本文より~
「パイロット」か「警察官」が、子どもの頃の夢。
生田が生まれたのは、福岡県北九州市。土日は、家族で「山口」の海に行ったというから、九州の入り口あたりということになるのだろう。変わり者で人気者だったそうだ。子どもの頃の夢は、パイロットか警察官。この頃の夢を覚えていたのだろうか、高校を卒業したのち、生田は一旦、白バイの隊員になるべく、真剣に勉強を開始している。
白バイ隊員をめざして。
テニス三昧の中・高時代が終わった。大学進学という手もあったが、生田は専門学校を選択した。高校2年の時、父が他界したことも多少は影響したのかもしれない。
ともかく生田は白バイ隊員になるべく公務員ビジネス専門学校に進学した。
親許を離れ、新聞配達所に住み込みではたらかせてもらった。朝配達を終え、学校に行き、夕方、もう一度、配達する。それで学費も、生活費もまかなった。
むろん、学校もちゃんといった。しかし、公務員試験は当時の倍率で24倍。毎回、面接で落とされてしまった。合計、4回。21歳になるまでチャレンジしたが、白バイとは、縁がなかった。
代わりに出会ったのが、ラーメンである。
ともかく生田は白バイ隊員になるべく公務員ビジネス専門学校に進学した。
親許を離れ、新聞配達所に住み込みではたらかせてもらった。朝配達を終え、学校に行き、夕方、もう一度、配達する。それで学費も、生活費もまかなった。
むろん、学校もちゃんといった。しかし、公務員試験は当時の倍率で24倍。毎回、面接で落とされてしまった。合計、4回。21歳になるまでチャレンジしたが、白バイとは、縁がなかった。
代わりに出会ったのが、ラーメンである。
19歳から始まったラーメン人生。
学生時代、生田は福岡の名店「一蘭」で、アルバイトを経験している。白バイ隊員が目標だから、あくまでアルバイトに過ぎなかったが、20歳でリーダーを任されるなど高く評価されていた。4度目の試験に落ちた生田は、社員になる決意を固める。むろん、「一蘭」は大歓迎。入社してからは、まさにエリート街道を突っ走る。
「一蘭」の東京進出といっしょに生田も上京。六本木店店長からエリアマネージャーへ昇格し、20代半ばで450人の部下を抱えるまでになった。
「450人でしょ。もう一杯一杯です。会話の内容を忘れないように、450人の部下との会話を毎回メモっていました。それが私の20代半ばの限界でした。しかし、会社は更に出店をつづけます。2001年にも出店がつづき、休みもまったく取れなくなりました。2002年になってようやく休みが取れ、9日間、ニューヨークに行ったんです」。
このニューヨーク旅行が、新たな旅の始まりとなる。
「一蘭」の東京進出といっしょに生田も上京。六本木店店長からエリアマネージャーへ昇格し、20代半ばで450人の部下を抱えるまでになった。
「450人でしょ。もう一杯一杯です。会話の内容を忘れないように、450人の部下との会話を毎回メモっていました。それが私の20代半ばの限界でした。しかし、会社は更に出店をつづけます。2001年にも出店がつづき、休みもまったく取れなくなりました。2002年になってようやく休みが取れ、9日間、ニューヨークに行ったんです」。
このニューヨーク旅行が、新たな旅の始まりとなる。
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