経費削減関連、食材関連、紙メディアやネットはもちろんTV関連の販促支援、物件情報、業務用フラワーなど飲食業界に必要なネットワークもようやく構築できた。
かなり強い商材、他には無いラインナップが揃った。あとはその層を厚くしていくだけ。
そのために社内の仕組化が急務である。
経費削減関連、食材関連、紙メディアやネットはもちろんTV関連の販促支援、物件情報、業務用フラワーなど飲食業界に必要なネットワークもようやく構築できた。
かなり強い商材、他には無いラインナップが揃った。あとはその層を厚くしていくだけ。
そのために社内の仕組化が急務である。
現在、居酒屋甲子園で優勝した「うまいもん炙り いざかや炎丸」(PrunZ)、「どすこい酒場 玉海力」(玉海力)、「七志ラーメン」(ナナシフードサービス)の自慢メニュー登場。
お試しください。料理バトラー
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社肉のやしま 代表取締役社長 八島且典氏登場。
子どもの頃から商売に興味を抱いていた八島が改めて「商売人はカッコいい」と思うようになったのは、母に連れられて行った豆腐店の社長を見てのことだった。周りも違った。田舎町と比較するとすべてがケタ違いに思えてくる。ちなみに、この豆腐店の社長は、いまでも八島の師匠であり、商売のイロハを教えてくれた恩人でもある。「人に認めてもらおうと思うな」「お金の使い方を学べ」、と、当時、言われたことをいまでも覚えている。特に後者は、身を持って覚えたことでもある。どういうことか。最初に入店した時の時給は450円。それが1ヵ月で500円になった。社長からは良くがんばったから昇給してやると言われた。すると昇給したことはもちろんだが、認められたことがうれしく、さらに努力をするようになったのである。これがお金の使い方の一例というのである。ところで今でもカウンターのなかで仕事をする八島は、当時から人一倍仕事に打ち込むタイプだった。豆腐屋は朝が早かったが苦にもならなかったと言っている。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
『武田あかねの食の応援団』11月のゲストは“ROI 恵島良太郎社長”です。
武田 クライアント数も、会員数も順調に伸びているとお伺いしています。「ファンくる」「グルリザ」とネーミングもユニークです。まず初めにこれらのサービス内容からお聞かせください。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社トップアンドフレーバー 代表取締役 山内勝常彦氏登場。
野球少年だった。それもピッチャーで、打順は常に4番か5番。野球の上手な少年だった。「たまたま野球チームをつくるというので、誘われたんです。それがきっかけですよね」、今回、ご登場いただく山内 勝常彦は、笑いながら子ども時代を振り返った。まさか、たまたま誘われた野球で飯を食っていこうと思うようになるなんて、本人も予想していなかったことだろう。中学になり、山内は、調布大会で優勝。都大会にも出場している。横手投げながら、スピードに乗った球は、凡打の山を築いた。あわや完全試合も経験している。当然、プロも視野に入ってくる。山内は多くのプロ選手を輩出した早稲田実業に進学。8年下には荒木大輔がいた。江川や掛布といったわれわれでいえばブラウン管のなかでしかみたことのない選手たちとも実際に戦っている。「でも、もういいかって気持ちもありました。だから、野球ができる大学には進まず、宮崎の航空学校を受験したのです」。だが、この受験に失敗する。2回受けたが、ついに合格のキップは手に入らなかった。挫折といえば一つの挫折だろう。パイロットになるという目標は砕け散った。・・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社三和ホールディングス 代表取締役社長 茂山幸一郎氏登場。
茂山12歳の時、突然、母が東京に移り住むと言い出した。実はこの頃、父親は東京進出を成功させており、東京と京都を行き来する生活をしていた。それがきっかけで、家族全員で東京に住むことになったのだという。最初は京都弁をからかわれたりしたこともあったそうだが、すぐに溶け込み、学級委員長に選ばれたりもしたそうだ。東京の中学に行くと、体育と美術以外の点数も急に伸びた。もともとスポーツは万能。クラスの仲間たちからも、すぐに認められたのだろう。中学ではソフトボール部に所属し、都立高校に進学して野球を始めている。主にピッチャーで、四番。白球を追いかけながら、茂山少年は、体躯のいい青年に育っていった。大学は明治。2度失敗し、明治に進んでいる。この頃の大学生は、どのような生活をしていたのだろう。茂山は。スキー同好会に入り、いまでいうパック旅行を企画。1シーズンに、900人の客を山に連れて行ったそうだ。「赤字ギリギリの1万5000円です。スキーが流行っていたこともあって、次から次に参加者があつまりました。主に女の子のお客様が多かったと思います(笑)」。採算割れの時もあったが、もともと儲けるという意識はなかったそうだ。・・・。
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日本航空よりパイロットが110人、客室乗務員が90人、休職者50人の合計250人の整理解雇を発表。
今まであこがれの職種であったパイロットやCAだが、今やその転職事情はきわめて厳しい。
インターネットの進出でテレビ業界や新聞・出版業界も厳しい。
そんななか、不人気業界の一つである飲食業界が、もしかして人気業界に変わるかも知れない。
ただし、そのためには定年まで長く働ける職場環境のある企業が数多く増えないと難しい。
先日、武田が取材した2011年8月で50周年迎える「月刊食堂」様(12月掲載予定)、また過去最高の収益出されている「料理王国」様(1月掲載予定)の話の中にヒントあるかも・・・。
乞うご期待ください。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”の社長取材をしているが
先週は、まい泉(井筒まい泉)の岡本社長、キャン・プランナーの小島社長、大島ラーメンの大島社長、DFCの阪田社長といろんなご経歴の社長とお会いした。
先週は特に今までとは違う環境、またバイタリティーある社長様の取材だった。
きっと今後独立したい方、現在どん底にいる方、田舎にいて東京に出てきたい方、業界未経験の方などいろんな方に元気になってもらえると思う。
決して、メディアに露出していない会社や規模がまだ小さくても、働きやすさやおもしろい会社が山のようにある。
我々の使命は、業界全体の採用通じて元気にすること。
もちろん、社長取材には弊社のスタッフを同席させているが、こんな機会は正直まず無いため社内も元気注入させてもらっている。
記事アップを乞うご期待!! ※毎週火曜更新。
縁商事様、この動画のおかげでテレビのニュース番組で取り上げられます!!
ただ採用だけでなく、もっと会社全体のPRにも関わっています。
やっぱり違います、我々のブレーンのテレビ制作会社は・・・・
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社Syonan Tonbi Project(しょうなん とん びぷろじぇくと) 代表取締役社長 小野寺 崇氏登場。
無事、高校に進学した小野寺は正式に野球部員になる。1年から試合に出場し、3年間4番バッターとして試合に出た。進学校ということもあったのだろう。日曜日は練習が少なく、時間があまった。1年生から小野寺は飲食店で、禁止されているはずのアルバイトを始めた。「女の子にモテるんじゃないかって。そんな理由からです(笑)」。まさか、このときのアルバイトが一生を決めるとは、本人が一番、想像できなかったはずだ。ただ、始めてみると、おもしろくてしかたなかった。接客・サービスに魅せられた小野寺は、関内のYMCAホテル専門学校に進学する。大学進学率100%の学校設立以来の、快挙だった。少年が青年になり、与えられた安穏な道ではなく、自らの意思で道を求め歩き始めたという意味で。学校に通いながら、ヒルトンホテルなどで実習を行う。これもまた、たのしくてしかたなかった。よほど接客という仕事に向いていたのだろう。卒業後、小野寺は「ブリーズベイホテル」に就職。ベルボーイ、フロント係を勤めた。だが、ここで将来に疑問を持つ。このままでいいのだろうか、と。結局2年で退職。求人誌に載っていた「平成フードサービス」に応募することになった。・・・。
前職の後輩の堀田君が運営するハンドカットログハウスの宿 「素楽(sora)」に、フラッと立ち寄った。
といっても栃木県の那須郡那須町だから東京からは180kmはある。行くって言っててなかなか行けなかったので約10年ぶりであったが会えてうれしかった。
本当にすばらしいペンションだ。是非ともオススメ!!
堀田君には、前職の営業所長時代、退職する最後のクォーターで全国ナンバー1の営業所になった時、チーフとして大変よく頑張ってくれた。今でも当時の記憶がよみがえってくる。
今度は、ちゃんと連絡入れてゆっくり泊まりに行くぜ。
母校である大学エグゼクティブ同友会があり名古屋に午後から入る。
名古屋で、2件仕事の打ち合わせし、会に参加した。
まわりに同じ大学の経営者がいないだけに安心感と親近感がある。
帰り、栄のテレビ塔周辺を通った。
学生の時とはずいぶん変わったと思うが、やはり懐かしさがある。
創業からの求人業務を軸としていくことは変わらないが、いろんな試み・新サービスを着々と進行中。
キイストンしかできないこと。
キイストンならでは。
これが、より多くの人に夢・希望を与え続けるという経営理念を実践することになる。
乞う、ご期待!!
2日までに、焼とりの八兵衛の八島社長、せい家の山内社長、 未来貢献の山本社長、ごっつの森川社長、ベイサイド・ダイニングの小林社長、湘南とんびプロジェクトの小野寺社長の取材が済んだ。
かなり、各社長からおもしろいお話聴けた。
皆さん、会社の大小や業態の違いはあるものの魅力的だ。
話を聴いて感じるのは、飲食企業の社長で自分の幸せだけ考えている社長は、間違いなく先が無い。
苦労無くして成長無し!!
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ダイヤモンド・ドリーム・ダイニング 代表取締役 小澤仁裕氏登場。
「個人投資家」。いまでこそ一般的な言葉だが、1970年代の個人投資家と聞けば、一部の資産家など、特別な人をイメージしがちである。今回、ご登場いただく(株)ダイヤモンド・ドリーム・ダイニング、代表取締役の小澤仁裕の祖父も、その時代を生きた個人投資家の一人だ。小学3年生の頃、両親が離婚。小澤は母と姉とともに、この祖父の元に身を寄せ、暮らすようになる。当時の記憶を伺うと、「祖父が、東京の銀行や証券会社などに行くときにくっついて行って、高島屋などで食事をしたという記憶がいちばん鮮明に残っていますね」とのこと。小澤の「食」の原点が顔をのぞかせる。一方、学業のほうはどうだったのだろう。「小学生の頃から勉強は好きでしたね。成績はクラスで一番。だから勉強で悩んだことはありません。ただ、小学5年生の頃、ガキ大将とのケンカがきっかけで友人たちが去っていってしまったのです。あの時は正直キツかったですね」。ところで、当時から起業という思いは、抱いていたのだろうか。「祖父の影響もあるのでしょう。わりと小さい頃から、将来、社長になりたいと思っていました」。子どもの頃の目標を実現することはむずかしい。はたして、小澤のおぼろげな目標はかたちになっていくのだろうか。・・・。