本日29日発行の夕刊フジになんとカラーでポッカクリエイトの飯沼浩社長の記事が掲載されました。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
『より多くの人・企業に夢・希望を与え続ける』の経営理念のもと、
7月より次々と新たなことをスタートさせます!!
複数の大学と新たな試み、キイストン求人新企画、採用に役立つ記事連載、メディア関係者との新たな試み、
海外ルートと強化&提携、、企業と企業とのコラボ企画、新商材の独占販売サポートなどなど。
今まで培った人脈とノウハウで、より飲食業界の発展のため飲食企業様のサポートさせていただきます。
社員から緘口令を敷いてくれと言われているため言えませんが、乞うご期待ください!
このニュースで“飲食の戦士たち”はアクセス集中によりパンク寸前でした。
河村社長の吉野家ホールディングス(HD)就任と、多くのアクセス(うれしい悲鳴)あり、心よりめでたいです!!
yahoo!より
吉野家HD、新社長に河村取締役 20年ぶり交代 安部社長は代表権ある会長に
吉野家ホールディングス(HD)は26日都内で会見し、安部修仁社長(62)が代表権のある会長になり、後任社長に河村泰貴取締役(43)が昇格する人事を発表した。9月1日付。ホールディングスの設立は2007年だが、実質的な社長交代は20年ぶりとなる。(産経新聞)
・ 代表取締役の異動に関するお知らせ(PDFファイル)
- 吉野家ホールディングス(6月26日)
◇後任の社長に河村泰貴取締役
・ 第45回 株式会社はなまる 代表取締役社長 河村泰貴氏 -
河村社長ももともと「吉野家」にアルバイトから入り、現場からの“たたき上げ”で株式会社はなまるの経営者にまで登りつめた。飲食の戦士たち(2009年6月2日掲載)
・ ごあいさつ - 写真も。はなまるうどん
注).“飲食の戦士たち”はキイストンが1社1社直接取材して作り上げてきたサイトであり、当サイトに掲載されている個々の情報(文字、写真、イラスト等)は著作権の対象となっています。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 株式会社夢現 代表取締役社長 佐藤正明氏登場。
本文より~
佐藤が生まれたのは、1976年。正確を期すと、生まれは母の実家の北海道、育ちは千葉県市川市となる。もっとも、本人の記憶には市川市での出来事しかない。父は、新聞社の記者。兄弟は3人で、兄と妹に挟まれた次男坊である。「どっちが、だれの遺伝子をどう受けついだのか。長男とは2つ年が離れているんですが、彼は小学校の頃からガタイがでかくて。正義感がつよく、柔道もやっていたんで向かうところ敵なしのヒーローだったんです。一方の私は、中学入学時で123センチ、体重25キロでしたから稀にみる小粒。2人で通学していると、まるで凸凹コンビです。ただ、からだが小さいことをコンプレックスに思ったことはなかった。兄と比較されても、しかたないですもんね」。勉強は、理科が得意だった。だが、それ以外に興味はなし。テストをやれば、理科の点数は学内でもズバ抜けていたが、それ以外の点数と合わせると平均以下に落っこちてしまうほど、落差があった。凸凹兄弟の凹は、そういうタイプの少年だった。
背が低いことは、悪いことばかりではなかった。兄と同学年の女の子たちから、かわいい!と言われた。兄と比較されると尚更、かわいらしさがきわだった。もちろん、正義のヒーローの弟だから、誰も手を出さない。悪くない小・中学時代だったが、兄が中学を卒業すると雲行きがいっぺん。いじめられる、という経験もした。中学時代には、バンドを組んだ。高校に進学し、自己紹介でその話をすると、担任が、熱心にブラスバンド部に勧誘するようになった。「うちの担任はブラバンの顧問だったんです(笑)。毎日、放送で呼び出され、口説かれました」。才能もあったのだろう。高校から始めたにも関わらず、頭角を現し、3年時には部長にも選ばれている。「入部当時は60人ぐらいで、男子は5名だけのクラブでした。その5人の先輩がもう無茶苦茶で、ワルな高校生だったんですが、クラブだけには毎日、来るんです。しかも、5人全員が、ソロの大会でも勝ち残れるぐらいの腕前です。かっこいいと言えばかっこいいでしょ。私は、高校からのスタートなので、多くの楽器に挑戦せず中学でもやっていたドラムに絞り、基礎の練習を繰り返しました」。ブラスバンドで千葉といえば、習志野高校が有名だ。「そうですね、習志野にはとても敵いませんでしたが、県ではいつも5位くらいには入っていました」。ちなみに、高校卒業時で身長は165センチ。けっして大きくはなかったが、女の子にも良く騒がれたそうだ。今度は、かわいいではなく、かっこいい、と。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
先日、実家のある田舎で写真撮りました。
ちょうど4歳くらいでしょうか、
母親の自転車の前カゴに乗せられ帰路に向かう途中、
母親がなんとこの崖のところで転けててしまいました。
もしもあの時、ちゃんとカゴにつかまってなかったら落ちてました。
その後を後々も母親が言ってました。
あんたは「ほんと運が良かった」って。
だからこそ、今でも自分は生かされてるって思っています。
生かされている以上は一生懸命に・・・。
またちょっとやそっとでは死なないって思っています(笑)
(崖/下には川が。今では樹木も生長し45年くらい前とは少し違います・・・。)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社個人商店 代表取締役社長 光山英明氏登場。
野球推薦で中央大学に進学する。だが、野球熱は冷めていた。もう、やるだけやったという思いが強かったのだろう。とはいえ、推薦入学のため退部するわけにはいかない。住まいも寮である。
「野球部の寮は、いまうちの店もある吉祥寺にあったんです。6畳に6人で暮らすのですが、ある意味たのしく、ある意味たいへんな生活でした。アルバイトも大学になって初めて体験します。一方、熱は冷めても、練習に出ないわけにはいきません。ただ、練習も高校時代と比べると苦にならないほどなので助かりました。大学では酒を飲んだりするんで、そちらは、つらかったというか、気ノリがしませんでしたが(笑)」。
大学を卒業した光山は、実家のある大阪にUターンする。高校時代の野球部の先輩が経営していた卸酒屋に就職。
「私は、1992年卒なので、まだ学生に有利な時でした。ただ、小さくても経営の勉強ができるだろうと、先輩の会社に就職したんです。私が退職する時には16名ぐらいになっていましたが、当時はまだ5~6名の会社です」。
中央大学の野球部、就職には有利な材料だ。しかし、光山は大阪の小さな会社をめざした。光山の性格の一端が表れているエピソードのような気がする。ともかく光山は、周りに流されない、つよい「ジブン軸」を持っている人である。その軸が、いまから明らかになる。 ・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
すばらしい原石を見つけるため、アジア海外就職・転職フェアに2ブース(キイストン&ミストラル)を出し、幹部の男連中で対応しました。
やはり、目的持って来ておられる人材はいい。
当初はそんな期待してませんでしたが、フタ開けると参加人数は決して多くはありませんでしたが、大変予想以上で満足いく結果でした。
(当日のパンフレット/元キイストンの制作のN君ディレクションらしい)
(キイストン・ブース)(ミストラル・ブース) 通称:OYAGY’S(キイストン幹部たち)
(明るく元気に対応、さすが“元気発信企業”だ)
(会社PRさせてもらっています)
また、参加されていた企業様も海外から、また海外拠点あるところばかりだったんで、知り合いになれ良かったです。
これでシンガポール、タイ、インドネシア、ベトナムにも行ける!!
今回このイベント開催されテータゼストの樫村社長、グローバル人材塾(ワーク・トラスト)の田村社長、ならびにスタッフの皆様ご苦労様でした。
そしてこのような機会とご縁の場を提供して頂きありがとうございました。
あと余談ですが、今回のアジア海外就職・転職フェアのパンフのディレクションは元キイストンの制作のN君だったらしい。Good、さすがや!!
先日“飲食の戦士たち”で取材させて頂いたサッポロライオンの刀根社長、5月22日発行の日刊ゲンダイの特集記事「社長の私生活」に掲載されてました。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
本日、6月15日発行の日本外食新聞にて、オーグードゥジュールグループ ギャルソン岡部一己氏が登場。
先日も青山学院大学でゼミ講義されたり、セミナー等コンサルティングでも大忙し!!
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
日経MJの連載記事“「売れる」スタッフ育成法”No.26に載ってました。
目標が達成できる人の特徴。
困難乗り越えた成功体験ない人や失敗すら経験少ない人ら採用してたらどうするの?
そうなってくると「育成方法じゃないじゃん、こんな人材採りましょうじゃん。」って思ってしまいます。
上記の内容は、ほんとその通りだと思います。
私は、育成の前に誰を採るかかが一番大きいと思います。
資質を見極める。
これこそ、採用の極秘なり。
優秀な外部ブレーンも多く集まり、キイストンの骨格もしっかり整いようやく基盤ができました。
あとは営業レベルをアップさせるだけ。
今期は本格的に営業マン育成に力を注ぎます。
ただ、“馬を水辺に連れていけても、水を飲ませることはできない”(本人が気が進まないのに、周囲の人が無理にさせようとしても、無駄ということ)と、ことわざでもあるように、素直に成長したい人でないと教えるパワーもかかり、本人も伸びません。
なんで、素直に成長したい人だけに集中し全てのノウハウを教えていきます。
きっと年内には強い営業集団に生まれ変っていると思います。
ついでに外部で成長したい人や就職予備軍の大学3年生(インターン)も入れ細見営業塾でもやろうかな・・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 株式会社洋伸 代表取締役社長 赤澤 伸氏登場。
赤澤が生まれたのは、1972年4月25日。出身は千葉県松戸市である。3人兄弟の三男で、兄弟は全員、格闘技を学んでいる。赤澤が尊敬する父は、新潟から単身上京し大学に入り、証券会社に勤務。母と知り合い、赤澤ら三人の子どもをもうけることになる。証券会社をスピンアウトした父は、不動産会社を経営。「子どもにも厳しいが、自分にも厳しい人だった」と赤澤は、父の思い出を話してくれた。「厳格で厳しい父でしたが、愛情はたっぷり注いでもらいました。いまでも、私は、父のことを尊敬しています」。社名に、父の名前を一字もらい「洋伸」と命名したことからも、父と赤澤の関係が良くわかる。「特に会社を経営するようになって、こんな場合、父ならどうするんだろうと考えるようになりました」とも語っている。
兄二人は、大学に進んだが、赤澤自身は、調理の専門学校に進んでいる。子どもの頃から、食の仕事に就こうと考えていたからだ。大学と違い、専門学校は厳しい。遅刻するだけで、授業を受けさせてもらえなかった。学校を卒業した赤澤は、上野の割烹でいったん板前修行を開始したが、2ヵ月で退職し、単身名古屋に向かった。熱田区の「中央卸売市場」で朝4時から働き、夕方からは飲食店向けに食材を売り歩いた。そんな生活を1年くらい続けたとき、父から一本の電話がかかってきた。「酔虎伝の経営権を譲り受けたから、店をやらないか」という誘いだった。まだ21歳。不安もあったに違いないが、それ以上にチャンスだとも思った。ただし、失敗はむろんできない。「とにかく必死にやるしかありませんでした。チラシを撒いたり、呼び込みをしたり。メニューにも工夫を凝らしました」。必死の努力が実り、赤字だった店舗は、赤澤が経営するようになって黒字に転換する。1年後には、月商が1000万円を超えた。経営者として上出来のスタートである。・・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 有限会社クリエイトワークス 代表取締役 猿渡弘太氏登場。
「東京に行きたいというより、早く家を出たいと思っていました。でも、東京の大学を受験したんですが、失敗。結局、合格したのは、兵庫県下の甲南大学のみでした(笑)」。家から、それほどかからない。「大学時代は、バイトとスキー。学費と生活費を捻出するため、ゴルフのキャディからホテルのフロント、居酒屋のホールと、さまざまなアルバイトをしました」。「しかし、スキーとバイトばかりで、就活を忘れていて、4年生の4月半ばからのスタートです。30社ほど受けて、ある大手の証券会社に就職が決まりました」。
猿渡が大学卒業したのは1995年。バブル経済の破たんが、大手企業を飲みこんだ時代である。証券マンとしては決して恵まれた時代ではない。簡単にいえば、契約がなかなか取れない時代だったはずだ。この証券マン時代に、猿渡は初めて名古屋で暮らすことになる。負けずぎらいの性格が功を奏したのか、それとも、人好きの性格が結果を生んだのか、厳しい環境のなか成績はつねにトップクラスだった。ある上司に言われた言葉も猿渡の背中を押した。「ひとと違うことをやりなさい。寝る時間を惜しんで働きなさい。失敗しても、死ぬわけではないんだから」。「甲南大学には金持ちの子が多く、私は苦学生ですから、周りの学生とはずいぶん経済格差があったんです(笑)。あの頃からです。独立志向が芽生えたのは。就職しても、独立の思いは消えず、逆にそれが仕事の原動力になった気もします。先輩たちからも薫風を受け、仕事も決してきらいではなかったんですが、27歳で独立しようと、それだけはブレなかったですね」。 ・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2011.3.11 東日本大震災。その時“なんでんかんでん川原社長”は仙台の港でフードフェスティバルに参加していた。
もし、あの時津波に流されていたら・・・・。
その時から“なんでんかんでん川原社長”は生涯ラーメン屋をやること決意した!!
詳しくはこちらをご覧ください。
(製作:AIDIA(エイディア)・運営管理:キイストン)