in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に四川料理の株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏登場。
本文より~
喘息と料理。
井桁は、1971年、千葉市で生まれる。高度成長時代の波に乗り、日本経済が世界を意識するようになった頃である。父は鉄工所に通うサラリーマン。母は、洋裁を仕事にしていた。2つ上の姉を合わせ、4人家族。小さな頃から料理番組が好きで「オイスターソースって?」と、調味料を知りたがる少年だったそうだ。
料理を作るのも好きで、小学4年生の文集には「野球選手かコック」と綴っている。実際、父や姉が何か食べたいといえば、井桁は喜んで鍋を使い、フライパンをふった。ただ、できるメニューはチャーハンか、インスタントラーメン。それでも、お客さんたちは「旨い」「旨い」と、我が家のシェフをほめたたえた。
この井桁家の小さなシェフは、当時、喘息を患っていた。一度、咳が出始めると朝まで止まらない。そんな夜も何度かあった。
「喘息とは長い付き合いですね。中学2年生ぐらいまで続きました。おまけにぼくは目が弱いんです。小学4年の検診で判ったんですが、左目が0.04。矯正しても治らないんです」。
喘息と、弱視というのだろうか、2つの病を抱えた少年。そんな少年がふるまう料理が、家族にとってまずいはずはないだろう。
ひたすら走って、走って。
「将来は、野球選手」といっているぐらいだから、からだを動かすことはキライではなかった。ただ、激しい運動はできない。それにもかかわらず中学生に上がった井桁は、自らのからだに挑戦するかのように陸上部に入部する。種目が長距離というのだから尚更、驚かされる。しかも、千葉でも有名な陸上が強い中学校だった。
「部は強かったんです。ぼくは弱かったけど」。井桁はあっさりそういう。それはそうだろう。喘息を抱え、走るのだ。
「辛くて、辛くてしかたなかった」とも。それでも井桁は駆け、そしてからだの弱さを克服していく。
「監督がとてもいい先生だったんです。市大会で記録を残されている先生でした。毎日、日記をつけ、先生と交換していました。ぼくが3年間続けられたのは、この先生のおかげです」。
「もっともぼくだけ特別扱いではありません。練習はおなじメニューです。週に100キロが基本で、休みの日以外で80キロしか走っていなかったら、1日で残りの20キロを走らなくてはならないんです。そういう辛い毎日でしたが、3年間続けられたのが、自信にも、財産にもなった気がします」。
3年かけ、駆け抜けたゴールには、「自信」という文字が刻まれていた。
四川料理の株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏