in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏登場。
日本マクドナルドへ。
日本マクドナルドが銀座に華々しくオープンしたのは、1971年のことだから、丸山12歳の時である。丸山が住む神戸に出店するのは、まだずいぶんあとの話である。
この「日本マクドナルド」に丸山は就職することになる。「ナイトクラブでアルバイトしていたわけでしょ。ハンバーガーなど食べたこともなかった。ジャンクというか、ね。それでも給料がいいことは知っていたし、実は単位が足らなくて卒業見込証明書が出なかったんです。そんな状況だったから、とにかく卒業見込証明書が無くても採用してくれる太っ腹な会社を選んだわけです(笑)。まぁ、それが縁といえば縁でした」。
以来、23年間、丸山は日本マクドナルドの発展に貢献することになる。
藤田田氏というカリスマ経営者にも惹かれた。
直接会ったことは、それほど多くないが、期待もかけられた。
丸山は2001年から、アメリカ駐在員現地責任者として、アメリカ法人の副社長を務めている。藤田田氏が社長だから、社長と副社長の関係になったこともあるわけだ。薫風もうけた。
「日本マクドナルド」が外食のトップ企業に登りつめていくなかで、丸山はその最前線でがむしゃらにはたらいた。
「神戸を皮切りに大阪・岡山・広島・四国・大阪と転勤の連続で、とどめにアメリカにも行き、帰国の地が東京でした。マクドナルドのおかげでずいぶん勉強させていただきました」。
「ハンバーガー大学」では講師として教壇に立ったりもした。
小さい頃は、まさか日本マクドナルドに就職するとは思っていなかっただろうし、逆に入社してからは、そう簡単に退職するとも思っていなかっただろう。
ところが、日本マクドナルドを卒業する日がきた。
「簡単に言うならば、日本マクドナルドも世界のマクドナルドのFCの一つなんです。むろん、藤田さんがオーナーです。日本マクドナルドが、他国のマクドナルドに比べかなり自由に仕事ができたのは、藤田さんと米国マクドナルドの創業者が親密な関係であったこともありますが、実は、藤田田という大きな器に守られていたからなんです。しかし、私がアメリカに赴任した頃から、日本マクドナルドの業績に少し蔭りがみえはじめます。業績も悪化し、藤田さんが退任され、社長が代わります。八木さんが一時社長をされていましたが、日本マクドナルドが大きく変わっていくのは、原田さんが来られてからです」。・・・・・・つづく
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