株主総会は弊社のような会社でも大変疲れる。
上場会社、しかも最年少上場で25歳の村上社長は一人で株主からの質問も回答し、ほんと立派なもんだ。
人気番組の『ミヤネ屋』の新コーナー狩野英孝の社長コネクションにあの“サブライムの花光社長”が登場されました。
ビックリ!! 思わず映像を撮ってしまいました。
(今や120店舗、30歳にしてすごい)
(経営基盤の基礎はこの新聞配達からか・・・)
今後が楽しみな会社である。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エムファクトリー 代表取締役社長 長谷川 勉氏登場。
「私が行った中学は、ガラが悪くて、窓ガラスは割れているし、机が凶器に化すし、バイクが校内を走り回っているのも、いつもの風景でした。私も、入学式から短ラン、ボンタン、金具付の靴といういで立ちでしたから、批判はできないんですが(笑)。ただ、小学校では手に追えなかった私が、中学ではスポーツ少年になるんです。兄キの影響で軟式テニスを始めたからです」。
短ラン、ボンタンを着た不良と、清々しいテニスウェアをまとった選手が同一人物とは思えないが、長谷川は、たしかに、その両方で注目された。
「ケンカは他校に殴り込む、そんな時の助っ人役です。助っ人で四番みたいな感じなんですが、クラブのこともあったので、できるだけ控えるようにしました(笑)。一方、テニスは朝から晩まで。暴力に走らなくなったのは、こちらでエネルギーを使い果たしていたからでしょう」。
授業開始まで、2時間の朝練。作ってもらった弁当は授業中に食べ、昼の休憩1時間まるごと練習。使い走りにパンを買わせておいて、午後の授業中に食べ、放課後、ボールがみえなくなるまで、みっちり練習する。そんな生活を3年間、送る。ケンカはあくまで付き合い程度にとどめて。
「1年の夏からレギュラーになり、3年時には関東代表、全国でもトップクラスの選手になっていました」。
運動能力が抜群に高かったのだろう。しかも、ケンカでもそうだが、誰にも負けたくないから厳しい練習にも耐えられる。上手くなるわけだ。・・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社京樽 代表取締役社長 山下昌三氏登場。
毎日、怒られてばかりの少年だったが、山下は国立大学の附属中学校に進んでいる。「抽選であたったようなもの」というが、ワンパクながら勉強もできたほうなのだろう。化学や天文学が好きだった。この中学生の時、山下は、初めて寿司屋の暖簾をくぐっている。
「私が中学生の頃です。父の親友が寿司屋を開きまして。開店祝いに連れて行ってもらったんです。それが、私と寿司屋の初めての出会いです。おいしかったですね。もっとも、その時は、私自身が寿司屋をやるなんて思いもしませんでしたが(笑)」。当時の寿司屋といえば、庶民にとっては高根の花。時価が当たり前の頃だったのではないだろうか。それはともかく、寿司屋が中学時代の記憶の一コマに残っている。
その中学生時代も「取り立てて勉強しなかった」と山下はいうのだが、進んだのは長野県一の進学校だった。「中学でも、高校でも勉強をした記憶がないんです。高校時代は、音楽と映画(もちろん洋画)にハマっていました。授業を抜け出し、映画館に行ったりしていました。音楽はバンドを組んで、ギターとボーカルをやっていました。ハマっていたのは、もちろんビートルズです。もっとも、高校時代は小・中に輪をかけて勉強しなかったので、大学受験は1年見送り。受験もせずに浪人生になりました(笑)」。・・・。
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「チアーズ」4月号(3.15発行)にて、ワーキングホリデー帰国者の就職支援企画第12弾(最終)の広告発信!!
今回のご登場はインターナショナル ダイニング コーポレーション の中村社長。
オーストラリア・シドニーを楽しむための生活情報誌「チアーズ」
チアーズ様のご支援も得てこの1年(計12回)“飲食の戦士たち”にご登場の社長様で海外との接点がある企業様中心に記事掲載続けました。
これをキッカケにオーストラリアのワーホリで行っておられるグローバル人材を日本の飲食企業とをつなげる架け橋になります!!
海外で通じる人材確保のためキイストンは海外経験者の就職を応援していきます!!
たまたまNHKを見てたら、なんとあの「カナユニ」様が・・・。
テレビ見ていたが、さすが有名人・政財界が来るお店だけあって最高級のお店である。
弊社の社員のお父さんが総料理長であり、大変お世話になっている。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社聘珍樓 代表取締役 林康弘氏登場。
林氏は、小・中・高を「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」で過ごしている。「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」は2000年に廃校になっているが、明治43年に設立された英語教育主体のインターナショナルスクールである。大学は上智大学に進んだが、学生運動が激しく授業も困難となったため、1年後、日本を飛び出しカリフォルニア大学に編入。大学2年生からアメリカで暮らしている。林20歳。1969年のことである。
林氏は、当時のアメリカの様子を次のように語っている。
「アメリカ時代は、私にとっても一番楽しい時代だった。当時は、イージーライダーが封切されて、主演のピーターフォンダがカッコ良かった。自由の国アメリカの象徴でしたから」。ハイウエイを突っ走って、カナダまでかけたこともある。学費はバイトで賄った。「父は元々、米国留学にはあまり賛成してくれなかったので、4年間を通して、3000ドルしか出してくれなかった(笑)」。勉強ももちろんした。経営学を専攻して卒業、大学院に入りかけた時、父、危篤の一報が入った。「アメリカで暮らそうと思っていた矢先、父が危篤。急遽帰国しましたところ、幸いにも回復しました。その時だった、父から聘珍樓に入るよう言われたのは。アメリカ永住は、これにて断念(笑)」。
「しかしながら、当時は私も若く、父の下で、小さな飲食店で働いて生きて行く気にはなれず、苦労してアメリカで勉強してきたものを何も生かせないような気がして、なんでこんな仕事をと、反発しました。やる気がないからダラダラして、2回遅刻して、抜け出してパチンコしているのをみつかって、クビになりました(笑)」。
「家も出ることになり、取り敢えずはサラリーマンに。あるエレクトロニクス商社に入社しました。その当時、日本ではまだ半導体をつくれる技術がなかった。だからシリコンバレーの会社と合弁会社をつくっていました。暫くしてその会社をいったん辞めて、今度はソニーに中途入社。でも、入社早々に、フランス支社への配属の辞令が出たものですから、転職を考え、その後外資系の男性化粧品会社でマーケティングの仕事に就きました」。
6代目社長である、父、達雄氏から、林氏が「聘珍樓」の事業を継承するのは、すでに書いたが1975年のことである。「結局、サラリーマンを3年続けましたが、ここで聘珍樓7代目に。父の要請でした。店をどのようにしようと全て任せた、と。この時を境に改心し、この時が、私にとっての聘珍樓のホントの意味でのスタートだと思います」。・・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にファーストキッチン株式会社 代表取締役社長 齋藤俊光氏登場。
高校生活の終わりには、大学受験という難関が待っている。進学校だから尚更かもしれない。
「英語と国語が苦手だったんですが、志望は文系です。数学だけで突破してやろうと大阪大学を受験しましたが、数学の点数が数点足らず、失敗。翌年、リベンジしました」。
大学では、少林寺拳法部に入った。齋藤の足跡をたどると、凡人にはなかなか歩めない道が続いているように思える。頭もよく、好奇心も旺盛、スポーツも万能。だが、もう一つ、これが、齋藤の歩みを魅力的なものにした気がするのだが、行動力に長け、人を引き付ける才能に富んでいたことだ。大学の部活動で、その才を発揮する。
「まったく話にならない部だったんです。弱くってもいいやって感じでした。大会では予選落ちと決まっていました。でも、私は、やるからには強くなりたかった。勝ちたかった。だから、動いたんです」。
のちにOB会でも一目置かれる、18代、齋藤世代の始まりだ。
「私とおなじように熱いやつらをあつめて練習方法も練り直し、最終的には新たな指導者を迎え入れることまでやりました。その結果、私たちの代では無理でしたが、2年下の後輩たちが関西の大会で初優勝。その後も連勝が続きます」。
高校時代のレコード記録。それだけみれば齋藤本人の才によるところが大きい。ところが、こちらの話は、齋藤という人の「人格のちから」がクローズアップされている気がする。ちなみに大阪大学のホームページで調べてみたところ、いまもさまざまな大会で優勝を遂げていることがわかった。・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社銀座ルノアール 代表取締役社長 小宮山文男氏登場。
「昔の家は長男がいちばんです。兄が、体が弱かったこともあるのでしょうが、両親からも兄を守るように言い聞かされていました。私はその言いつけを守り、兄が苛められていると聞けば相手がだれであろうと向かっていきました」。
ヤクザとも闘った、そんな武勇伝も持つ。それはともかく兄を助ける指令を与えられるあたり、当時の長男と次男の関係が良く表れている。次男はあくまで、次男に過ぎない。長男と次男に対する期待度の違いが平然と親の口から語られていた時代でもあった。
中・高と私立で学んだ小宮山は、東海大学に進み、空手部に入部する。
小・中と柔道を習い、大学では空手。硬派ないちめんを伺わせる話だが、兄と同様、体はけっして強いほうではなかった。空手部に入部しようと思ったのも、本格的に体を鍛えるため、と語っている。余談だが、大学1年の時には、休学して自衛隊に入隊しようと試みた。こちらは、学校の許可が下りず、やむなく計画は頓挫する。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社俺カンパニー 代表取締役 山本昇平氏登場。
大学への進学を前に、TV局のディレクター、映画監督などクリエイターという職業に興味を抱き始めるが、ただ、漠然としたものに過ぎなかった。それでも、進路を決める際には、情報?クリエイターの勉強ができる東京電機大学理工学部の情報社会学科という新設学科へ進む事を決意する。大学に進学すると同時に一人暮らしも開始した。
大学での授業も興味深かったのだが、一人暮らしを始めた事も有り、自由な時間が多くあった。自分の好きな事が出来る時間が豊富にあったのだ。
大学での授業もそこそこに、東京へ遊びに出かける事が多くなる。オシャレなカフェやアパレルショップを多く見て回る中で、みんなが流行を追っている事に疑問を感じ、自分の個性の表現を強く意識するようになる。これまで、周囲の人と同じでいようと思っていたのとは逆に、他の人とは違うことに価値を感じるようになっていく。
「大学の頃は、大学での勉強よりも自分の個性を磨く人生勉強ばかりしていました。アルバイトもたくさんやりました。飲食業との出会いはこの頃です」。
旅行にも良く出かけた。2年生の時には友人と2人、車で日本中を回り、3年生の時にはタイまで一人で出かけた。出発3日まえに思い立ち、まるでふらりと旅立った感じだ。所持金は10万円。タイの物価は安いだろうが、不安はなかったのだろうか。ただ、こうした行動力に、ふつうはなかなか越えられない壁をあっさり乗り越えてしまう、山本という人間の強さをみる気がした。ちなみにタイでは、ドルも通用しない田舎町まで出掛けたそうだ。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
早くも2日目にしてインターン生のTさん、初受注!!
Tさんのアポイント先に一緒に営業に行ったので横にいて感じてくれたと思うが、我々の営業はとても簡単である。
どこに営業するかは、現在募集していてニーズある企業やニーズの高い業界、それと自分の好きな企業、得意分野。
アポイントさえ取れればすぐ入るんで、頭だけで考えすぎず、数をこなし慣れるトレーニングさせ自信つけてあげたい。
営業は話しがうまくないとダメとか強引に押していかないとダメとか考えている人が多いが全く違う。
それを体感させたい。
そして、就職活動真っ只中の3年生ばかりなんで、早く皆が内定決め、学生だけのチーム『新戦組』を稼動させたい。
これからのニッポンを背負う人材の育成に少しでも力になれば・・・。
いろんな分野の専門家がブレーンとして集まって頂けている。
それによりお客様に提案できることが増したり、
新しいアイデアも生まれたり、
いろいろな組み合わせも可能となり
おもしろいことが仕掛けられる。
超・楽しみである。
20周年の今年、“チャレンジ2012”とし業界No.1目指して、
他社にはできない、また今までにない仕組み、コラボ、企画やっていきます。
そのためには、一つ一つコツコツと。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社インタ-ナショナルダイニングコーポレーション(International Dining Corporation) 代表取締役C.E.O 中村清彦氏登場。
本文より~
両親が共働きなので兄弟3人は、何の規制もなく、自由に育った。子どもたち3人で出前を取るなどしていたらしい。想像するとほほえましい様子が思い浮かぶ。夏休みや冬休みは、両親のそれぞれの実家に遊びに行った。忙しい合間をぬって外食にも良く連れて行ってもらったそうだ。
兄弟3人の様子を伺うと、それぞれ個性的だ。
長男は優秀で、本好き、勉強が良くできた。中学からエスカレーター式の学校に進んでいる。弟は両親の影響からか小さな頃からピアノを習い、今現在も音楽関係の仕事に携わっている。
中村本人は、小学生の頃から目立ちたがり屋で、少年野球クラブに入って甲子園を目指していた。成績も悪くなく勉強もできスポーツもできた。学級委員や生徒会にも積極的に参加する。3人3様の道を進んでいる。
ただし、影響を受けないわけではなかった。中村は兄同様の高校に入り、同じテニス部でコートを駆けた。この頃になると、思春期のせいだろう。夜遊びもするようになる。その結果、2浪することになってしまう。2年後、晴れて法政大学1年生になった。
大学でもテニス部に入った。サークルではなくあえて部に入ったが、全国から集まったプロ級の選手ばかり。多少の自信はあったがまるで歯が立たなかった。それでも、負けるわけにはいかない。テニス部にもかかわらず、丸坊主に学ラン。男の世界。ボルテージが上がった。この時の経験は、授業よりも、ある意味、中村の財産になったのではないだろうか。
株式会社インタ-ナショナルダイニングコーポレーション(International Dining Corporation) 代表取締役C.E.O 中村清彦氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社easygoing 代表取締役 濱野浩一氏登場。
中学校の頃は成績が良かった、と濱野。14クラスもあって、たいてい10番以内に入っていたというのだから、頷ける。弟も兄も、成績もスポーツも同じ程度できた。必然的に高校も同じ学校に進むことになる。高校には、野球部がなかった。それで、弟も、兄とおなじサッカー部に入る。「私は中学生の時からサッカー部です。弟は野球をやっていたのですが、野球部がなかったので、しかたなくサッカー部は入ったんでしょうね。野球ではぜんぜん弟には敵いませんでしたが、サッカーは私のほうが上でした(笑)」。弟とともにあゆんできた道は、大学進学で別れる。濱野は、1人親元を離れ、日本大学工学部に進んでいる。
日本大学工学部のキャンパスは福島にある。
「埼玉より田舎で何もすることがなかった。それが退屈で、1年で一人暮らしを辞め、新幹線で通学するようになります。もっとも4年生になると研究に追われ、再度、福島で一人暮らしを余儀なくされてしまったのですが…」。・・・。