていたが、この頃になると、その思いが鮮明な具体像を持つようになる。料理人も、その一つの姿だ。地元の店で就職したが、2ヵ月後、京都、嵯峨野の和食料理店で働き口が見つかり、退職。この料理店で2年間修行している。18歳から20歳。当時の横内と同年代の青年がいまや横内の店にも入店してくる。学生アルバイトも少なくない。「当時と現在ではハングリー精神も違うのでしょうが、独立を希望するなら、若い時代の数年間を無駄にしてほしくないと思います」と横内は、厳しくも温かい目で青年たちをみつめる。それは当時の自分と、いまの若者たちを重ねるからかも知れない。大事にするのは、彼らの思いの強さだ。さて、京都から2年後、東京に戻った横内は、八重洲や目黒の店で仕事を覚えた。友人の一人が神楽坂で店を構えたのは横内が23歳のときだった。・・・。



2010年7月19日月曜日

お得カード。

品川駅近くに住んでいるが、特権がある。


このカードで毎週土日、ファミリーマートでお世話になっている。


なんと最大年間2万円以上得する。


いろんな会社のクレジットカードのポイントもそうだが、ほんと馬鹿にできない。


お得カード



2010年7月14日水曜日

株式会社フォーブス 代表取締役社長 松崎充宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社フォーブス 代表取締役社長 松崎充宏氏登場。


フォーブス


本文より~


灘高から東大へ進学した男が選んだのは、中小企業。


「大手企業の小さい歯車にはなりたくない」。このような、最近で言う“ベンチャー思考”を持った学生は、確かに数多く存在する。しかし、大手企業に入れるほどの経歴がない自分への“自己擁護”として、この言葉を使用している人も少なくはないだろう。そんな中、株式会社フォーブス 代表取締役 松崎が語る「小さな歯車にはなりたくなかった」には、納得せざるを得ない。進学校として有名な灘高校から東大へという、誰もがうらやむエリートコースを歩んだ上に、当時の就職市場はいわゆる買い手市場。学生側が就職したい会社を選べる時代であったからだ。大手企業もいくつか受けてみたものの、結局彼が選んだ就職先は、決して知名度があるとは言えない不動産会社。「珍しく親からも反対されましたし、その会社の先輩からも『なんでウチを選んだの?』とよく聞かれましたね(笑)」と松崎は語るが、無理もない話である。ところが、この選択が結果的に、現在の松崎に至るキッカケとなる。 ・・・。


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株式会社一家ダイニングプロジェクト 代表取締役社長 武長太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社一家ダイニングプロジェクト 代表取締役社長 武長太郎氏登場。


一家


本文より~


母親が始めたスナックで、受け取った1万円のチップ。大学進学を決めるまで。


武長が生まれたのは1977年1月24日。千葉県出身である。兄弟は2人。父は自営業を営んでいた。この父の事業が上手くいかなくなり、母が、スナックに勤め始める。子どもたち2人が家に残り、ある日、ストーブが原因で火事になった。自分たちの不始末以外、なにものでもない。にもかかわらず、怒られなかった。いつもなら、子どもたちを正座させ怒っているはずの父が、逆に謝っている。武長は改めて、両親の愛情を感じたに違いない。だが、この事件が両親の離婚を決定づけた。武長が小学校3年生の時だ。母親は、自ら店を経営し始めた。「中学生時代から母の店を手伝った」と武長。中学から高校へはエスカレーター方式で進学。武長は好奇心旺盛な青年に育っていた。
母のお店で鍵をかってに持ち出し、お客様のキープされているボトルを1cmずつばれないように友人と飲んだり、車を無免許で運転したり…。高校2年の頃、「母親の車に轢かれる」というのは、バイク禁止の学校で母親が語った作り話。実際はバイクで転倒し、1ヵ月入院することになった。この入院時に、自分のやりたいことはなにかと問い、ともかく大学に行って…と猛勉強を開始した。友だちはそんな武長をみて目を白黒させていた、そうだ。・・・。


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株式会社アバ 代表取締役社長 徳永 弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アバ 代表取締役社長 徳永 弘氏登場。


アバ


本文より~


社会を舐めきった青年が出会った一人の経営者。


「国籍・学歴一切関係なし」。求人雑誌をみていたとき、たまたま目を留めた、ある金融会社の広告に惹かれ応募した。これが徳永の人生を大きく変える出会いを生む。徳永、20歳。面接で、いきなり怒られた。「面接の時ぐらいスーツで来い」。実を言うと、「金融会社は仕事がラク」と友人から教えられていた。ヤクザっぽい人たちがいるのでは、と思っていたのも事実である。だが、まるで違っていた。遅刻をすると激しく怒られた。8時前には会社に入り、21時前後まで毎日、はたらいた。だが、包容力のある社長に、徳永は魅了される。「ウソをつくな」「人の足をひっぱるような人間にはなるな」、一言、一言がしみ込んでくる。「人間としてどう生きるかを教えていただきました」。社会を舐めきっていた青年が、社会と初めて真摯に向き合うことができたのは、間違いなくこの時に出会った社長のおかげだった。いまも2人の付き合いはつづいている。その社長のまえにでると、いまでも徳永は小さくなってしまうらしい。徳永にとって、人生の恩人、もう一人の父親のような存在といえる人だ。・・・。



2010年7月7日水曜日

株式会社KUURAKU GROUP 代表取締役 福原裕一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社KUURAKU GROUP 代表取締役 福原裕一氏登場。


福原
本文より~


返済の日々。


500万円まで借金は膨らんだ。消費者金融の利息は高い。利息だけで相当な額になる。返済のために、保険会社に就職。9時~18時まではたらき、会社には黙ってカラオケBOXで真夜中まではたらいた。「死にたい」と思ったこともある。オレって何なんだ。頭を抱え込んだ日々もあった。だが、それでは何の解決にもならない。甘かった事業計画に、甘かった資金の借り入れに、けりをつける。そのために寝食を忘れ、懸命にはたらいた。ようやく借金返済のメドが立ったのは29歳の頃。そんな中、浮かれて友人とスノーボードに行き骨折。1ヵ月の入院生活を余儀なくされる。入院費がかさむ。目の前がふたたび真っ暗になった。時を同じくして地下鉄サリン事件が起こった。TVを観ながら、心に衝撃が走った。一度、死ぬことも考えた男が、簡単に多くの人の命を奪った凶悪な犯罪を観て、「全力で生きよう」と思った。人生がリセットする。過去を振り返り、たのしかった仕事は何か、と模索した時に思い浮かんだのが、ラーメン店でのアルバイトであり、日本マクドナルド時代だった。「飲食業」。このとき福原のなかに明確な指針ができる。「お客様やスタッフたちに喜ばれる」仕事をしよう、と。・・・・。


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2010年7月6日火曜日

株式会社OEC 代表取締役社長 長谷川秀人氏登場。

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長谷川
本文より~


バブル崩壊。倒産。父と母とは連絡が取れなくなる。長谷川は借金を一身に背負った。


「10日で7キロ痩せた」と、長谷川。1989年10月27日にグランドオープンしたこの「飲茶店」は、4日間で420万円を売り上げた。アルコールもないお店だから、かなりのハイスコアだ。社員は3名。残りはアルバイトと建機部門からの応援で店舗を切り盛りした。利益も相当上がったようだ。後に2号店も出店している。時代は、バブルの前後。バブルの崩壊により経済も、社会も、シーソーのように反対方向に傾いた。直接、傾いたのは、長谷川が指揮していた飲食部門ではなく、主要事業の方だった。1993年、負債総額50億円弱で倒産。いきなり会社は債権者で埋め尽くされた。父とも、母とも連絡がつかなくなった。呆然と立ち尽くす暇もなく、長谷川は、社長の息子ということで対応に追われた。「また10キロ痩せた」と笑わしてくれるが、それほど強烈な状況だったのだろう。3日間、駆けずりまわって金策に走る。「幸いに、都銀以外からの借金はなかった。スジの悪いところから借金がなかったので救われました」。とはいえ、債権者からは針のムシロである。当時長谷川は30歳。飲食部門を、どうにも出来なかった7億5000万円の負債と共に引き継いだ。 ・・・。


株式会社OEC 代表取締役社長 長谷川秀人氏


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株式会社プランズ 代表取締役 深見浩一氏登場。

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深見
本文より~


目指すは飲食ビジネス


だが、大学入学と同時に夢中になったのは勉強ではなくアルバイトだった。居酒屋、スナック、バー、フレンチ、弁当屋...。様々な業態を経験する中で大繁盛している店を目の当たりにし、飲食の面白さにハマっていく。「しかもその店は店長が繁忙期に抜け出したり、料理人が厨房で喧嘩したりしている店なんですよね。これで繁盛するなら自分ならもっと凄い人気店を出せると思ったわけです」。
独立に向けて勉強しようとまずは大手飲食企業を目指すが、「それなら業務用の世界を学んで人脈を作ってからでも遅くないよ」という父親のアドバイスで、深見氏は大手飲料メーカーに就職する。ちょうどその会社はリキュールブームで業績がよく、営業職に就けば多くの飲食店を見る機会に恵まれると深見氏は考えたのだった。しかし入社後の配属は、なんと本社マーケティング部門だった。
結果的に深見氏は、その大手飲料メーカーを2年で退職してしまうが、この時の経験が今、大いに役立っているという。例えば書類や企画書の作り方、数字の組み立て方、予算の作り方、プレゼンの仕方…。マーケティング部門で徹底的に“仕込まれた”おかげで、独立後、銀行やディベロッパーの説得に力を発揮し、4号店の準備資金として8000万円の融資に成功している。・・・。 


株式会社プランズ 代表取締役 深見浩一氏


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株式会社シークレットテーブル 代表取締役社長 薬師寺祥行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社シークレットテーブル 代表取締役社長 薬師寺祥行氏登場。


薬師寺
本文より~


バイトと音楽と、フリーな生活に終止符を打ったのは30歳。


卒業を控え、サークル活動は次第に縮小されていく。日毎、夜毎に語り合った仲間たちも、スーツに着替え、ネクタイを締め、就職活動に入り込んでいく。薬師寺はそんな友人たちを眺めつつ、1年間、留年し、大学時代最後のアルバイト先だった会社に就職する。電話回線の営業だった。コミッションセールスだったが、売上が良く、報酬もそれなりにあった。だが、仕事内容が肌に合わず退職。バンド活動を続けつつ、TV番組の制作会社にも2年間ほど勤務する。しかし、楽しい日々はすぐに過ぎていった。やがて30歳という節目を迎える。「だんだん大人になったんでしょうね。もう、潮時だって思いもあって音楽は趣味にすることにしました」と薬師寺は、その時の決断を語っている。ここに至るまで、年齢と共に強くなる、社会的なプレッシャーとも戦ってきたはずだ。それらすべてをいったんリセットすることで、つぎの模索を始めたに違いない。・・・。


株式会社シークレットテーブル 代表取締役社長 薬師寺祥行氏


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この視点の先には・・・。

豊島園


(西武池袋線構内にて  TSM48のポスターを見る男性)