29日〜10月3日まで海外出張のため連絡取れません。
海外パケ放題プランも使えないエリアなんで、何かあればキイストン山本までご連絡ください。 03-5443-5783 平日 9時〜17時
2011年9月29日木曜日
2011年9月28日水曜日
株式会社鮒忠 代表取締役社長 根本 修氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鮒忠 代表取締役社長 根本 修氏登場。
「焼き鳥の父」のお話。
「焼き鳥の父」と言われる人がいる。今回、ご登場いただく根本 修の祖父、根本忠雄氏だ。焼き鳥は戦後の焼け野原から日本が復興していくなかで庶民の間で流行する。ただ、当初は鶏肉が高価な食材で、代わりにガラ、スジ肉、あるいは雀を使っていたそうだ。
そんななか祖父、忠雄氏は、儲けを度外視して鶏肉を使った「焼き鳥」を売り出す。これがヒットし、後に「焼き鳥の父」と言われるようになるのである。
もう少し祖父の話を続けよう。1946年に復員した忠雄氏は。同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業する。ところが、冬場になると肝心の川魚が捕れない。それで、鶏肉を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始する。その一方で「鶏丸むし焼き」がヒットする。1951年に法人化し、初代、代表取締役社長に就任する。この忠雄氏の後を継いだのが、根本の父。父は引き継いだ「卸」「ケータリング」「レストラン」の3事業を軸に業績を伸ばしていく。その父から根本は33歳の若さで会社を引き継いだ。
では、いつも通り時計の針を根本が生まれた時まで戻してみよう。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
株式会社ウィルプランニング 代表取締役社長 横川 毅氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ウィルプランニング 代表取締役社長 横川 毅氏登場。
「すかいらーく」の生みの親が、生みの親。
横川が生まれたのは、1975年3月12日。出身は東京の国立市である。1970年代は、日本の外食文化にとってターニングポイントとなる時代である。1970年、万国博覧会が開催される。翌年、マクドナルドやケンタッキーの第一号店が銀座と名古屋市の一角でオープンする。その一方、ファストフード同様に、当時、一斉を風靡するファミリーレストランも70年代初頭に次々、誕生する。
チェーンストアオペレーションなる理論をひっさげたレストランチェーンはまたたくまに主要都市を制覇する。日曜ともなれば家族連れが長蛇の列をつくった。当時の子どもたちにとっては、間違いなくレジャーの一つだった。
この飲食黎明期をリードしたのが、のちに最大手となる「すかいらーく」である。創業は1970年7月7日。創始者の横川四兄弟はあまりに有名だ。この四兄弟の四男、横川紀夫氏の元に横川は誕生した。長男と妹に囲まれた次男坊である。・・・・・。
2011年9月26日月曜日
24日、各商材の勉強会実施。
おかげさまで、飲食企業様にメリットある、いい商材がここにきて急に増えてきた。
各商材をもっと知るため6社の企業の方たちに声かけしたところ
どこも快く集まって頂き、土曜出社し勉強会を実施。
皆さん、3連休にも関わらず、ご参加頂き大変ありがたい。本当に感謝でいっぱい!!
今後、中枢である求人部門(ヒューマンリソース事業)とは別にネットワーク部門(各商材紹介事業)を設ける予定。
現在ざっと数えると10アイテム以上あるんで、キイストンの業務領域が大幅に拡がっる。
お客様のニーズに応える、役に立つため、経営理念である「より多くの人・企業に夢・希望を与える」を貫かねば・・・。
2011年9月25日日曜日
絶好調の“ちゃんこ 玉海力 ”、銀座にオープン。
9月24日(土)にオープンした“ちゃんこ 玉海力 銀座店”のセレブションに顔を出させてもらった。
平成8年オープンの「玉海力広尾本店」にはじまり、国内外5店舗を運営。
元関取の河邉社長は男気があり人間的にも大好きな経営者である。
前から、銀座・新橋にあればお客様紹介しやすいのに・・って思っていただけにうれしい。
(お店の入口になんと土俵が・・・)
銀座5-13-19 デュープレックス銀座タワー8階
「ちゃんこ 玉海力 銀座店」地図
東京メトロ日比谷線、都営浅草線「東銀座駅」より徒歩1分
玉海力といえば、まずは“塩ちゃんこ鍋”と地酒(竹筒)を!!
(お奨めの塩ちゃんこ鍋)↓
2011年9月21日水曜日
株式会社リンガーハット 代表取締役会長兼社長 米濵和英氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“クロスα”に株式会社リンガーハット 代表取締役会長兼社長 米濵和英氏登場。
赤い尖がり帽の屋根が印象的だ。リンガーハット。そう「長崎ちゃんぽん」を全国区にした会社である。今回のクロスαでは、この圧倒的な人気の「長崎ちゃんぽん」の生みの親であり、育ての親である米濵和英氏にご登場いただいた。
米濵氏は、1943年12月1日、中国山東半島東部の煙台という町で生まれる。元々、一家は鳥取市で暮らしていたが、父の代になって中国に渡り映画館を経営するようになっていた。つづき
米濵氏が3年生の時、青年教師が担任となる。米濵氏の行動がいっぺんするのはこの頃から。
「1年、2年の時は女の先生でね。舐めていたんでしょう。3年で男の先生になって、怖いから言われるままに勉強もするようになって」。つづき
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2011年9月20日火曜日
株式会社フードナビ 代表取締役 渡辺大河氏登場。
本文より~
初恋の相手。
「先生の膝を枕に、ピアノを聞いていたんです」。
今も疲れるとピアノバーに足が向く。「ピアノを聞くと癒されるから」と渡辺氏。ピアノの曲に耳を澄ましていると、時に先生の膝枕が蘇る。
「私にとって、初恋の人ですね、たぶん」。
子どもの頃は、とにかく転校が多かった。回数を伺うと「約20回」という答え。たしかに、多い。今までにも転校が多かったと語った経営者は少なくなかったが、さすがに20回は、断トツである。当時の心境は? とたずねると、「転校慣れして。とくに何も思わなかった」と笑う。たしかに、学期ごとに転校するペースである。中学2年になって、父親が独立するまで、転校はつづいた。
出会った人は多かったが、記憶している人はけっして多くない。やはりピアノの先生は、特別な人だったのだろう。
TV出演。
ギャラは1回5000円~10000円。転校するまで出演したそうだ。
「転校っていっても、ほぼ千葉県内なんです。この時は、九十九里浜にちかい町に住んでいて、転校したのは、隣町の中学校。だから噂も伝わっていて、けっこう時の人みたいな感じになって(笑)。ちなみに、これが最後の転校です」。
女の子にも騒がれたが、不良たちにも目をつけられた。
「直接、私が目をつけられたわけじゃないんですが。それで、奴らに負けないように少林寺を始めるんです。実は、それが縁となって、高校に進みます」。
東京タワーからの、眺望。
千葉から東京に出てきたのは、20代半ば。 「千葉と東京って距離はそうないわけですが、私にとっては憧れの街でもあったんです」。
小学3年。家族で、東京タワーに登った。
「あの時、眼下に聳えるビル群をみて、すごいなと。いつか俺もここで、と」。
しかし、ずいぶん長く、かかった気もする。
ずいぶん長く、かかったぶん、すごい奴になっていた。
一夜にして開けた、億万長者への道。
実は、渡辺氏、29歳でレインズインターナショナルの門を叩くのだが、20代半ばから、その29歳の間に、会社を5つつくっていた。いちばん儲かったのが、健康食品。
一夜のうちに、億万長者への道が開けた。
「当時は、なんていうんでしょう。お金を追いかけて、せっせと仕事をしてきたわけですが、そのお金が手に入れば、入ったで、今度はそれで悩んでしまうんです」。
不思議な体験である。いくら散財しても使いきれない。住まいは、表参道。駐車場にはキャデラックとジャガー。時計も、服も、ぜんぶ高級品。しかし、お金はなくならず、心はいくら浪費しても満たされない。
「疑心暗鬼にもかかって、人も信用できない(笑)」。億万長者と書いたが、実際、3ヵ月で通帳に数億のお金が記帳されていた。
株式会社フードナビ 代表取締役 渡辺大河氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
株式会社マルハンダイニング 取締役社長 佐谷友巳氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社マルハンダイニング 取締役社長 佐谷友巳氏登場。
宮大工の父と、体の弱い母と、スポーツ好きな少年。
佐谷は1972年9月、東京の亀戸に生まれる。「父も、亀戸の生まれです。宮大工で週末にしか帰ってこない人でした」と佐谷。ウィキペディアによれば宮大工は「渡り大工とも呼ばれ、何年も家を離れ社寺のある地に居住して材料、技法を検討しながら仕事を進める」のだそうだ。佐谷の父が週末にしか帰ってこなかったのも、そのせいだろう。
「厳しい父でした。『人に迷惑をかけるな、弱いものイジメはするな』と教育されました」。父が子どもたちに厳しく接したのは、母親が心臓を患っていたことにも関係するのかもしれない。佐谷が小学校に上がる前のこと。母が長期の入院を余儀なくされ、2歳離れた妹と2人、親戚の家を転々とすることになった。親戚といっても他人の家である。2人は小さな体を寄せ合って暮らした。これが兄妹の絆を強くする。幸い、母は2年後に無事退院した。だが、完治したわけではなかったようだ。
「小学生の頃、父から『母はいつ死ぬか分からない』と、そんな風に言われました。脅かして、しっかりさせようと思ったんでしょうね。それからです。母親を見る目が変わりました。家の手伝いを積極的にするようになったのも、その一言があったからです」。・・・・つづく。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2011年9月17日土曜日
自宅パソコンがやっと使える。
電源コードが漏電しかけていたので、
この1週間は自宅でパソコン作業できなかったが、ようやくできるようになった。
社員のH君はすごい。なんでもわかるし、なんでもできる。
H君なくして、キイストの管理システム無し。
いろいろなものが動きだしているので、
この休みはじっくりと戦略と企画等の仕事しよう。
2011年9月15日木曜日
9.15発行のオーストラリア・シドニーNo.1生活情報誌「チアーズ」、第6弾!!
「チアーズ」10月号(9.15発行)にて、ワーキングホリデー帰国者の就職支援企画第6弾の広告発信!!
今回のご登場はレインズインターナショナル 代表取締役社長CEO 西山知義氏。
オーストラリアと日本の飲食業界をつなぐ架け橋になりたい!!
海外で通じる人材確保のためキイストンは海外経験者の就職を応援していきます!!
2011年9月14日水曜日
イタリアンバル「バル道」大井町に9月16日オープン!
昨日、大井町にて9月16日オープンされるイタリアンバル「バル道」のレセプションに行かせてもらった。
実は個人的に“青横ホルモン まるみち”が好きで行ってるが、料理が美味しい。
まるみちのバルの「バル道」といい、マルゲリータのバル道オリジナル“バルゲリータ”といい、なかなか洒落っ気がある。
この運営されているデーアール様は常にお客様目線なんで好感が持てる>
お店もきれいだし、スタッフの対応もいい。お奨め!!
2011年9月13日火曜日
グロッタアズーラ Grotta Azzurra 代表取締役 上野肇士氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にグロッタアズーラ Grotta Azzurra 代表取締役 上野肇士氏登場。
ケンカばかりしていた小学時代。中学になって丸くなった?
学習院中等科に進み、周りに影響されて性格が丸くなった、と上野。それまでは先生も手を焼く少年だったそうだ。喧嘩も日常茶飯事で親が謝りに行くのもたびたびだったらしい。そんな少年だったが、頭も良く、小学6年生になると猛勉強を始め学習院に進んだ。
学習院での生活は居心地がよく楽しかったが悩んだ末、大学受験を考慮して高校受験をすることに「無事、神奈川県にある有名私立高校に入学するんですが、校風がまったく合わなくてスグに辞めてしまいました。それで、結局、都立の戸山高校に編入することになりました。」ちなみに戸山高校といえば、都立で最も偏差値が高い学校だった。
渋谷で遊ぶような普通の高校生活を送っていたが、大学受験が近づくと生活はいっぺん。志望校を目指して猛勉強するように。一日12時間以上がノルマだった。いくつか合格していた学校もあったが浪人を選択。必勝を期した一浪の時、センター試験当日にインフルエンザにかかりこの年も失敗。結局二浪して某私立大学に進学。・・・。
グロッタアズーラ Grotta Azzurra 代表取締役 上野肇士氏登場
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
株式会社GOSHIKI 代表取締役社長 薄井幸春氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社GOSHIKI 代表取締役社長 薄井幸春氏登場。
高校は2年で退学。
福島県に五色沼と呼ばれる湖がある。社名のGOSHIKIは、この湖の名前からとった。「もともと父と母が2人とも福島県の出身なんです」。いまとなれば、先代の父の背中を見て学んだ<お客様の笑顔が最大の報酬、笑顔の数だけ利益になる>という理念を大事にする薄井だが、少年時代の彼は父や母からみても手放しで褒められた少年ではなかったようだ。
中学になってもとにかく勉強とは無縁。友だちと群れをなして遊んでばかりいた。それでも「行く必要もない」という父の言葉を振り切り、高校に進学はした。ところが父の予想通り、出席日数が足りず2年生の時に退学している。「バイクを乗り回していました。アルバイトで貯めたお金で中古の250ccのバイクを買って。父には反対されていたんです。『買ったら燃やすぞ』と言われていたんですが、買ってしまった。まだまだ尖がっていたんだと思います」。高校を退学しても尖がった性格はまだまだ鋭利なままだった。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2011年9月10日土曜日
強い会社は人材受け入れの間口が広い。
株式会社HUGE(新川社長)の採用ページを見たところ、
「2012年度の新卒エントリー」の他に
『海外留学経験者・秋採用』を設けておられる。
やはり、強い会社は間口を広くされ、
人材採用に積極的である。
これからの飲食企業は、
海外で通じる人材確保も大きなポイントになってくる。
キイストンは海外経験者の就職も応援していきます!!
2011年9月9日金曜日
「脳緊張を解きほぐすホメオストレッチ」。
この「脳緊張を解きほぐすホメオストレッチ」とは、
学術名で筋肉応用覚醒伸展法といい
筋弾性の左右差やバランス、全身の筋肉のミリ単位まで計算して
「脳幹」を活性化させて、深い精神的リラックスを得るものです。
私も先生にやって頂いたところ、ストレスが無いと思っていたら、
なんとストレス指数11段階→7段階らしく、意外に高いのでビックリしました。
※8段階以上で警戒値。
知らない間に、ストレスって受けてるんですね・・・・。
このホメオストレッチとは、体を曲げたり伸ばしたり、軽く押したりされるだけで、マッサージより断然ソフトでうとうと寝てしまうくらい、痛くもなんともない短時間の施術でした。
おかけで、1回で4段階に減りすごく身体と頭が楽になりました。
平均残業時間80時間以上の方で、ホメオストレッチ介入後休職率が半減し、
ウツなど新たな発病者が出ていないという実績があるため弊社でも
スタッフやお客様はじめストレス耐性を強めるために導入推進していく予定です。
ストレスの多いこの世の中、一度ウツになったらなかなか治りませんからね・・・。
ちなみに、初回5,250円、2回目以降3,675円です。
もし、試してみたいとなればおっしゃってください。
2011年9月8日木曜日
自宅近くの香港食卓 品川店へ。
昨日、お奨めのメニューがあるということで、香港食卓(ホンコン テーブル) 品川店へ行った。
ここのお奨めの赤火鍋麺の麺は、あの有名な札幌の西山製麺!!
スープは数種類の生薬をスープに盛り込み、疲労回復や滋養強壮満点。
夏バテしやすいこの時期にお奨めかも・・・。
(パクチーのサラダ、山椒となすびの揚げ物、山椒の効いた麻婆豆腐、鉄板の上で焼いたチャーシュー)
近くに住んでいながら・・・・・・・、まさに灯台下暗しだった。
2011年9月7日水曜日
若者に留学志向が再燃。
減少が続いている日本人の海外留学が回復の兆しを見せている。語学力やビジネススキルに磨きをかけようとする若者が増えてきた。
◆相談者2、3割増
今年1~3月の長期・短期留学の相談者数が大学生・社会人ともに昨年より2、3割増えた。※留学ジャーナルより
◆企業のニーズに対応
日本人の留学者数は平成16年をピークに減少が続いている。文部科学省の集計によると、20年に海外の大学などに留学した日本人は前年より11%少ない6万6833人。学生の「内向き志向」、不況、就職活動の早期化などの影響が指摘されていた。
留学ジャーナルの調査でも、相談に訪れた大学生の8割が「企業のグローバル化の流れが自身の留学に影響を与えている」と回答。
「企業のグローバル化の流れはあなたの留学に影響を与えていますか」との質問に、大学生の80%、社会人の67%が「そう思う」「ややそう思う」と答えた。
2011年9月6日火曜日
『武田あかねの食の応援団』今月のゲスト“株式会社プリントモ 代表取締役社長 宋 基東氏”。
『武田あかねの食の応援団』9月のゲストは“株式会社プリントモ 代表取締役社長 宋(ソン) 基東氏”です。
乗らなかったんですね?
株式会社サイバック 代表取締役社長 橋本朋郁氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サイバック 代表取締役社長 橋本朋郁氏登場。
日本で5番目の住みやすさ。
大手タイヤメーカーがある福岡県久留米市は、ゴム工業の町として知られている。「小さな町だったが活気があった」と、今回ご登場いただく株式会社サイバック 代表取締役社長 橋本朋郁は目を細める。「日本でも5番目に住みやすい町と言われていたんです」。1960年といえば昭和35年。日本がいよいよ経済発展を遂げていく時に橋本は産声を上げた。
「もともと父は三井鉱山で働いていました。それを辞めて、叔父と共同で土木建設の会社を興しました。兵隊に志願したそうですが、頭は柔らかでした。お風呂も一番最後で文句も言わなかったし、服や食にも気を使う洒落た人間でした。私はいまもできませんが、英語も、中国語も話せていました」。
一方、母親は、専業主婦。音楽好きだった。そんななか三男坊の橋本は、元気に少年時代を過ごす。小学5年生までは草野球、5年生からはサッカーに熱中した。たまたま担任がサッカー好きだった、そんな先生の影響を受けたようだ。ただ、「性格的には大人しく、それほど目立つ存在ではなかった」という。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
株式会社ポッカクリエイト 代表取締役社長 飯沼 浩氏登場。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ポッカクリエイト 代表取締役社長 飯沼 浩氏登場。
ハイカラ親父へのあこがれと畏れ。
「躾やマナーなど、とにかくうるさかった」と飯沼は当時の父の印象を話しだす。
「当時でいえば、ハイカラだったんでしょうね。車が好きで、一番多い時にはシトロエンなどのフランス車を含め5台もあった(笑)。写真も現像までしていましたし、油絵も展覧会などに出展していました。当時からゴルフもやっていたし、車の整備士の資格も持っていました」。
こんな父を息子の飯沼は、怖い反面、憧れていた。小さい頃から暗室に入り、写真を現像したのも父の真似だろう。父は東京電力に勤務していた。自身が高卒だったこともあり、教育には熱心だったのかもしれない。父が、仕事で東京に行くとなると、飯沼の目が輝いた。「父はお寿司が大好きで、東京に行くたびにお寿司屋に連れて行ってくれたんです」。
当時、魚の鮮度の関係で山梨の寿司と東京の寿司はぜんぜん別物だったのである。
山梨から東京まで、親子二人はどんな会話を交わしていたのだろうか。
「ことあるごとに言われたのは<常に興味を持ちチャレンジすること>と<努力しないと駄目だ>ということ」らしい。今でもこの一言は、頭に残っていて、飯沼のモットーになっている。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)