活きのいい若手人材が増えたので、幹部クラスにはもう3ランク上のレベルで経営感覚、人生観
また、6月19日に海外希望者対象の就職説明会を実施しますが、6月30日には海外(フィリピン・セブ島)での就職説明会にリサーチも兼ね1人参加させる予定です。
社員にはいろんな機会を作り、気づきと創造力を付けさせたい!!
戦略型総合人材採用サービス会社
キイストン
今、“俺のイタリアン”、“俺のフレンチ”を経営されいてる俺の株式会社の坂本社長(ブックオフ創業者)が登場されていた。
(今や業界でも知らない人はいないほど破竹の勢いある俺の株式会社)
“俺のイタリアン”や“俺のフレンチ”へ人材を紹介しています。
コチラまで→“俺のイタリアン”への応募、“俺のフレンチ”への応募
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
いろんな経営者と会っていますが、この双子の李兄弟率いる“ふたご”様は飛び抜けそう。
常にお客様目線であり、かつスッと受け入れれる素直さはさすが。
やはり経営者が自らお店に立つことで、口では伝えられない“ふたごイズム”を社員に伝授されているから、スタッフに力を感じる。
(看板メニューの「はみでるカルビ」。黒毛和牛250グラムで1500円なのです。この単品の原価は80%も掛けています。)
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏登場。
日本マクドナルドが銀座に華々しくオープンしたのは、1971年のことだから、丸山12歳の時である。丸山が住む神戸に出店するのは、まだずいぶんあとの話である。
この「日本マクドナルド」に丸山は就職することになる。「ナイトクラブでアルバイトしていたわけでしょ。ハンバーガーなど食べたこともなかった。ジャンクというか、ね。それでも給料がいいことは知っていたし、実は単位が足らなくて卒業見込証明書が出なかったんです。そんな状況だったから、とにかく卒業見込証明書が無くても採用してくれる太っ腹な会社を選んだわけです(笑)。まぁ、それが縁といえば縁でした」。
以来、23年間、丸山は日本マクドナルドの発展に貢献することになる。
藤田田氏というカリスマ経営者にも惹かれた。
直接会ったことは、それほど多くないが、期待もかけられた。
丸山は2001年から、アメリカ駐在員現地責任者として、アメリカ法人の副社長を務めている。藤田田氏が社長だから、社長と副社長の関係になったこともあるわけだ。薫風もうけた。
「日本マクドナルド」が外食のトップ企業に登りつめていくなかで、丸山はその最前線でがむしゃらにはたらいた。
「神戸を皮切りに大阪・岡山・広島・四国・大阪と転勤の連続で、とどめにアメリカにも行き、帰国の地が東京でした。マクドナルドのおかげでずいぶん勉強させていただきました」。
「ハンバーガー大学」では講師として教壇に立ったりもした。
小さい頃は、まさか日本マクドナルドに就職するとは思っていなかっただろうし、逆に入社してからは、そう簡単に退職するとも思っていなかっただろう。
ところが、日本マクドナルドを卒業する日がきた。
「簡単に言うならば、日本マクドナルドも世界のマクドナルドのFCの一つなんです。むろん、藤田さんがオーナーです。日本マクドナルドが、他国のマクドナルドに比べかなり自由に仕事ができたのは、藤田さんと米国マクドナルドの創業者が親密な関係であったこともありますが、実は、藤田田という大きな器に守られていたからなんです。しかし、私がアメリカに赴任した頃から、日本マクドナルドの業績に少し蔭りがみえはじめます。業績も悪化し、藤田さんが退任され、社長が代わります。八木さんが一時社長をされていましたが、日本マクドナルドが大きく変わっていくのは、原田さんが来られてからです」。・・・・・・つづく
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in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“つけめんTETSU”の株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏登場。
本文より~
7時には家族全員が食卓を囲む。これが小宮家の日課だった。大手鉄鋼会社に勤めていた父は、厳格で、時間にも融通がきかなかった。クルマで出かけるにしても、少しでも時間に遅れるとおいて行かれるようなこともあったそうだ。
小宮家は、父と母と小宮と、3歳離れた姉の4人家族。小宮が生まれてすぐ香川県に移り住み、小学校に上がるまでそちらで暮らしている。父は厳格だが、家族は毎日、食卓を囲むような和やかな一家だったに違いない。
父は大手企業に勤めていただけに転勤もあったが、旨い具合に小学校に上がると同時に西東京市に引っ越すことができた。そから18歳になるまで、西東京市は小宮のホームグラウンドになった。
当時の小宮の夢を聞いてみると「プロ野球選手」という答えが返ってきた。一方で、早稲田や慶應のラグビー部のジャージに憧れ、中学受験に果敢に挑戦している。
ラグビーをやりたかったが、中学受験に失敗し、進んだ公立中学にはラグビー部がなかったため、基礎体力を付けようと水泳部に入る。学力は優秀で学年では10番以内をキープしている。
しかし、徐々に勉強より、スポーツより、みんなでツルむことが楽しくなった。小学校の頃から優秀な成績はおさめたが、ケンカもめっぽう強かった。中学でも、ケンカは負け知らず。いつのまにか、花形選手のような存在になっていた。中3で、バイクを買うためにアルバイトを開始。母にはバレていたが、バイクを乗り回したりもした。
勉強はしていなかったが、学力には自信があったからだろう。
高校受験では、リベンジとばかりに早稲田、慶應を受けたが、それほど甘くなかった。それでも偏差値60以上のある私立高校に合格し、そちらに進んだが、登校したのは合計3日。夏には、退学届を提出した。
はちゃめちゃな行動と言えなくもないが、小宮にすれば行ってみてはじめて、高校に進んだことが意味のないことのように思えたのだろう。周りの生徒たちとも、馬が合わなかった。「中途半端に賢い奴ばっかりだった」と振り返っている。
学校を離れれば、自由の身である。それは自由であると同時に自律を余儀なくされることである。さて、小宮はこれからどんな人生を歩んでいくのだろうか。・・・。
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