ちょっと遅めの夏休みを取り、三重の伊勢に。
深夜出発したんで、三重県に着くと代があけそうだったので夫婦岩へ。
その後、早朝の伊勢神宮の内宮に・・・。
パワーも充電できたんで、これから飛ばそう。
ちょっと遅めの夏休みを取り、三重の伊勢に。
深夜出発したんで、三重県に着くと代があけそうだったので夫婦岩へ。
その後、早朝の伊勢神宮の内宮に・・・。
パワーも充電できたんで、これから飛ばそう。
“飲食の戦士たち”初のマスクマン社長登場!!
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にカレー倶楽部 ルウ 代表取締役社長 日置純彦氏登場。
夏の風物詩の一つである花火。今回、ご登場いただく「カレー王子」こと、カレー倶楽部 ルウ、社長 日置純彦の父の仕事は、花火を打ち上げること。いまも夏になると、日置の父が打ち上げた火が夜空を照らす。
そんな父の下に日置が誕生したのは、1976年。高度成長期真っ只中である。「花火職人は、夏の仕事でしょ。だから、冬にも収入が得られるように鉄砲店を経営していました。また母も生活を安定させるために飲食店や化粧品店、ブティックなどを経営していました」。「母が飲食店を始めたのは、私がまだ小学校低学年の頃。私と弟の二人は祖父や祖母に育ててもらいました。私が、おじいちゃん、おばあちゃん子なのはそのためです(笑)」。
祖父、祖母に可愛がられた少年日置は、勉強に精を出した。小学校の頃はいつもトップクラスの成績だった。中学になると柔道部に入部。その後も続け、現在、黒帯2段の腕前を持つ。ところが勉強にもスポーツにも長けた少年だったが、高校に入るといっぺんする。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社リトル沖縄オーバーシーズ 代表取締役社長 小嶋達典氏登場。
いい意味でも、悪い意味でもついて回る。小嶋家の長男という肩書である。むろん、それを自覚するのは大人になってからだろうが、小さな頃から父の商売に対する情熱を感じながら育ったのは間違いない。あれこれ言われず自由だったと、小嶋達典は子ども時代を振り返るが、その一方で多忙な父をいつも見詰めているような少年ではなかったか。ともかく、今回、ご登場いただく戦士は、あの「がんこ」を経営する「がんこフードサービス」の現会長、小嶋淳司氏の長男である。
小嶋達典が生まれたのは1968年12月、万国博覧会が開催されるおよそ1年前だ。日本は、高度経済成長の波に乗り、外食事業もまた産業として位置づけられるようになっていく。この点でいえば、父、淳司氏の努力があったのだが、少年、小嶋にはもちろん、父の熱い思いはまだ理解できない。もっぱら剣道に憧れた少年だった。「小1から剣道を習い始め、中学3年生まで続けました。もちろん、私の意志です。高校は関西大倉高校という私立に進みました。もう剣道はいいかな、とアメリカンフットボールか、ラグビーかと迷ったんですが、アメリカンのほうは丸刈りだったんで、じゃぁラグビーだ、と(笑)。でも、このラグビー部がキツかった。36人が入部して、1年後まで残ったのは私を含めたった7人でした」。
このクラブ活動の厳しさに耐えることで、少年、小嶋は徐々に逞しい青年に育っていくのだが、ここまで小嶋と料理の接点はあまりない。「中学の時にがんこでバイトをしていたぐらいでしょうか」。高校になるとクラブが忙しく、バイトをする暇もなかったそうだ。・・・・・・。
株式会社リトル沖縄オーバーシーズ 代表取締役社長 小嶋達典氏
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に型無株式会社 代表取締役社長 矢野潤一郎氏登場。
もともと商社マンだった父が、会社をスピンアウトしてしまう。ここから矢野家の、新たな物語がスタートする。「ぼくが中学2年生の頃です。父は、すでに会社を辞めて、外国人向けの日本語教師を務めていました。そのとき、バンクーバーの友人ができたのがきっかけで、父がバンクーバーを好きになり、息子の教育にもいいということで一家、3人、移り住むことになりました」。「父は会話にも不自由しませんでしたが、ぼくや母はたいへんです。ぼくは日本の中学1年生の英語レベルでしたし、母はまた語学が堪能なわけではありません。特に母は、向こうの人との接点もない。ところが、しばらくすると母がいちばん馴染んでしまうんですが(笑)。ともかく、半年でなんとなく内容が聞き取れるようになり、1年で会話もできるようになりました」。語学以外にも、文化の違いにも矢野少年は驚いた。「中学生になればもう大人と同じ扱いなんです。タバコも自由で、教師と生徒が一緒に喫煙するのもめずらしくありません。迷惑さえかけなければ、教室で音楽を聴くのも自由です。カリキュラムも日本の大学のように自分で判断して授業を選択するんです。ぼくの場合は、最初はわからないだろうって選択する科目を学校側が選んでくれました」。中学2年といえばまだ14歳である。ともかく14歳の矢野少年は、それまで暮らしていた日本とは異なる文化・風習のなかで、頼りなげなものの、次の一歩を確実に踏み出したことになる。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
「チアーズ」9月号(8.15発行)にて、ワーキングホリデー帰国者の就職支援企画第5弾の広告発信!!
今回のご登場は板前寿司ジャパンの中村桂社長。
板前寿司は、創業以来4年連続で、東京築地の初競りにて最高値のまぐろを購入。 4年目の今年は、史上最高値3,249万円/1本(北海道戸井産342Kg)@95,000円/Kgで落札し、周囲や市場関係者をあっと驚かせました。
オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」
8月11日。
なんと、キイストンで短編ムービー【ソースケさんの家出】作っちゃいました。
制作して頂いた映画監督が、短編映画の映画祭に出しますってことなんで、そちらも楽しみにしています。
飲食業界での就職・転職応援ムービーですので、是非ご覧ください。
また、まわりにPRしてもらえるとうれしいです。
キイストンは「より多くの人・企業に夢・希望を与え続けます」。
おかげさまで飲食の紹介案件が全部併せると1,200案件超えた。
ご要望にお応えするためには、多くの人材を集める必要がある。
しかも未経験でも20代を・・・!!
ということで、“「はじめて」から応援する転職サポート ワーキングBOAT”のサイトをOPENしました。
いろいろアクションを起こします!!
いつも『Win・Win・そしてWinの精神』を忘れず。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社梅の花 代表取締役社長 梅野重俊氏登場。
父がもやしの生産工場を営んでいた。だからなのだろうか、付いたあだ名は「もやし」だった。「子どもの頃はガリガリでね。それでもやしと言われるようになった」と今回ご登場いただいた株式会社「梅の花」代表取締役社長 梅野重俊は、そう言って笑う。
彼が育ったのは、福岡県八女市。熊本県の県境にあるこの市は、見渡す限り田んぼがつづく田舎町だった。その田舎町でも梅野は裕福な家で、祖父は田んぼを貸すいわゆる大地主。父が営んでいた「もやし」工場も高い利益を上げていた。「工場といっても家内生産です。ただ、もやしは数日で出荷できるわけですから、儲かっていたんでしょう。あるとき、家の通帳を盗み見てびっくりしたのを覚えています。テレビを買うのも早く、村の人たちがいつも家にいるような感じでした」と梅野は少年時代を振り返る。一方、もやしとあだ名を付けられた梅野だったが、やんちゃ盛りで、周りの少年たちのリーダー的な存在でもあったようだ。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
コメ先物、初日から中断…原発影響?買い殺到(読売新聞より)
72年ぶりのコメ先物取引が8日、東京穀物商品取引所(東穀)と関西商品取引所で始まった。
東穀では、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響などで今後、コメの価格が上昇するとの観測から買いが集まり、午前11時現在で取引が成立しない状況となっている。東穀の関係者は、「放射能汚染によるコメの供給不安が、関係者に思った以上に広がっているようだ」と指摘している。
予想以上に深刻かも・・。
おかげさまでココにきて多くの紹介案件をもらっている。細かなものまで入れると1,200案件以上ある。
これも“飲食の戦士たち”で社長様の取材させてもらい接点頂いたから・・・。
ご要望にお応えするため“いんしょく人材紹介”のサイトを大リニューアルした。
全て社内で作れるとは・・・、キイストンの社員もたいしたもんだ。
まずはその第一弾が始まったばかり。
これからいろいろアクション起こします!!
Win・Win・そしてWinの精神で飲食業界を元気にします。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にオーグードゥジュールグループ 代表取締役 岡部一己氏登場。
頑固で、怖いはずの父が、料理を食べながら笑っている。今回、ご登場いただくオーグードゥジュールグループの代表取締役社長 岡部一己の小さな頃の記憶のひとコマ。料理をつくるのも好きだったが、人の喜ぶ顔を見るのが、もっと好きだった。いつか料理人になろう。小学3年生の文集には<板前になりたい>と書いた。その思いは、大人になるまで胸から消えなかった。
岡部が生まれたのは、京都府福知山近くの山間の町。福知山からバス。京都市内まで車で2時間、海までは1時間30分離れている。テレビはあったが、中学になるまではNHKしか映らないような辺鄙な町だった。10歳と8歳上に兄と姉がいた。年齢が離れていたこともあって遊んだ記憶もあまりないという。代わりに母親が家にいると周りにへばりついていたのだろうか。いつしか母の料理を真似、簡単なものなら作れるようになった。「あの頃はお菓子もなくって、お腹が減れば何かをつくって食べていました。少しずつ工夫しながら味を変えて。ある意味、必要に迫られていたのでしょうね」。そういって岡部は笑い声をあげた。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)