12月29日(土)放送のTBS“情報7days ニュースキャスター”で最前線のおせち料理の特集にお客様が取り上げられました。
(東京一番フーズ様のトラフグおせち)※収録で出たおせち頂戴しました“まいう~”
(青柳様の高級おせち) (タケモトフーズ様のスイーツおせち)
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
●“飲食の戦士たち”の電子書籍化 ※シリーズ化決定
(第1弾11月16日、第2弾12月20日、第3弾1月24日予定)
●母校の大学で就職セミナー開催 ※中学校・高校・大学と母校で講演
(リブセンス村上社長とW講演)
●大学(青山学院大、千葉商科大)で飲食経営者によるゼミ講義実現 ※一樂先生のおかげです
●自信と勉強になるインターンシップを確立(優秀な人材との出会いがたくさんありました)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社美濃吉 代表取締役社長 佐竹力総(りきふさ)氏登場。
連綿とつづく「美濃吉」だが、実は、5年間近く店を閉めていた時期がある。昭和19年~24年、戦争が開始されると国内でも自粛ムードが広がり、外で食事を楽しむような雰囲気ではなくなった時期がある。当時は8代目、つまり佐竹氏の祖父の時代である。
昭和19年3月、戦争の悪化により遊興施設が禁止となり、「店をやっている場合じゃないと思ったのでしょう。それまで『縄手の美濃吉』として親しまれていたんですが、店ごと売却してしまったんです。だから、いったん美濃吉はなくなるんですが、戦後しばらくして、いまの本店で再開します。なんといっても『美濃吉』の看板があるわけですから、再開すればお客様がみえられると算盤を弾いていたんでしょう。でも、なかなか思うようにお客様はいらっしゃらない。月の1/3が坊主だったそうです」。
「お客さんがたくさん来れば料理人たちが喜んで、その日は仕事が終わってからお酒を飲むんです」。
再開した店には、やがて佐竹氏も顔を出すようになる。もっとも少年時代の佐竹氏である。料理に興味を持つというより、料理人や従業員たちから可愛がられていたというのが、記憶の大半だろう。
「美濃吉」が再開したのは1949年。戦争によって、いったん歴史が途絶えかけ、老舗料亭が苦境にあるなか、まだ赤ん坊の10代目当主は、どのようにして当主の座に、座ることになるのだろうか。
「実をいうと父の代で代々続いた『吉兵衛』という名は襲名されなくなりました。父も長男だったんですが、料亭の経営には関心がなかった。いちおう京都大学では農学部に入るんですが、卒業すると東京大学の法学部に入り直してしまいます。そのうえで通産省に入るわけですから、9代目というのは、もしかすればなかった選択かもしれないですね」。
歴史があるとわかっていても、かつての盛況はない。父からすれば「9代目」はリスクが過ぎるように思えたのではないか。だから祖父が急死し、京都にもどってきてからも、9代目ながら本業は通産省の肝いりで転職した、生まれたばかりの「阪神百貨店」での仕事だった。
「週末だけ、美濃吉で。つまり、二足のわらじを履いていたということです。父にすれば、会社でもそれなりの立場にあり、逆に『美濃吉』は歴史があるだけで、そう繁盛していませんから、9代目としては複雑な心境だったと思います」。
ただ、この父がのちに「美濃吉」を拡大する。
「父は、東京で一度暮らしていますので、京都のしがらみが少なく、通産省にいたことで『料亭』に対する考えも違ったんだと思います」と佐竹氏は、拡大できた理由を語っている。
「父のようにすれば、昔の京都では異端児ですから、もっと叩かれていたかもしれません。しかし、そこは通産省出身。周りからも一目置かれていたというのがあったかもしれません」。たしかに父の代で「美濃吉」は大胆な戦略を取る。・・・・・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社イエローズ/株式会社シェアハピネス 代表取締役 白根智彦氏登場。
日本でいちばん暑い町として知られているのが、埼玉県熊谷市。2007年8月には40度を超えたというから、暑くなった日本でも、群を抜いている。
この熊谷市に白根が生まれたのは1965年。1964年に、東京オリンピックが開催され、いよいよ日本も復興の足音を高めていく時代である。だが、熊谷市は埼玉県でも北部に位置しているため、復興の足音はなかなか響いてこなかったかもしれない。
とはいえ、白根家は、地元の名士。父はサラリーマンだったが、母は、地元で有名な白根家の長女だった。だから、昭和40年代でも、白根は何不自由なく暮らすことができた。「小さな頃からいいものばかり食べていました」と白根本人もそう言っている。
中・高とテニス部に所属。中学時代、なんとなく「格好がいいから」と始めた軟式テニスが、白根の少年時代の大部分を占めることになる。中学では関東大会、高校ではインターハイにも出場。朝から晩までテニス漬けだった。「おかげで、ぜんぜん勉強しなくなっちゃって。それでも高校に進学した頃までは、東大を真剣にめざしていたんですが、高校3年間も、テニス一本やりでしょ。進学時には、まったく話になりませんでした」。
テニスに明け暮れた6年間にプラス1年間の浪人生活を経て、「学習院」の門をくぐった。
「大学ではテニス同好会に入ります。勉強そっちのけで、よくあれほどテニスばかりしていたもんです。大学の近くにアパートを借りて、平日の月~金は、そちらで寝泊りしていました。週末だけ熊谷に帰って家庭教師のアルバイトをしました。高校は男子校。大学では女子もたくさんいたし、同好会だから尚更なんですが、私は部活動みたいな感じでやっていたと思います。いま思えば、もう少し勉強にチカラを入れておくんでした(笑)」。・・・・・。
株式会社イエローズ/株式会社シェアハピネス 代表取締役 白根智彦氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
皆様のご支援と支えがあり、キイストン監修の電子書籍『“飲食の戦士たち”シリーズ』(ゴマブックス)は、App Store(ブック有料部門)にて第1弾が最高17位、第2弾が最高7位になりました。ありがとうございました。
そして『“飲食の戦士たち”シリーズ』の第3弾、1月24日(木)にリリース配信(発売)が本日決定しました。
第3弾に登場の外食を引っ張る7人のサムライ(経営者)は、アスリート系、いやバリバリ・こてこての体育会系です!!
1.玉海力 河邉社長様
2.絶好調 吉田社長様
3.KUURAKU GROUP 福原社長様
4.ブルームダイニングサービス 加藤社長様
5.ビーシージー 中道社長様
6.エムファクトリー 長谷川社長様
7.個人商店 光山社長様
※飲食の戦士たち掲載順
『飲食業界にもっと多くの学生(若者)を送り込みたい!!』
そのためにキイストンが間に入り、もっと企業名&経営者をメジャーにしていければと考えています。
第1弾、『プロフェッショナルたちの仕事(じんせい)論~from 飲食の戦士たち~』
第2弾、『スゴい人の法則!志さえあれば独立できる from 飲食の戦士たち』
戦略型総合人材採用サービス会社
キイストン
“外食産業”は、新卒の学生から見ると超不人気業界です。
男子学生から見てワースト10に、なんと5社も。特に、認知度あるゆえに食中毒や放射能問題、労務問題などちょっとニュースに企業名など出るともう「絶対に就職したくない企業」として名前が出たり、ネット上の書き込みも増え影響受ける。
【これではいけない!!】
“外食産業”(飲食業界)に特化して約7年経つが、
魅力ある経営者、
紆余曲折ありながら這い上がってきた経営者、
人格者である経営者、
ダイナミックな展開される経営者
なとなど他の業界以上に魅力ある経営者が多い。
不人気業種の“外食産業”から脱皮するため
店舗展開の状況や成長性よりも飲食経営者の生き様を読ませたい!!
(タイトル: 『スゴイ人の法則!志さえあれば独立できる!~from 飲食の戦士たち~』)
12月20日(木)→https://itunes.apple.com/us/app/sugoi-renno-fa-ze!/id586873453?l=ja&ls=1&mt=8
(タイトル:『絶対成功できる!プロフェッショナルの仕事論 from 飲食の戦士たち』)
好評発売中→https://itunes.apple.com/jp/app/sugoi-renno-fa-ze!/id586873453?mt=8
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社セント・リングス 代表取締役 青木謙侍氏登場。
父の期待通り、慶應大学付属の中・高一貫校に進んだ。そこで、いままで自分がいかに「お山の大将だったか」を知る。「凄い奴がたくさんいるもんだ」。ため息がでた。
このままではいけないという思いもあって、厳しいスポーツに挑戦した。ラグビーである。
「コーチはみんなの前でこういうんです。まったく同じ練習をしても、ユニフォームをもらえる者ともらえない者がいる。ユニフォームをもらった者はそのことを忘れるな」「またこんなこともいいました。実力が同じだったら、次の世代を担うものを優先する、だから、3年生は我慢してくれ」と。
ラグビー部は練習がきついだけではなかった。「あたりまえですが、コネも何も通用しません。巧いかどうか、それだけです。いままで何不自由のなく育ってきましたから、特にこの現実が心に突き刺さったんだと思います」。
この時のスポーツ、また友人との出会いが、青木の人格を形成する。
そしてこの時、青木は一人の親友に出会っている。元神奈川県知事の松沢成文氏だ。「ラグビー部のキャプテンで性格が良くて器も大きいんです。誰もが彼には一目置いていました。それだけじゃなく、こいつのためなら、と思っていたはずです」。ラグビーも巧かったし、勉強もできた。それでもひとつも威張らない。話にも筋が通っていた。
「いま振り返っても松沢氏にはいろんなことを教わりました」と青木。「同学年にもかかわらず、松沢氏との出会いは私のなかでもっとも大きなインパクトがあった気がします」。
ちなみに、いまでも松沢氏とは、親交があるそうだ。
この頃のラグビー部の成績は、中学時代は、関東で2位。高校時代には、神奈川県で3位。強豪が多いなか、抜群の成績を残した。・・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ナポリス/株式会社遠藤商事 代表取締役 遠藤優介氏登場。
遠藤は、正確な生年月日を知らない。「1983年の1月25日」と答えたうえで、語呂が良かったからじゃないかな、と笑う。前後1週間以内というのが正確なところだそうだ。「お寺に拾われたのは、生後3ヵ月ぐらい。木箱に入れられ、川を流されていたところを助けられたということです」。その寺が横浜の三ツ沢にあったから、出身地は三ツ沢となっている。
住職が1人いるだけの小さな寺だった。だから育ての親はこの寺の住職である。
寺には、200数カ条に亘る家訓があったそうだ。端的に言えば、「漢」であることだという。遠藤は、漢であることを強いられた。一杯のごはんを食べるにも、小さな手と、細いうでで仕事をした。辛いとは思わない。それ以外のことを知らなかったから。
孤児院にお世話になったり里親に引き取られたこともある。その度に、遠藤という名字が変わることもあった。テーブルに座っていると、おかずといっしょに白飯がでてきた。その度に少年は目をまるくした。
遠藤は父も母も知らない。それどころか長い間、父や母という存在自体知らなかった。「親というものが理解できない」と遠藤はいう。これは文字通り、「親」の存在が希薄であったからだが、もう一方で、日本語そのものがあまりわからなかったからだ。山ザル。小学校では、そんなあだ名がついた。
小学校は義務教育だが、ほとんど通った記憶がない。特に1年時にはまったく顔を出さなかった。出したとしても、袈裟のような、法被のような上着と、スリッパだけ。筆箱もなければ、鉛筆すらなかった。教師も、手を差しのべなかったようだ。「いまじゃ考えられないでしょ」というが、たった20数年まえのことである。
ようやく学校に通うようになったのは、小学3年生の頃からだろうか。友人ができたからだ。永井と鵜飼という名前だった。
「山ザルと言われ、取っ組み合いのケンカになったんです。でも、だんだん友だちになって。私を救ってくれたお寺の住職はもちろんですが、彼らがいなければ私の人生はどうなっていたかわかりません。そういう意味では救いの神です」。
彼らは、友人という存在だけではなかった。良き友であり、ライバルだった。というのも、遠藤も含め、彼らはのちに有名なサッカー選手となるからだ。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
本日13日(木)、寶田堂の関喬史社長が青山学院大学の堀内ゼミ教壇に立ち学生に自らの体験など熱血ぶりを発揮!!
関社長は、香川県出身で、中央大学卒業後、レインズインターナショナル入社。
居酒家「土間土間」のチーフ、店長、スーパーバイザー、業態長を勤めた後、 新業態の開発に携わる。2007 年11 月に退社し、同月(株)寶田堂を設立。
関喬史 著書:『心に花を咲かせる 』
電子書籍“飲食の戦士たち”シリーズ第2弾のタイトルと表紙が決定しました。
タイトル: 『スゴイ人の法則!志さえあれば独立できる!~from 飲食の戦士たち~』
発売日: 12月20日(木)、AppStoreにて配信開始!!
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)