2012年1月10日火曜日

株式会社オーシャンシステム 代表取締役社長 樋口 勤氏登場。

今回は初の試み。前編・後編の2部構成です。


in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社オーシャンシステム 代表取締役社長 樋口 勤氏登場。


樋口社長
前編


デザイナーになればいい、父の言葉


「ひぐち食品」が樋口家の生計を支え、長兄、次兄が従事する、その一方で、樋口自身は家業ではなくデザイナーを志望していたようである。「小さい頃から絵を描くのが好きで、父からもよくほめられました。『勤は将来、絵とか、デザイナーの仕事をすればいい』と。それで、私もその気になっていたんです。」
ただ、大黒柱を亡くしたことで、樋口家は主導者を失った。樋口も安穏とはしていられない。経営は母と長兄の手に委ねられたが、もしかすれば、この時、空中分解していたかもしれない。その危機を一つの器が救った。
「父が亡くなる直前、父と母は、本格的に弁当事業を始めようと考えていたらしいのです。そのための容器が、父が亡くなったその日に届きました。その容器の到来が、樋口家の礎となる弁当事業の幕開けとなったんです。」
「母は、父がなくなって3ヶ月ぐらいするとようやくショックから立ち直り一家の先頭に立つようになりました。


後編


母が通う数十キロの道


新潟市での弁当事業が軌道に乗ると、離れた三条市で気をもみ始めたのが母である。すでに60歳。にもかかわらず車の免許を取り、両市を往復するようになった。
「免許を取得した母は、毎朝 三条市から新潟市の工場に来て指導してくれるようになりました。ご飯やおかずの無駄をなくすにはどうすればいいか。母の指導は私たちにとって何より貴重なアドバイスになりました。」
母の奮闘をみて、樋口もより一層、精力を傾けた。新発田市、三条市、長岡市に次々と新規の工場がオープンする。気がつけば1日の販売食数が1万5000食になっていたそうだ。兄二人が半ば見放した事業が、育っていく。樋口が経営者として多彩な才能を発揮し始めるのもこの頃からだ。母が通った数十キロの道は、樋口家の未来にまっすぐにつながっていたといえるだろう。


株式会社オーシャンシステム 代表取締役社長 樋口 勤氏


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