2010年9月30日木曜日

事務所移転(電話・FAXは変更なし)。

大安吉日の29日より、同じ田町内に新事務所を移転し業務開始。※電話番号もFAX番号もそのままです。


東京タワーも近く、風通しも良くなかなかいい感じである。


社員の皆がいろいろと手配等やってくれた。


ほんと、頼もしい限り。


今日は社員とお世話になっている人たちと一緒に焼肉でも行って明日からさらにパワー全開でいこうぜ!!


11月には新しいサービスもスタートさせる予定。



2010年9月28日火曜日

エンパワーダイニング株式会社 代表取締役 坂本 令氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にエンパワーダイニング株式会社 代表取締役 坂本 令氏登場。


坂本
本文より~


30歳まで、なにがなんでも独立だ。


親の反対も押し切り入社した会社。振り返れば楽しいことばかりだった。だが、独立起業のためには、それだけでは足りなかった。26歳。坂本は、一転、営業の仕事を始める。カバン持ちでもいいなら、と採用してくれたのが、人材ビジネスを行なう「パワーリエゾン」の社長だった。ある意味、起業を志す坂本にとっては恵まれた環境だった。人材採用関連のため、営業相手はほとんどが経営者。「いろいろな業種の社長にあえるのが楽しかった」と坂本。2年間で500人以上の経営者と出会ったというのだから、たしかにすごい。楽しくなければ、これだけ積極的にアプローチすることはできなかっただろう。坂本は、営業の才能も、マネジメントの才能も、この会社で育てていく。東京以外に大阪、名古屋にも支店をだすことになり、その拠点立ち上げの指揮も坂本が執った。がむしゃらに働いた。目標は、30歳までの起業。果たして、目標通り起業することができるのだろうか。入社時点で、残すところ後3年。だが、早くも入社2年目にチャンスが訪れた。・・・。


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有限会社サテ・バグース 代表取締役 坂本直樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社サテ・バグース 代表取締役 坂本直樹氏登場。


バグースさかもと


本文より~


一人の親方との出会い。


高校を卒業し、地元にある「自動車関連の会社」に就職する。決め手は?と伺うと、「休みの多さ」という答えが返ってきた。土・日・祝がフルで休め、夏休みなどの休暇も長く、有給も整備されていたとのこと。サーフィンをやるにはもってこいだったのだろう。まとまった休みが取れると、波を求め海外にまで出かけた。青い海、高い波が坂本を虜にする。ただ、入社当時はそれで満足だったが、次第に不安を感じ始める。大手といっても、仕事は工場内での流れ作業。将来について考えると、不安と焦りのようなものが頭をもたげてくる。21歳になって、その会社を退職。土木関係のバイトを始めた。職は替えたが、海へはもちろん通い続けた。そんなバイト生活を続けていたある日、TVCMを観て、初めてスーツに憧れた。ふたたび就職活動を開始。内装関連の会社に就職した。営業の仕事も初チャレンジ。だが、このスーツの仕事は長く続かなかった。「当時は、何事もヒトのせいにしていました。仕事がうまくいかなくては、ヒトのせいにし、サーフィンに逃げていたんだと思います」。だが、このとき一つの転機を迎える。仕事を通し、一人の土木関連の仕事を行っている親方と出会ったからだ。「その人が独立するというので、手伝い始めたんです」。・・・。 



2010年9月27日月曜日

3D映画、なかなかおもしろい。

はじめて、3Dで映画鑑賞したがおもしろかった。


特に、バイオハザードは迫力あった。


バイオハザード
海猿 
 



2010年9月26日日曜日

久しぶりにHUGEの新川さんのお店に・・・。

昨日は、事務所引っ越し準備のあと久しぶりにHUGEの新川社長が運営されるMUCHOのオープニングパーティーに行った。いつもながら新川さんもパワフル、しかも満員で身動きとれず。


MUCHO


22日は、元部下と品川で飲みに行く予定だったので、ダイヤモンドダイニングの松村社長が運営される龍馬街道のレセプションに顔出させてもらう予定であったが招待状を忘れていたため行くのをやめたが、大変残念だった。



東京ドーム プレミアム・ラウンジ。

先日の巨人VS横浜戦をプレミアム・ラウンジで観戦させてもらった。


東京ドームは十数回行ってるがなぜかほとんどがプロレス観戦。


野球
野球3 野球2 
ご招待頂き感謝します!! 


この試合横浜に巨人負けちゃいました。(悲)
 



2010年9月22日水曜日

株式会社ドリームリンク 代表取締役社長 村上雅彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ドリームリンク 代表取締役社長 村上雅彦氏登場。


村上
(ご本人の意思により顔写真なし)


本文より~


生徒に人気、だが教師から疎んじられた少年。


村上が生まれたのは、1963年。秋田県秋田市に生まれた。父は銀行員で、母も父と同じ銀行ではたらいていた。職場結婚。長女が生まれ、長男の村上が生まれる。姉弟2人。さぞ、幸せな家庭だっただろう。しかし、村上にとっては、どこか窮屈だったのかもしれない。ヤンチャな少年に育っていく。中学時代からタバコを吸い、バイクにも乗った。好意的に表現すれば、好奇心旺盛な少年だった。一方で、医師を志すなど、奔放な性格と堅実な性格の両面を持っていた。ケンカも辞さない一本気な性格で、誰かがいじめられていると聞けば、飛んで行った。素行はほめられたものではなかったが、生徒たちからの人気は抜群で、教師からすればこの上なく扱いにくい生徒の一人だった。初めての高校は1週間で退学し、再度、入学した高校も退学させられている。「退学は、教師たちの策謀」。少年にはそう映った。のちのちまでこの時の教師たちが下した決定は作為的という思いがぬぐえず、逆にいえば、「あいつらよりは偉くなってやる」と、それが村上の原動力にもつながっていく。


「成り上がり」を読んで、美容師の道に進む。


矢沢永吉氏著の「成り上がり」に触発されたのは、停学で謹慎させられていたときだ。医師をめざしていた少年が、医師以外にも、社会に評価される職業があり、生き様があることを知る。だから、高校を中退させられたとき、学歴がなくても、成り上がれるからと、料理人か美容師になろうと考えた。両親にも相談した。結局、美容師を選択し、東京の専門学校に入学。当時、美容師といえば女性の職種。男性はめずらしい存在だった。それでかえって注目もされたのだろう。初めて就職した美容室では、先生にかわいがられ、お客様にも人気があった。当時の美容室といえば、物販も収益源の一つだった。村上は、入社1ヵ月目に、この物販の売上で、ベテラン美容師を抜いてしまった。経営者からすれば、「こいつはいける」そう思ったに違いない。だが、村上は、ステップアップの青写真を描いていた。この店の次は、あの店で、と。たしかに将来に、明るい兆しがあった。「あのまま美容師の道をあゆみ続けていたほうが良かったかも」と村上は、笑いながら美容師時代を振り返った。 ・・・。



株式会社コンプリート・サークル 代表取締役 内田優二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社コンプリート・サークル 代表取締役 内田優二氏登場。


内田
本文より~


お洒落なバーやカフェで働きたい。かなわぬなら「自分でつくる」。


ファッションが好きで生活雑貨の会社に身を投じた内田だが、旺盛な好奇心、幅広い分野への興味は、平凡なフリーター生活の中には収まり切らなかった。クラブでDJをこなしたり、阪神大震災直後の神戸で復旧工事に携わったり、そしてここでようやく本格的に飲食業に関心を持つようになったり…。勉強と同様、一度これだと決めれば、内田の行動は迅速で力強い。「とにかくお洒落でカッコいいカフェやバーで働きたかった」という思いで、一流店舗の採用試験を次々に受ける。なかなか採用に至らないが妥協はしない。「つまらない店で働くくらいなら、自分で店をつくる」と決め、高校時代に貯めた100万円、震災復旧で貯めた100万円、計200万円を元手に6坪のショットバーを開いたのだ。高校時代から築いてきた豊富な交遊関係も手伝い、小さいながらも店は大盛況。次のステップへの大きな足がかりとなる。 ・・・。



2010年9月21日火曜日

“無料”。最近のキーワードの一つかも・・。

初期費用、掲載広告費、応募・面談しても“無料”(採用してはじめて課金)であるジョブセンスを取り扱っているが、


最近“無料”というキーワードが飲食・食材取扱店にも増えてきた。


【味の素・発表リリース】より
~日本が誇る食文化“だし”のおいしさを広めたい~
女性のための無料カフェ「だしCafe」誕生!
2010年10月1日(金)、東京・有楽町にオープン!


だしカフェ


味の素株式会社(社長:伊藤雅俊 本社:東京都中央区)は、2010年10月1日より、「だし」を無料で味わうことができる「だしCafe(カフェ)」を東京・有楽町にオープンします。


だしカフェ2


「だしCafe」では、主に20代~30代前半の若年女性をターゲットに、昆布、かつお節、煮干しを利用して本格的に取っただしで味噌汁、お吸い物を作り、塩むすびとともに無料で提供します。
また11月以降、月に1回、日本を代表する料理人を講師に迎え、若年女性対象にだしを活用した料理教室を開催する予定です。(有料)  
 
近年、20~30代前半の若年女性に、だしについての認知度が低い方が増えています。
先日当社が20~50代の女性約3,000名を対象にアンケートを行ったところ、料理をする回数の全年代平均は週に5.4回だったのに対し、20~34歳では週に4.2回でした。また「自分の料理に自信がありますか?」という質問に対しては、20~34歳で「ある」と答えた人は3人に1人に留まりました。一方、だしについては、20~34歳の実に84.2%が「きちんと取れるようになりたい」と回答。だしについては「料理をおいしくする」「きちんとした食生活に必要」などプラスのイメージの回答が目立ちました。本調査からは、特に20~34歳女性の“料理やだしに対する興味・関心はあるものの、なかなか実践できていない”という実態が浮き彫りになると同時に、料理の基本であるだしへの高い関心と好意的な意見を伺い知ることができます。 


ところで、何これ?


ダシマスター
隔週刊の青年誌ビジネスジャンプで連載中の【ダシマスター】



2010年9月19日日曜日

つくづく飲食経営の難しさを感じる。

シェ松尾とグループ会社のシェ松尾エンタープライズが、事業支援会社に事業を譲渡。


9月16日、事業譲渡及び債務整理に入ったようだ。


リーマンショック後、高級レストランの売上低下による経営不振が増えているようだ。


これだけ飲食店舗が増え、景気も内食が増え、ビール消費賀低下しているなか、本当に飲食の経営は難しいと思う。


頑張れ、飲食経営者たち!!  心から願う次第である。



2010年9月14日火曜日

株式会社三ツ星カンパニー 代表取締役社長 星野穣久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社三ツ星カンパニー 代表取締役社長 星野穣久氏登場。


星野
本文より~


2002年4月、「まんまる」オープン。


「おやじ、おかん、妹、おばあちゃん、ぼくの5人がゴールデンメンバーだった」。星野は事業立ち上げの瞬間をそういう風にいって笑った。15坪の焼鳥屋が星野の原点。店名は「まんまる」。いまでも、この店は主要店舗の一つだ。開業に至った経緯は以下の通り。郵政局の局員だった父の高志氏が、息子の星野に起業を持ち掛けた。それが、始まり。当時、高志氏は保険を担当し郵便局のなかで、ずば抜けた成績を収めていたそうだ。関東では常に№1。それだけ凄腕の営業マンだったそうだ。当然、収入も良かった。ところが、小泉改革で民営化されたことで、インセンティブが禁止され、収入が激減した。その減収分を補おうと、かつて経験したことのある焼鳥屋を始めようと考えたのである。ただ、民営化されたとはいえ、副業は禁止されていた。そこで高志氏はワシントンホテルのフロントに席を置く息子の星野に白羽の矢を立てた。「ぼくはその当時、フロントの仕事がおもしろくてしかたありませんでした。だから『おれ、いま仕事がたのしくてさ』って暗に断ったんですが、『なら、オレが半分やるから、お前も半分やってくれ』って。さすが凄腕の営業マンですよね。そこまで言われたら、イヤだとは言えなくなってしまって…」。こうして、親子2人。それに家族も加わった強力なメンバーで、<焼き鳥ともつ煮、沖縄料理の店>「まんまる」がオープンした。2002年4月のことである。・・・・。


株式会社三ツ星カンパニー 代表取締役社長 星野穣久氏


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株式会社ミュープランニングアンドオペレーターズ 代表取締役社長 吉本隆彦氏登場。

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吉本
本文より~


学生時代早くも、店舗マネジメント、オペレーションの才を発揮する。


「小学生時代はどちらかといえば内向的な性格だった」という吉本だが、学生の頃にはスポーツにも、勉強にも、そしてもう一つアルバイトにも積極的に精を出す青年になっていた。「日本の大学にいた3年間は、父親が経営していたDQ(デイリークイーン)というアイスクリーム店ではたらいていました。百貨店の地下に店を構えている高級なアイスクリーム店で、私は主に神戸地区の、百貨店などにある店の管理をしていました」。吉本が20歳前後のことだから、1975年前後。いまのようなカラフルなアイスクリームはなかった時代である。専門店もむろんない。「飛ぶように売れた」と吉本は語っている。とはいえ、想像以上の売上を実現できた理由は、時代が良かったからだけではないだろう。吉本の「商才」が若いうちから花開いていたといえるのではないか。もっとも、吉本の給料はわずか10万円程度に過ぎなかったようだが。さて、大学4年を目の前にして、兄の勧めもあり南カリフォルニア大学に編入する。その大学を卒業後も、アメリカに残り、米国に進出していたサントリーでアルバイトを開始。「『日本からわざわざ来たんだ』なんていいながら、お酒を売るんですが、そのときにさまざまな経験ができました。とくにラスベガスには大量のお酒が流れ込んでいくんです。夜と街がお酒を飲み干していく、という感じでしょうか」。青年、吉本がナイトビジネスのダイナミズムに引き寄せられていくのは、この時の経験があったからだ。 ・・・・。


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2010年9月9日木曜日

山口百恵の人格者ぶり(たまたま朝見た記事から)。

山口百恵の人格者ぶり見習うべき。


昔よく見ていたあの伝説の音楽番組『ザ・ベストテン』に出演したときのことらしい。『この番組は生放送のため、歌手ひとりの持ち時間が3分ぐらいしか無かった。


それなのに当時、歌番組に出演することがなかった松山千春が約8分間を使った結果、最後の山口百恵は歌う時間が無くなり記念撮影のためだけに登場した。


それも自分が遅れてきて歌えなくなったように見せるため、回転ドアから慌てて出てきたのだ。歌えなくなったのは誰の責任でも無く、自分が悪かったからだと視聴者に思ってもらうために装った山口百恵。


当然、番組スタッフは彼女に対して平謝りだった。それに対して「分かってます。大丈夫ですよ。」と、何も責める言葉を口にしなかったという。


しかし山口百恵以外の出演者の方が、怒り心頭だったそうだ。 (TechinsightJapan編集部 みやび)より』


社長やってたり、年齢重ねると、こんな気遣いついつい忘れがち。


忘れてなくてもなかなかできないものだ。



『第70回東京ギフト・ショー』。

ギフトショーに顔を出し情報収集しに行ってきた。


いろいろな会社、また商材があるもんだ。


常日頃とはちょっと違うものを見たり、情報収集するのは大事である。


※もちろん、タダでは帰りません!!


ギフトショー2
ギフトショー ギフトシヨー3



2010年9月7日火曜日

株式会社サービスビジネスコンサルティング 代表取締役社長 日賀野俊雄氏登場。

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日賀野氏
本文より~


大学中退し、バーテンダーの道を進みはじめる。


兄は、芸術関係の大学に進学するため九州に渡った。2年後、今度は日賀野が進学する番だ。日賀野は東京に出た。進学したのは「学習院大学」。名門である。しかし、19歳になって始めたアルバイトをきっかけに日賀野は、この大学を1年半で退学してしまう。「田町にある「すっぽん料理」のお店でアルバイトをさせていただいたんです。当時、大学生だったんですが、腕に職をつけようと考えたんです。およそ1年、学校に通いながら板前修業をしました」「その店では調理もそうなのですが、実は、先輩にあたる人が、板場にいるにもかかわらずとても人気者だったんです。どうしてだろう。観ていると気配りや気遣いができているんですね。元々ホストをやられていたと聞いて、なるほどな、と。こういう人になりたいと思い始めるんです。それで大学を中退し、バーを経営する会社に就職したんです」。・・・。


株式会社サービスビジネスコンサルティング 代表取締役社長 日賀野俊雄氏


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株式会社ビーエム 代表取締役社長 青沼 弘氏登場。

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青沼氏
本文より~


木材工場から運送会社に。人生の旅が始まった。


「農業高校」を卒業した青沼は、母方の親戚が営む木材工場に就職した。当時からオートメーション化を進めた近代的な工場だった。この就職で初めて山梨を離れ、千葉で暮らすことになる。「木材を黙々とカットしながらも、何かやろう、やろう、と。気持ちははやるのですが、では何をするか、それがわからなかった」と青沼。焦燥感が青年の心を揺らす。3年後、青沼は焦燥の出口を探すために、もしくは希望の入口を探すために、会社を後にした。新たに就職したのは「日本運送」という運送会社。運転手からのスタート。この会社で青沼は10数年間勤務し、身体も心もたくましい青年に育っていく。「ドライバーですから、いろんな社会に商品をお届けします。これが私の世界観を広げてくれました」。入社して数年後には、寡黙にはたらく姿が社長の目にとまり別部署に移ることになる。その部署とは「事故係」だった。問題が起こったときに頭を下げに行く係といってもよかった。この部署では「問題が起こったときにどう対処すればいいかを学んだ」という。ここでの経験も、青沼を強くした。 ・・・・。


株式会社ビーエム 代表取締役社長 青沼 弘氏


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2010年9月3日金曜日

『第24回東京ビジネス・サミット2010』 。

もう、24回開催している東京ビジネス・サミット。お付き合いあるベンチャー・リンクさんが主催なのに初めての参加である。


新商品や新しいビジネスが主のため、なかなかおもしろい。


いい刺激と発想が生まれる。


東京サミット3


東京サミット2 東京サミット1

 



2010年9月1日水曜日

株式会社ジー・ピー・アイ 代表取締役社長 岩崎肇氏登場。

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ジーピーアイ
本文より~


目標のない就職活動への違和感


「企業活動を通して人々のクオリティオブライフの向上に貢献する」。これは株式会社ジー・ピー・アイの企業哲学だ。そして面白いのはこの続き。例えば「緑あふれる惑星を目指し、かけがえのない緑を感じ“地球の緑は美しい”と言ってもらえる努力をする」とある。
飲食事業を展開する企業として1999年4月に誕生した同社は、実は10年スパンで事業領域を広げ、2030年には“衣食住”のトータルで人々の生活向上に貢献する企業となることを目標としている。もちろん事業展開や企業としての使命、ビジョンを先頭に立って考え実践しているのは、若干36歳の社長、岩崎氏だ。
1974年8月、千葉県に生まれた岩崎氏は、父、母、妹の4人家族で育つ。幼少期からサービス精神旺盛なキャラクターで、遊びに来る従姉妹のためにイベントを企画したり、いつものゲームがよりエキサイトするようなルールを考えてはみんなを楽しませたという。
父親は半導体製造装置メーカーや大手金融機関など、主に外資系企業の経営に携わっており、そんな岩崎氏の自主性を大切に育もうとしたのか、息子の進路や就職には寛容だった。
「大学4年で就職活動をはじめたのですが物凄く違和感がありました。やりたいことが分からないのに会社を選ばなければならないことが胸の引っ掛かりになって...」。社会と対峙することとなった岩崎氏は、自分が何がしたいのか、何をすべきなのか見つからぬままの就職活動に疑問を感じたという。そして出した答えはアメリカ留学。非日常に身を置き刺激を与えれば、自身がシャッフルされおのずと答えが出てくると考えたからだった。・・・。


株式会社ジー・ピー・アイ 代表取締役社長 岩崎肇氏



株式会社スモルストン 代表取締役社長 石田盛人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社スモルストン 代表取締役社長 石田盛人氏登場。


スモルストン
本文より~


放蕩な生活を送った青年時代。


中学になった石田は、バスケットボールを始める。姉の影響がたぶんにあったそうだ。このバスケットボールにのめり込んでいく。勉強はおろそかになったが、高校へはバスケットボールのおかげで、特待生として進学することができた。もちろん、クラブ活動のみに専念できたわけではない。生活のために、レストランでアルバイトを始めた。これが、石田の原点になる。ホールとカウンターを経験し、飲食のおもしろさに惹かれていったのだ。とはいえ、まだ高校生、起業するという思いにまでは至らない。ファッション関連の専門学校に進んだのも、漠然と将来を捉えていたことの証だろう。あいまいな動機では続かない。1年も経たず、石田は専門学校を辞めてしまった。遊び仲間がたくさんいたのだろう。高校3年の頃から友人宅に転がりこみ、ハタチになるまで家にはほとんど帰らなかったという。家族、特に母のことを思えば遊んでいられなかったはずだ。だが、なにをすればいいかわからない。気持ちだけが空回りし、現実に向かい合うことができなかったのではないだろうか。ともあれ、そんなときに、兄から「しっかりしろ」と諭された。その一言が、石田を救った。高校時代にアルバイトをしていたレストランに戻り、自宅から通った。石田の生活が、初めて地に足を付けて動き始めたのはこの時からだろう。・・・。


株式会社スモルストン 代表取締役社長 石田盛人氏


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