10月17日、母校の名古屋学院大学で、今もっとも勢いあるリブセンスの村上社長とキイストン細見のW講演が正式に決定しました。
村上社長はじめ大学関係の河原林先生他皆さんに感謝します。
より多くの母校の学生に大きな刺激と夢を与えたいと思います。
また、学生による営業最強部隊『新戦組』(商標登録済)を計画中。
戦略型総合人材採用サービス会社
キイストン
すばらしい商材、それに外部ブレーンや向上心ある学生の皆さんが増えました。
商材は求人、販促、システムなどなど・・・。
新しいキイストンのビジネスの柱を一つ一つ作りあげたいと考えています。
また、そろそろ本出したいって思っていますが、思っていれば、本の話くるかもしませんね。
併せて学生の営業部隊も作りたいです。
いずれも口に出していると実現するかも・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社コロワイド東日本 代表取締役社長 五十嵐茂樹氏登場。
当時、福井の進学希望者の8割は、高校を出ると大阪や京都など関西圏の大学に進学していた。しかし福井から関西へは、電車でせいぜい2時間から3時間程度の距離でしかない。五十嵐は、厳しく息苦しい実家から少しでも離れたい一心で、東京の大学へ進学する。
見るもの聞くもの、すべてが珍しい新天地でも、相変わらず音楽には情熱を傾けた。大学の軽音サークルに身を置き、仲間のバックで来る日も来る日もドラムを打ち鳴らしていた。音楽でプロをめざす気持ちはなかったが、ほかに打ち込むものも見当たらなかった。
やがて多くの学生たちがそうであるように、五十嵐もまた、自分が何をしたいのかが定まらないまま就職活動に突入する。これなら誰にも負けないといったものがあるわけではなかった。確固とした事実としてあるのは、10年間音楽に打ち込んだ。恐らくそれくらいだろう。どこにでもいる若者だった。
辛うじて内定を得たのが、小さな商社だ。せっかくなので働きはじめたが、あまり仕事を好きにはなれなかった。それがなぜかもわからない。結局、向いていなかったということに尽きるだろう。そんな五十嵐に刺激を与えるためだろうか、会社から大阪への異動命令が下された。そして、それが五十嵐のその後を決める大きな転機となるのだ。
当時は流通革命という事象が起こり、ダイエーをはじめジャスコ、イトーヨーカドーなどのスーパー業態が、すでに食料品や日用品を全国の店舗で安価に提供するというネットワークを築き上げていた。これと同様のことが飲食・外食をはじめ様々な分野でもはじまっていた。
商社マンとして勤務していた五十嵐は、チェーンストア時代の幕開けに触発された。新しい時代が幕開けし、今までにないとんでもないことがはじまりそうな予感に胸のときめきを抑えられずにいた。・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
元リクルートで現在、転職バーを経営されているin-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にとこなつ屋 店主 鈴木康弘氏登場。
8歳から11歳までの3年間を、鈴木はアメリカ西海岸、カリフォルニア州のサンホセで暮らしている。大手通信機器メーカーに勤務するエンジニアだった父の海外赴任。辞令からわずか1週間後には、家族四人でアメリカの地を踏んでいた。幼心を覆う不安の涙。頬を伝ったその痕が、乾く間もないほどの急な出来事であった。
サンホセはシリコンバレーの中心的な街で、すでに当時から多くの日本企業も進出していたが、鈴木が通う小学校には、日本人が一人もいなかったそうだ。「登校したけど、まず自分の教室がわからない。先生が迎えにくるまで、校庭で泣いていました…」「間もなくテストがありましたが、当時はまだローマ字を知らず、用紙に自分の名前さえ書けなかった(笑)。言葉の違いの中、そんなもどかしさを伝えることができないことが辛かったです」。心細いアメリカ生活のスタートだった。
「しかし、だいたい半年で英語での生活に慣れました」。多くの人がそうであるように、鈴木もまた次第に異国での言葉やコミュニケーションに適応していく。それは持ち前の、根っからの明るさやポジティブ思考にあったかもしれないし、周囲に多かったメキシコ系の人々から受けた底抜けな陽気さだったかもしれない。
ラテンのムードと、日差しをいっぱいに浴びて緑に恵まれた大地。そしてふと見上げると、東京では見たことのない高くてどこまでも広がる真っ青な空があった。以降の鈴木はたびたび『自由』をキーワードに用いる。「あの体験が自分自身や今の仕事を形づくっている」と話すように、そこに込められたイメージは、あの明るくおおらかでのびやかな風景なのだろう。どこにいようとも、その空から続いていくあの晴れ渡ったサンホセの空を、鈴木はさがしているのかもしれない。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
毎月送られてくるダイナースクラブの冊子に、オーグードゥジュールグループ代表のギャルソン岡部一己氏のお店“オーグードゥジュールヌーヴェルエール”が載っていた。
オーグードゥジュールグループ代表のギャルソン岡部一己氏とは?
【byキイストンプロデュース 撮影・製作:AIDIA(エイディア)】
人材採用をメインとするキイストンでは、今後転職者や学生からとの接点をもっともっとご縁を増やすためFacebook内のページにも力入れていきます。
まずは、中途の採用ページ作成しました。
http://www.facebook.com/keystone.inc/app_216537241705608
現在、『もっとお客様に役立つサービス』向上のために、コツコツと構築中で~す。
キイストン Facebookページ 「いいね!」押してください。
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飲食業界にとって役立つサービスを目指してるキイストンでは、青山学院大学・総合文化政策学部堀内ゼミでの講義に次いで、第2弾の“飲食経営者によるゼミ講義”は千葉商科大学・サービス創造学部の池田ゼミにて飲食経営者の講義をやらせていただくことになった。
飲食業界を動かしておられる経営者と少しでも多くの学生とのご縁が拡がるように・・・。
堀内先生、池田先生、それに武蔵大学名誉教授の一樂先生ありがとうございます。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にファンクリックス株式会社 代表取締役 木月浩平氏登場。
外資系に勤務する父は、海外出張も多かったそうだ。木月が生まれたのは、神奈川県の相模原市。小学校に上がる頃に東京都八王子市に転居。サッカーが好きで、これは高校生までつづけている。兄弟は3つ離れた兄が1人。秀才で東京大学に進学し、現在は某テレビ局で番組ディレクターをされているそうだ。
「兄とは性格がまるで違う」と木月は笑う。中学から中高一貫の私学に進学。エレベーター方式で高校に進学することもできたが、15歳の木月はまったく違う道を選択した。「修学旅行で渡った海外へ、もう一度、行く」。そんな思いに駆られたからだ。
「いろいろ考えたんですが、結局、修学旅行で行ったニュージーランドの高校に進学しました。中高一貫校だったので日本での高校進学資格を取得し、1年間はもしもの時のために選べるようにしておきました。帰りたくなった時の保険みたいなものですね(笑)」
保険は1年で解約。まったく帰りたいとは思わなかったそうだ。
「最初は、さっぱり会話も分からなかったんですが、半年で聞き取りができるようになり、1年で生活するのにも不自由しないレベルまで到達しました。そうなると『帰る』という選択肢はなくなります。ニュージーランドでも好きなサッカーに熱中し、全国大会にも出場しました」。ニュージーランドの仲間たちとピッチを駆け回る。少年の適応性の豊かさに改めて驚かされてしまう。
ちなみに、同校にはおなじ日本人が15名程度いたそうだ。ただし推測だが、木月の周りにはニュージーランドをはじめ、異国の生徒が数多いたのではないだろうか。
15歳の少年の決断は、何を彼にもたらしたのだろう。・・・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ヨンナナプランニング 代表取締役社長 鈴木賢治氏登場。
鈴木賢治は1982年5月20日に生まれた。父は、曾祖父とおなじ「けんじ」という名を息子に与える。「父は、祖父、つまり私の曾祖父が大好きだったそうです。曾祖父の名は『賢二』で私は一文字違いの『賢治』と命名されました。曾祖父は、一代で財を成し、名士と言われていました」。
一文字違いの「鈴木賢治」。彼ははたして曾祖父の名に恥じない事業家になれるのだろうか。ちなみに母方の祖父は重要無形文化財に認定されている。
鈴木が誕生したその年、鈴木家は莫大な借金を背負うことになる。祖父の時代に曾祖父が興した事業の多くがとん挫。次男の父が取り残され、すべての借金が押し寄せてきたのである。残った事業は、製氷事業のみ。父の奮闘がなければ名家は借金に押し潰されていたことだろう。むろん、これらは鈴木の知るところではない。父が行う製氷事業は、マイナスからスタートしたものの、借財を返金しながらも存続し、鈴木は4代目となるよう躾られた。「いずれ継ぐつもりだった」と鈴木もそう語っている。
むろん跡を継ぐといっても、少年時代の鈴木にとっては漠然としたものだったに違いない。関心はコートにあった。バスケットボールに専念し、中学も、高校も、バスケットボール1本だった。高校時代には、市大会で優勝も経験している。それでも、大学に上がると名選手が多く、鈴木はサークルに参加しただけ。ちなみに、大学は専修大学に進んでいる。
「大学では、好きなことをさせてもらっていました。もともと4代目という指定席があったんで、父も、私も、社会勉強だと割り切っていたんです。しかし、国際公務員を目指す友人と出会い、初めての海外を経験し、自分を外から見た時、4代目の指定席は、座りがっての悪いものになる。「ジブンのチカラを試してみよう」。「公認会計士になる」と目標を定めた。「3年間の猶予を父からもらいました。もちろん仕送りも。でも、そのおカネは、結局、ゲームに飲み込まれていくだけでした」。
有名な対戦格闘ゲームがある。実は高校時代にも、それにハマった。いわき市で一番になり、もはや敵はいない。興味を失くしていた。にもかかわらず、たまたま入ったゲームセンターで、数年ぶりにやってみるとコテンパンに打ちのめされた。負けられるか。「それは、それはひどい生活でした。有り金ぜんぶゲームにぶち込みます。600万円ぐらいはつぎ込みました。高校時代と違い、今度は世界が相手です。次から次に強い相手が現われて、ぜんぶ倒し終わって日本一になった時には、もう3年が経っていました」。公認会計士などなれるはずもない。3度受験したがすべて不合格。我に返ったとき「やっちまったぁ」とつぶやいた。・・・・・。
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本日18日(土)、埼玉県、東京都3会場の計4会場にて調理師試験があり会場にて求人冊子『in-職hyper 飲食経験者版 8月特別号』を土曜出社し皆で手渡しの配布しました。
(東京都の調理師試験会場は計3会場で同時開催)
(ちゃんと手に取りしっかり見てもらってる方が多かったです)
(最新の“飲食の戦士たち”の記事も掲載)(東京誠心調理師専門学校内)
7月8日に神奈川県の調理師試験会場を皮切りに、千葉県の調理師試験会場、そして今回で完結した第一回目のこの企画は社員が企画を考え、皆で営業促進活動し、冊子も1社・1社の原稿から冊子の面付けから印刷工程全て最後までやってくれました。
自分で言うのもなんですが、社員もなかなかやってくれるじゃん、たいしたもんだ!!
キイストンは、この10月22日で丸20年になりますが、常に新しいことにトライしてます。
片手間で求人やってる会社やお客様無視で己のことだけの会社には負けられない。
やはり1つ1つコツコツと継続することと常に新しいことにチャレンジする気持ちは何年経っても失ってはいけない。
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不思議なもので、そうなっていく。
他人がいくらなんと言おうが、自分でなんでもプラス思考でいいように勝手に思い込んでたら、少しだけでも思った人生に近づくはず。
今しかない時間「できる」と信じて大事に生きないともったいない。
本日、8月14日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に、
なんと全面カラーでホイッスル三好の三好比呂己社長の記事が掲載されました。
すごい、この記事の大きさなら通常広告費として250万円はするだろうな・・・。
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ジェイプロジェクト 代表取締役 新田治郎氏登場。
本文より~
「別に怒られたわけではないんです。『継ぐ意思がないなら、家を出ろ』と。そうじゃないと、みんなにケジメがつかないということでした」。
「継ぐのか、継がないのか」を15歳の少年に迫る。家を追い出されたという話を抜きにしても、それ自体、過酷だ。新田が東京に行く決心をしたのは、この時だったのではないだろうか。逆にいえば京都を捨てるという決心である。
「東京」という言葉は胸にしまい込み、京都の「堀川高校」に進んだ。もちろん野球部に所属。だが、かなり弱かった。3年が過ぎる。
新田が高校3年の年といえば1983年である。いま振り返れば、バブルに向かって日本経済が駆け上がっていく時である。堀川高校を卒業した新田は、バブルを生み出す「東京」へ向かった。「東京に行って、いまでいうフリーター生活を始めました。TVドラマの小道具もやりました。いろんなバイトをして生計を立てていたんです」。
明確な目標があったわけではない。その日暮らし。そういう言葉もぴったりだった。新田にも、そんな時代がある。だが、ある日、運命の人に出会う。「あることがきっかけで、当時、黒服の頂点に立っておられた成田勝さんにお会いするんです」。
正確に言うと会うというより、遠くから「あれが、成田さんだ」と教えてもらっただけ。だが、その一瞬の出会いが新田の運命を決定づけることになる。「格好良かった。背は184センチぐらいで、完璧な八頭身。ルックスはもちろん抜群です。とにかく黒服の頂点に立っている人なんです。マハラジャだけで150店舗はあったんですから、その頂点に立つことがいかに凄いことかわかりますよね」。・・・・。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社加寿翁コーポレーション 代表取締役社長 竹内太一氏登場。
名前にはちからが宿ると言ったのは、平安時代の陰陽師、安部清明だっただろうか。
高知県の郷土料理を「土佐料理」と命名することで、いまで言うブランド化を図り推進したのは、今回ご登場いただく株式会社加寿翁コーポレーションの現社長、竹内太一の父、和夫氏である。昭和中期から和夫氏が展開した「司」や「祢保希」が高知県の郷土料理の代表格となったのも頷ける話だ。
和夫氏が、創業者である竹内の祖父小松牛次氏に養子として迎えられたのは、竹内が生まれる1年前の話。竹内が生まれた翌年には、高知にて中華料理店を開業している。
祖父の小松牛次氏は高級料亭に勤める腕の立つ板前だった。その腕を活かし、大正6年に「新京橋ねぼけ」を創業する。「大衆化したことでヒットした」そうだ。
父の和夫氏が「土佐料理 司」を高知市はりまや町に開店したのは1964年のこと。そののち「土佐料理 司」は高知県でも名店として知られるようになる。
この名店と歩みを合わせるように、竹内もまた成長していく。中学から中・高一貫の進学校に入り、中学では軟式テニス部、高校では水泳部に籍を置いた。「街には城もあって、街全体が遊び場だった」という。当時のセリの話も伺った。「高知県の市場にはたくさんの種類の魚が出回っていました。セリの時には、セリの順番を待つ鰹船がズラリと港にならんでいたものです」。
最近は高知でも漁獲量が落ちてきたそうだ。豪快な一本釣りも姿を消しつつあるらしい。にぎやかな時代の話と対照的に、さみしくも思える話である。・・・。
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