2013年3月27日水曜日

株式会社アルカサバ 代表取締役 貞方邦介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 株式会社アルカサバ 代表取締役 貞方邦介氏登場。



貞方郁介氏


本文より~


福岡県久留米市にて。


福岡県久留米市といえば、ゴム工業が有名だ。タイヤの世界的なメーカーである「ブリジストン」も久留米市で創業している。この久留米市に貞方氏が誕生したのは、1967年のこと。久留米市はまだまだ田舎町で、貞方氏ももっぱら野原を駆けて遊ぶ少年だった。
父は長崎出身のサラリーマン、母は鳥取県出身。貞方氏は一人っ子で大事に育てられた。スイミングスクールに通っていたからだろうか。からだは丈夫で、病気らしい病気はいまだしたことがない。学校では人気者で、小学時代はリーダー的なタイプだった。それだけ聞けば、いまのリーダー像と重なるが、小学、中学、高校と「やすき」に流れていったこともある。
ところで、冒頭のスーパーカーの話は小学生時代に登場する。中学は、地元の学校に通いつつ、いつかはフェラーリに乗ると誓う。


悪ぶるのも、ファッションだった。


「遊ぶこと、反抗すること、それ自体がファッションだった」と貞方氏は高校時代を振り返る。バンドブームに乗り、エレキギターやバイクにハマり、学校にもバイクで通学した。学食で食べるなんて格好悪いとうそぶいて、学校を脱走したこともある。
お金が欲しくて、バイトを開始するのだが、バイト先選びの基準がいかにも貞方氏らしい。この時、貞方氏は大手のハンバーガーチェーンと地元のチェーンで悩むのだが、マニュアルに沿って教育されるのが大手のほう。「いまなら、間違いなくそちらに行くが」と断りつつ、当時は、「そういう発想がまったくなかった」と言って笑う。たぶん、マニュアルを必死で覚える姿を想像して格好悪いと思っていたのだろう。こういうのが当時の貞方氏の生き様だった。しかし、不格好な生き様ではない気がする。この当時から、しっかり物事を分析しているようにも思えるからだ。・・・。


株式会社アルカサバ 代表取締役 貞方邦介氏


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2013年3月20日水曜日

『武田あかねの食の応援団』今月のゲストは“グリーンロード 高原 良午氏”です。

『武田あかねの食の応援団』今月のゲストは便利で使い勝手のいい花屋。ロスをなくして適正価格の花を提供されている“株式会社 グリーンロード 代表取締役の高原 良午氏”です。


高原さん&武田


武田

お花をはじめたきっかけは?




高原社長

たまたま何かの拍子で花を買いに行ったんですよ。

とある町の小さな花屋さんだったんですけど、そのとき、花屋のご主人から、「何にしますか?」と言われまして。

何を買っていいのか分からないから来ているのに、こういうんだったら、業界のレベルが低いんじゃないか、と思ったんです。ここの業界レベルだったら、自分でも通じるんじゃないか、と考えたのが一つ。もう一つは、男性でも買いやすい花屋をつくりたい、という志もありましたね。

今でもうちに買いに来てくれるお客様は、男性が多いですよ。

武田

だって、お花は男性が女性にあげることが多いですものね。


高原社長

そうなんですよ。トータルでもみれば女性の方が多いですけど。お花が好きなのは圧倒的に女性ですから。



続きはサイトで・・・・。 コチラ


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株式会社フードゲート 代表取締役社長 内山九十九氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 株式会社フードゲート 代表取締役社長 内山九十九氏登場。



フードゲート 内山
本文より~


100人規模の大ゲンカ。


成績は悪いほうではなかった。だが、中学2年生頃から悪友とも付き合い始めた。ケンカもした。正義感が強く、不遜な言動が許せなかったからだ。
「当時は暴走族とかが全盛期だったんです。だから、集団というのがあって、ある時などへんな噂が流れて100人規模のケンカに発展したことがあります。私は一方の首謀者とみられていました」。
素行もけっして良くはなかったが、それでも県内で言えば、真ん中よりやや上の高校に進んだ。だが、進学しても校内に内山の姿はあまりなかった。


みんなの下へ1人自転車で向かった。「京都へ」。


中学1年で剣道部は辞めたが、道場には高校1年まで通いつづけた。ところが、夏に首を脱臼し、こちらも辞めてしまう。これで、目標らしきものがなくなった。
「麻雀、パチンコが日課だった」と内山は当時をふりかえる。中学時代は素行が問題視され、修学旅行にも連れて行ってもらえなかったそうだ。この時、内山らしいエピソードを残している。
「修学旅行は京都だったんです。私は連れて行ってもらえないというんで、家出のようにして、ふらっと家を飛び出しました。修学旅行の1週間前です」。
目的地は京都。1人自転車を漕いで京都に向かった。先乗りしてやろうという魂胆である。
「途中でトラックの運転手さんに拾われたりして、無事、京都に到着。子どもだからできたんでしょうね。自転車1人旅です。でも、帰りは父に連絡して、新幹線で帰っちゃうんですが(笑)」。この出来事、一つを取り上げて「行動派」というのは先走り過ぎかもしれないが、ともかくエネルギー旺盛な少年だったことはたしかである。・・・・。


株式会社フードゲート 代表取締役社長 内山九十九氏


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2013年3月12日火曜日

株式会社麺食 代表取締役社長 中原 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に “喜多方ラーメン板内”の株式会社麺食 代表取締役社長 中原 誠氏登場。



麺食 中原社長
本文より~


父と、自立と。


さまざまな商売をやった。中原ではなく、父であり会長である中原 明氏のことである。もともと北海道の酪農家の息子に生まれた明氏は大学進学で上京したものの、すぐに大学を中退。それ以降、ハンドバックや窓ガラスのサッシを販売するなどをして生計を立てた。結婚は早くて、長男の中原が生まれたのも、父、明氏がまだ21歳の頃のことである。
起業家精神旺盛な明氏は「信州そば中原」などを開業するが、なかなかうまくいかない。結婚したばかりの妻を店に残し、何度も修行に出かけた。その結果、料理職人として腕をあげていく。その一方で、一時期、会社組織に入り、フランチャイズ展開を任されるなどして経営ノウハウも吸収していくことになる。JR関連の子会社の役員に名を連ねたこともあった。のちに福島の名店「坂内食堂」に教えを請うため単身乗り込み、「喜多方ラーメン」を全国区にしたことは有名だ。
ただ、仕事に熱中すればするほど家庭を顧みる時間は少なくなる。「特に、会社を立ち上げる前後数年は家にもなかなか帰ってこなかった」と中原も語っている。たまに帰ってくると、「子どもにスグに雷を落とす怖い父」だったそうだ。
そういう環境のなかにあって、中原は小さな頃から自立しようと何度も己を奮い立たせていた。「父に反抗しているわけじゃないんですが、父にぜんぶ頭を押さえられているような気がしていたんです。でも、食べさせてもらっている以上、文句も言えません。だから、早く自立したかったんです」。
小学6年生の卒業文集では「将来、店をやる」と宣言したし、中学卒業時には「就職する」と先生に言い切った。稼いで家を出る、それが狙いだった。
そんな当時の中原には、父の会社を引き継ぐなど思いもよらない選択だった。


剣道一直線だった生真面目な少年が一転…。


ところで小学生から成績は優秀で中学校の入学式では、新入生の挨拶も任された。剣道の道場にも毎日通う、文武両道の少年だった。今でも付き合いがあり、「合宿の時には米を差し入れる」という関係の、この時の道場主は、中原にとってある意味、父親代わりだったそうだ。
「週6日は通いました。学校が終わればスグ道場に向かいます。けっこう強くなって、警察の道場で練習したり、大学の練習に参加させてもらったりしていました。でも、ある時、このまま剣道をつづけていっても警官か、消防士か、そういう将来しかないと思うようになって。それで中学3年の時にあっさり辞めてしまうんです」。
高校は県内でも指折りの進学校に進んだ。しかし、高校進学は、中原にとって気乗りがしない選択だった。すでに書いた通り、中学の先生には「就職する」と一度は言い切った中原である。
「できるならそうしたかった。でも、まだ子どもです。巧く丸め込まれたというか、結局、長い物に巻かれてしまったというか。そういうジブンもイヤで」。
中学に「志」を置いてきてしまった。そんな思いだったのだろうか。高校生になると勉強をする気もうせた。悶々とする日々がつづく。だが、けっして高校時代が楽しくなかったわけではない。
「私服が許された、自由な校風だったんです。朝、出席簿を付けるためだけに登校して、スグにふけるんです。パチンコに行って、そのままアルバイトです。イベント関連のバイトで1回、1万円ぐらいもらえましたから、パチンコの分と合わせると結構な額になりました」。
流されるままの生活。「楽しくない」ことはなかったが、「むなしさ」をかみしめるような日々だったのも事実である。・・・・・。


株式会社麺食 代表取締役社長 中原 誠氏


 


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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



メディアPR事業部発足から1年。

昨年、キイストン内にメディアPR事業部を発足。
主に“飲食の戦士たち”の社長取材とマスメディアとの情報交換を主に活動してます。

そこに抜擢したKを専任させましたが、それが各社とのパイプを太くしてくれました。

また、電子書籍もシリーズ化できました。

ありがたいことです。



2013年3月11日月曜日

東日本大震災から丸2年経ちました。


東日本東日本大震災から丸2年経ちました。
自身が起こったとき恵比寿にて、ちょうど飲食企業様の社長取材中でした。
震災直後から異常な事態になりました。


飲食店にお客様が来ない日々です。


自粛•自粛と世の中的に広まるなか、私どもキイストンができることは何か考えてました。


そして飲食企業の皆さんとフォーナイン様とで被災地&飲食業界&ニッポン応援プロジェクトの動画作りました。


なにかどう勇気付けたかわかりません。
なにが変わったかもわかりません。
ただ、今もずっとキイストンのホームページにアップしてます。
続けられないことはせず、今のキイストンにできることを精一杯やろうと思います。



2013年3月10日日曜日

新人よ、今はバタバタしていいんで、羽ばたけ!!

新人のI君が入社し、もうすぐ1ヶ月が経ちます。
只今、修行中なんで日々遅くまで頑張ってくれています。
営業の基礎は何より新規獲得です。

営業のスタートは出来るだけ苦しむ方が伸びます。

お客様のありがたみを知るために、もっと苦しめばいい。

さすがにお客様を最初から引き継ぐとそれが当たり前になり、

お客様のありがたみがわからないってきます。

自分がお客様と思っててもお客様に選択肢あるためそう思っておられないことがあります。

知らない間に他社に流れる、当たり前のことです、

23歳と若いだけに、変な我流が身につかないように王道を教えたいです。

素直であれ、明るく元気であれ、即行動あれ…。

その3点を徹底的に伝授していきます。




2013年3月5日火曜日

“くら寿司”の株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に “くら寿司”の株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏登場。


 
くらコーポレーション 田中邦彦氏


本文より~


幼少期。


田中は、1951年、岡山県の中南部にある総社市に生まれる。総社市は、倉敷市に隣接する山に囲まれた盆地だそうだ。戦後復員した父親が市内で八百屋を開き、生計を立てていた。当時の八百屋はいまでいうよろず屋のようで、商品は野菜だけではなかった。「仏前に供えるしきびが良く売れた」と田中は回顧する。
父親といっしょにオート三輪で、その「しきび」を採りに山に向かうことも少なくなかった。水冷のラジエーターがすぐにいかれ、その度に田中が水をもらいに走った。
記憶のなかにある父は、厳しく、何より怖い存在だった。そんな父から気づきの大事さを教わっている。
「ヒトが気づかないことに気づくこと」で差別化が生まれる。とりわけビジネスの世界では気づきは重要だ。「くら寿司」は業界他社に先駆け、さまざまなしくみを導入していくが、これもまた田中の気づきから生まれた発想に違いない。父は怖い存在だったが、大事な教師だったとも言える。
オート三輪に乗って父とともに観た風景も、田中の記憶に彩を与えている。小高い丘から市内を流れる高梁川を観るのが好きだった。地を這うように蛇行した川は、少年の目に自然の壮大さを映しだしたはずだ。


9×9ができない少年。


田中には2人の母がいる。産みの母と育ての母だ。1歳の時に、産みの母の下から絡みとられるようにして父に連れ去られた。不思議なことにその時の情景を覚えている。オート三輪からいつもと違う高梁川が観えたという。父親と産みの母親は田中が5歳の時に正式に離婚。3つ上の姉は、祖父の家で暮らすようになったが田中は育ての母の下で育っていく。
育ての母は父に負けず厳しかったが、少年から活発さを奪うような人ではなかった。山に川に、野球にチャンバラ。田中少年は、町中を所狭しと走り回った。「代わりに勉強はぜんぜんしなかった」と笑う。
当時のおもしろいエピソードがある。
「私が小学5年生の時です。授業参観が終わって、先生が『うちのクラスには小学5年生になっても9×9がいえない子どももいる』といったそうなんです。帰ってきた母が、『9×9が言えない子がいるんだってね、先生がそういっていたよ』と笑うんです。まさか自分の息子だとは思わなかったんでしょうね」。
会話のつづきはお察しの通りである。
気まぐれに「9×9を言ってごらん」と問うた母も、問われた息子も、次の瞬間には絶句したというのである。
勉強ができなかったわけではない。9×9を覚えると算数が好きになって6年生時には姉の教科書をひっぱりだしてきて、中学2年の数学まで理解できるようになっている。
とはいえ、むろん勉強漬けではない。多感な少年時代を机に向って過ごすことを強要するいまの父母たちに、田中の子ども時代の話は、どう映るのだろうか。
「私は、面接でね。キミ、昔カブト虫を採ったことがあるかい? と聞くんです。私にとっては、そういうのが原風景。そういう原風景といえる少年時代を過ごすことが大事だと思っているんです。少年時代は少年らしく生きる。大人になって振り返っても、楽しくなるような、そういう時代を過ごしていることで人は強くなれると思うんです」。
田中はそういう風に、言っている。・・・・・・。


株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏


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