in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に広東名菜 赤坂璃宮(株式会社タン企画) 代表取締役 譚彦彬(たん ひこあき)氏登場。
名店の味と看板を託された男
名シェフ同士による料理対決番組が、お茶の間を沸かしたことを覚えている人は多いだろう。中でも中華のシェフ周富徳氏は、人気を博していた。当時、周氏が総料理長を務めていた東京・赤坂の『璃宮』も、その追い風を受けて多くの客で賑わっていたことは記憶に新しい。
しかしテレビの仕事が忙しくなるにつれて、同店では総料理長が不在のまま開店するという異常状態が日常化するようになった。異常事態はそのまま客足の減少へとつながり、すぐさま非常事態へとなっていった。
そんな同店の救世主として白羽の矢が立ったのが、今回スポットを当てる譚彦彬社長である。譚は、周氏とは竹馬の友といった間柄にあり、若い頃から互いに料理修行で切磋琢磨しあった。また、当時はホテルエドモント『廣州』の料理長を務めていた譚の料理における腕前と評価も、すでに相当高かった。まさに譚しかいないという状況だったのだ。
「当時の璃宮のオーナーに頼まれて、テレビを控えて店に入るよう周さんを説得しに行ったり、周さんのいない厨房を手伝ったり。そんなことがあって、璃宮との関わりが増えていったね」と笑う。それでも周氏は璃宮に戻ることはなく、ついにはオーナーも離れた。そんな名店の後を託され、オーナーシェフとして『赤坂璃宮』をスタートさせたのが譚である。
在日中国人二世として、生を享ける
父は16才で中国・広東省から日本へ渡り、横浜に辿りついた。また、母も同省の出身である。父と20才年が離れた母は、後に日本へやってきた。そして父40才、母20才の時に、譚が生まれた。
父は横須賀で小さなラーメン屋を営む、おとなしい男だった。その代わりに母が厳しかった。「母親には、とにかく怒られていたね。勉強が嫌いでまったくしなかったからね」とニコリ。それには、2才上の兄が非常に優秀だったということもある。「同じものを食べて、同じ生活をして、同じ小遣いをもらって、なんでこうも違うのかねと言いながら母親が呆れていたね。子供心に、間にもう一人兄弟がいたらよかったのにって思ったよ」と、さらに笑いを誘う。
余談になるが、譚の兄は勤勉な人物で、大学卒業後は橋梁の設計・架設工事を行う土木建設業界の大手に就職。その道を全うし、功績を残したという。戦後の高度経済成長期とはいえ、在日中国人といえば中華料理店くらいしか働き口がない。そんな閉鎖的だった時代で、かなり異例の存在なのである。
一方の譚はといえば、幼い頃から元気のかたまりだった。横浜・中華街の華僑コミュニティの中でも、ひときわ腕白で威勢がいい。母の目を盗んでは家を飛び出し、仲間を引き連れて通りを練り歩いていたのだった。・・・・。
広東名菜 赤坂璃宮(株式会社タン企画) 代表取締役 譚彦彬(たん ひこあき)氏
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