2013年5月30日木曜日

今だからこそ、社員教育に力入れます。

31日から1泊で外部の幹部研修に3人参加させます。
活きのいい若手人材が増えたので、幹部クラスにはもう3ランク上のレベルで経営感覚、人生観など学んでもらい、キイストン全体のボトムアップさせます。

また、6月19日に海外希望者対象の就職説明会を実施しますが、6月30日には海外(フィリピン・セブ島)での就職説明会にリサーチも兼ね1人参加させる予定です。
社員にはいろんな機会を作り、気づきと創造力を付けさせたい!!
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戦略型総合人材採用サービス会社
キイストン

2013年5月29日水曜日

株式会社凪スピリッツ 代表取締役社長 生田智志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社凪スピリッツ 代表取締役社長 生田智志氏登場。


本文より~

「パイロット」か「警察官」が、子どもの頃の夢。

生田が生まれたのは、福岡県北九州市。土日は、家族で「山口」の海に行ったというから、九州の入り口あたりということになるのだろう。変わり者で人気者だったそうだ。子どもの頃の夢は、パイロットか警察官。この頃の夢を覚えていたのだろうか、高校を卒業したのち、生田は一旦、白バイの隊員になるべく、真剣に勉強を開始している。

白バイ隊員をめざして。

テニス三昧の中・高時代が終わった。大学進学という手もあったが、生田は専門学校を選択した。高校2年の時、父が他界したことも多少は影響したのかもしれない。
ともかく生田は白バイ隊員になるべく公務員ビジネス専門学校に進学した。
親許を離れ、新聞配達所に住み込みではたらかせてもらった。朝配達を終え、学校に行き、夕方、もう一度、配達する。それで学費も、生活費もまかなった。
むろん、学校もちゃんといった。しかし、公務員試験は当時の倍率で24倍。毎回、面接で落とされてしまった。合計、4回。21歳になるまでチャレンジしたが、白バイとは、縁がなかった。
代わりに出会ったのが、ラーメンである。

19歳から始まったラーメン人生。

学生時代、生田は福岡の名店「一蘭」で、アルバイトを経験している。白バイ隊員が目標だから、あくまでアルバイトに過ぎなかったが、20歳でリーダーを任されるなど高く評価されていた。4度目の試験に落ちた生田は、社員になる決意を固める。むろん、「一蘭」は大歓迎。入社してからは、まさにエリート街道を突っ走る。
「一蘭」の東京進出といっしょに生田も上京。六本木店店長からエリアマネージャーへ昇格し、20代半ばで450人の部下を抱えるまでになった。
「450人でしょ。もう一杯一杯です。会話の内容を忘れないように、450人の部下との会話を毎回メモっていました。それが私の20代半ばの限界でした。しかし、会社は更に出店をつづけます。2001年にも出店がつづき、休みもまったく取れなくなりました。2002年になってようやく休みが取れ、9日間、ニューヨークに行ったんです」。
このニューヨーク旅行が、新たな旅の始まりとなる。

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2013年5月23日木曜日

本日23日、絶好調の吉田社長・青山学院大学にてゼミ講義!!


本日5月23日、絶好調の吉田社長が、青山学院大学の総合文化政策学部・堀内ゼミにて講義されました。
立教大学に次いで青山学院大学の学生の皆さんに情熱をぶつけてもらいました。
デイサービスを6月6日スタートし、いよいよ教育事業と保育事業にも着手予定らしい!!

2013年5月21日火曜日

クオルス株式会社 代表取締役社長 高波利幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にクオルス株式会社 代表取締役社長 高波利幸氏登場。


クオルス株式会社 高波利幸氏
本文より~
運動神経抜群。アスリートとして軌跡。
勉強も、スポーツもできた。小学生の頃は、「体育の先生になれる」とみんなが言っていた。先生は、子どもたちの憧れだったのだろう。勉強も、スポーツもできる高波なら、「先生になれる」。この一言も賛辞だったに違いない。
春夏は陸上、冬はスキー、夏はもちろん水泳に精を出した。
中学は受験し、見事、国立大学の附属中学に進学している。頭が良かった証拠だろう。中学・高校では、勉強よりスポーツに傾倒した。なかでも陸上部で、800メートルという距離を走り、県の強化選手として全国上位レベルの記録を残した。
「大きな大会になると結果を残せず、悔し涙を流せた純粋な青春時代でした(笑)」。
高校では、バイクにも夢中になった。400ccのバイクを駆り、無断で学校に通学したりもした。暴走族というのではない。レーサーを目標にライセンスを取った。「かっこいい」、そういう一つの尺度が高波を動かすようになる。

飲食店経営者をめざして。
偏差値でいえば、地元では上から3番目ぐらいの高校だった。だから、大学に進学する生徒も多くいたはずだ。だが、高波は大学進学という道を進まず、料理の世界に入るため専門学校の門を叩いた。「良く通っていた喫茶店のオーナーに刺激されて…」と高波。進んだのは東京にある「服部栄養専門学校」だ。「服部栄養専門学校」はわずか1年制だったが、この1年のなかで、ヨーロッパに研修に出かけたことが高波の人生を決定づけることになる。当時、本人はそのつもりではなかったかもしれないが、その後「イタリア」が間違いなく、高波の人生のテーマになるからだ。「フランス、スペイン、イタリア、どの料理も良かったんですが、私にはイタリアがいちばんよく似合うような気がしたんです」。専門学校卒業後、イタリアレストランに就職する。  続く・・・・。

クオルス株式会社 代表取締役社長 高波利幸氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

5/20放送のNHK“プロフェッショナル 仕事の流儀”に俺のイタリアンの坂本社長登場。

今、“俺のイタリアン”、“俺のフレンチ”を経営されいてる俺の株式会社の坂本社長(ブックオフ創業者)が登場されていた。



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(今や業界でも知らない人はいないほど破竹の勢いある俺の株式会社)




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是非、俺の求人もよろしくお願いします。


“俺のイタリアン”“俺のフレンチ”へ人材を紹介しています。


俺の求人イタリアン
俺のフレンチ
コチラまで→“俺のイタリアン”への応募、“俺のフレンチ”への応募


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大阪焼肉・ホルモン“ふたご、さすが。

いろんな経営者と会っていますが、この双子の李兄弟率いる“ふたご”様は飛び抜けそう。


常にお客様目線であり、かつスッと受け入れれる素直さはさすが。


やはり経営者が自らお店に立つことで、口では伝えられない“ふたごイズム”を社員に伝授されているから、スタッフに力を感じる。



ふたご 渋谷店
(ふたご 渋谷店)


はみだしカルビ
ふたご メニュー
(看板メニューの「はみでるカルビ」。黒毛和牛250グラムで1500円なのです。この単品の原価は80%も掛けています。)


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2013年5月14日火曜日

株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏登場。



ハートリンクカンパニー 丸山鉄二氏
本文より~


日本マクドナルドへ。


日本マクドナルドが銀座に華々しくオープンしたのは、1971年のことだから、丸山12歳の時である。丸山が住む神戸に出店するのは、まだずいぶんあとの話である。
この「日本マクドナルド」に丸山は就職することになる。「ナイトクラブでアルバイトしていたわけでしょ。ハンバーガーなど食べたこともなかった。ジャンクというか、ね。それでも給料がいいことは知っていたし、実は単位が足らなくて卒業見込証明書が出なかったんです。そんな状況だったから、とにかく卒業見込証明書が無くても採用してくれる太っ腹な会社を選んだわけです(笑)。まぁ、それが縁といえば縁でした」。
以来、23年間、丸山は日本マクドナルドの発展に貢献することになる。
藤田田氏というカリスマ経営者にも惹かれた。
直接会ったことは、それほど多くないが、期待もかけられた。
丸山は2001年から、アメリカ駐在員現地責任者として、アメリカ法人の副社長を務めている。藤田田氏が社長だから、社長と副社長の関係になったこともあるわけだ。薫風もうけた。
「日本マクドナルド」が外食のトップ企業に登りつめていくなかで、丸山はその最前線でがむしゃらにはたらいた。
「神戸を皮切りに大阪・岡山・広島・四国・大阪と転勤の連続で、とどめにアメリカにも行き、帰国の地が東京でした。マクドナルドのおかげでずいぶん勉強させていただきました」。
「ハンバーガー大学」では講師として教壇に立ったりもした。
小さい頃は、まさか日本マクドナルドに就職するとは思っていなかっただろうし、逆に入社してからは、そう簡単に退職するとも思っていなかっただろう。
ところが、日本マクドナルドを卒業する日がきた。
「簡単に言うならば、日本マクドナルドも世界のマクドナルドのFCの一つなんです。むろん、藤田さんがオーナーです。日本マクドナルドが、他国のマクドナルドに比べかなり自由に仕事ができたのは、藤田さんと米国マクドナルドの創業者が親密な関係であったこともありますが、実は、藤田田という大きな器に守られていたからなんです。しかし、私がアメリカに赴任した頃から、日本マクドナルドの業績に少し蔭りがみえはじめます。業績も悪化し、藤田さんが退任され、社長が代わります。八木さんが一時社長をされていましたが、日本マクドナルドが大きく変わっていくのは、原田さんが来られてからです」。・・・・・・つづく


株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏


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2013年5月9日木曜日

2013年5月8日水曜日

ミストラルの新名刺出来ました。

ミストラルのロゴなど一新した名刺出来ました!!

ミストラル名刺
ミストラルの意味などはコチラ→ミストラル経営理念
株式会社ミストラル(フードビジネスにより特化した人材紹介)


“つけめんTETSU”の株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“つけめんTETSU”の株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏登場。



YUNARI 小宮一哲氏


本文より~


プロ野球選手になりたかった頃の話。


7時には家族全員が食卓を囲む。これが小宮家の日課だった。大手鉄鋼会社に勤めていた父は、厳格で、時間にも融通がきかなかった。クルマで出かけるにしても、少しでも時間に遅れるとおいて行かれるようなこともあったそうだ。
小宮家は、父と母と小宮と、3歳離れた姉の4人家族。小宮が生まれてすぐ香川県に移り住み、小学校に上がるまでそちらで暮らしている。父は厳格だが、家族は毎日、食卓を囲むような和やかな一家だったに違いない。
父は大手企業に勤めていただけに転勤もあったが、旨い具合に小学校に上がると同時に西東京市に引っ越すことができた。そから18歳になるまで、西東京市は小宮のホームグラウンドになった。
当時の小宮の夢を聞いてみると「プロ野球選手」という答えが返ってきた。一方で、早稲田や慶應のラグビー部のジャージに憧れ、中学受験に果敢に挑戦している。


高校進学、登校したのは3日のみ。


ラグビーをやりたかったが、中学受験に失敗し、進んだ公立中学にはラグビー部がなかったため、基礎体力を付けようと水泳部に入る。学力は優秀で学年では10番以内をキープしている。
しかし、徐々に勉強より、スポーツより、みんなでツルむことが楽しくなった。小学校の頃から優秀な成績はおさめたが、ケンカもめっぽう強かった。中学でも、ケンカは負け知らず。いつのまにか、花形選手のような存在になっていた。中3で、バイクを買うためにアルバイトを開始。母にはバレていたが、バイクを乗り回したりもした。
勉強はしていなかったが、学力には自信があったからだろう。
高校受験では、リベンジとばかりに早稲田、慶應を受けたが、それほど甘くなかった。それでも偏差値60以上のある私立高校に合格し、そちらに進んだが、登校したのは合計3日。夏には、退学届を提出した。
はちゃめちゃな行動と言えなくもないが、小宮にすれば行ってみてはじめて、高校に進んだことが意味のないことのように思えたのだろう。周りの生徒たちとも、馬が合わなかった。「中途半端に賢い奴ばっかりだった」と振り返っている。
学校を離れれば、自由の身である。それは自由であると同時に自律を余儀なくされることである。さて、小宮はこれからどんな人生を歩んでいくのだろうか。・・・。


株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏


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