2013年6月26日水曜日

25日(火)、専修大学のヒーブ講座にて株式会社クレアの町田会長が講義されました。

昨日6月25日(火)、今年で30周年を迎えられた株式会社クレア町田典子会長が、専修大学のヒーブ講座にて講義されました。 
女性創業者で創業から30年間、代表でやり続けられる企業はそうは無い。
ましてや競争の激しい飲食業界で現在65店舗もの飲食店を運営されています。

なんとあの昭和の大スター石原裕次郎をテーマにしたカフェ&バーも運営されています。



 (株式会社クレアの町田典子会長)


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株式会社ナチュラ 代表取締役 河合倫伸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ナチュラ 代表取締役 河合倫伸氏登場。
本文より~

「坊主はモテねぇぞ」の一言で、バスケットボールへ転向。

姉と兄2人、兄弟はいまも仲がいいという。
両親は保険会社を経営。末っ子の河合の面倒は、姉と兄たちが良くみてくれた。河合を含め男兄弟3人は、スポーツが得意で、水泳選手だった長兄は小学生時代に選抜され、渡米までしているそうだ。次兄はサッカー。河合、本人は野球を選択した。
「ファーストとか、ピッチャー、キャッチャーもやったし、サードもしました。打順は5番。それなりに強いチームだったので、入学前から中学の野球部から特別扱いを受けていました」。
ところが長兄の一言で、野球を断念しバスケットボールに走る。野球部入部が既定路線だったこともあって、一時期、先生や顧問、監督などが騒然としたらしい。そんな騒動のきっかけとなったのは、「坊主はモテねぇぞ」の一言だった。
そんな経緯もあって、中学からはじめたバスケットボールだが、こちらでも頭角を表す。ただし、学校自体は弱く、大会で勝ち残るような成績を収めたことはない。もっとも河合は、選抜にも選ばれている。
なかなか勝てないうっぷんを晴らしたのは高校時代。県大会でも、つねに優秀な成績を残すことができた。
「たまたまなんです。ぼくらより1つ上ぐらいから、選手を集め始めたそうなんです。最初はそれを知らないもんだから、弱くはないけど、それほど練習もきつくない学校に入ったつもりでいたんです。でも、ぜんぜん違うんです。先生たちの目の色からして違いました。もう、唖然とするばかりです(笑)」。
「ぼくらが一応、最強の世代と言われるようになるんですが、試合前の練習から他のチームとはぜんぜん違います。190センチオーバーの選手がバンバンダンクを決めるんですから。そりゃ、相手チームは勝てる気がしなかったんじゃないですか。練習も厳しかった。それに、ケガをしないようにバスケット部員は、体育祭にも出られないし、海水浴に行くのも許されなかったんです(笑)。正直いうと、何度も辞めさせてくれって思いました。でも、いま振り返ると、あの時のことがあるから、たいていのことにビビらずに喰らいついていけるんだと思います。『しんどい』ことでも、たいてい平気ですから」。

スポーツトレーナーをめざして。

「でも、もう一度、あれをやれ、って言われても絶対できません(笑)。体罰ってあるでしょ。やっていいかどうかは別にして。ぼくらの時代はあたりまえでした。ぼくなんか、体育館の端から端まで、下がりながらピンタを喰らいつづけたこともあるぐらいです。それでも好きだからできていたんでしょうね。でも、実は、最後の最後で、部も、学校も辞めることになるんです」。
卒業まで残すところあと半年。友人らと駅のホームにいたところ人違いで同じ高校生から文句を言われた。相手は人違いに気づかず殴ってくる。ケンカにならないほうが不思議なシチュエーションだった。しかし、罰則を受けたのはこちら。部も辞めさせられ、学校も退学。推薦で決まっていた大学の話もパーになる。
処分が下ってから問題の発端が相手だったことも分かったが、文字通り後の祭り。他校に編入し、高校は無事卒業できたが、もう進める大学もない。そこで、河合は声をかけてくれたスポーツ専門学校に進学することになる。
その学校には、当時、もっとも有名なスポーツトレーナーも講師として在籍していた。そういう講師陣からも刺激を受け、河合自身も在学中からフリーのスポーツトレーナーとして、著名な格闘家のトレーナーを務めていたそうだ。名前はだせないが、TVにも何度も登場するような選手だった。
卒業後は、精神病院に勤務した。重度の精神病患者を相手にトレーニングを行っていたそうだ。1年契約。契約終了後に、一本の電話がかかってきた。・・・・続き
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株式会社稲田屋本店 代表取締役社長 梅原俊治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社稲田屋本店 代表取締役社長 梅原俊治氏登場。
本文より~

鳥取県、山間の村で。

長兄はいまもそちらにお住まいらしい。そちらというのは、今回、ご登場いただく「稲田屋本店」、代表取締役社長、梅原俊治の実家。住所は「鳥取県西伯郡南部町御内谷」となる。米子駅から車でわずか40分らしいが、地図で確認してみるとたしかに閑散とした山奥である。「40軒程度の集落だった」と梅原は語っている。
梅原家は、この山間の村の地主であるとともに、明治初年からつづく「梅原酒造」の蔵元でもあった。ところが戦後、食料米が不足するなかで、「酒米を食料米に」という時の政府が発令した企業整備法により、5~6軒の酒蔵が1つに集約され、「梅原酒造」は姿を消すことになる。
むろん梅原は、当時の様子を知らない。終戦の時にはまだ3歳に過ぎない梅原である。戦後の食糧難の時代も、それを当然のように受け入れ育った年代。明治生まれの母の躾はきびしく、教育にも熱心だったそうだ。とはいえ、豊かな自然に囲まれ、山も川も少年にとっては、かっこうの遊び相手。机に向かってばかりはいられない。
「当時は、鰻もいたんですね。鰻を獲って帰ると母親がほめてくれるから、がんばって獲った記憶があります。松茸も、秋にはよく採れました。こちらも採って帰ると母が喜んでくれるんです」。
夏は川に潜り、秋には山に入る。
自然が持つ脅威も学びながら、少年、梅原はこの山間の村で大きくなっていった。

12歳離れた兄。

梅原は、7人兄弟の6番目で5男坊である。長兄とは12歳離れている。梅原が小学校高学年にもなれば、長兄はもう20歳。その長兄や姉は、戦後、父が米子に出店した酒屋を手伝うようになっていた。
この長兄も含め、上の兄姉全員が「米子東高校」に進学。「米子東高校は県内でも有数の進学校だったんです。でも、私と言えばあまり勉強もせず、山や川を相手の毎日だったんで進学前には結構、焦りました(笑)。兄たちがみんなそこだから、私一人違う学校に行くこともできないでしょ。結果的には、なんとか滑り込むことができました」。
「高校時代の思い出というのは、この齢になるとだんだん薄れてくるんですが、父親が畑仕事もしていたものですから、そちらの手伝いもありましたし、米子の店も手伝っていましたから、早くから商売というのを観てきた気もします。大学ですか? 大学は『早稲田』に進みました。長兄が行きたくても家業の関係で大学へ行けなかったものですから、『かたき討ち』だと受験したんです」。
「最初は、私1人で東京に行く予定でしたが、上京する段になって当時家業を手伝っていた3男の兄も『いっしょに行く』と言い出しました。それで2人して、大都会『東京』に出てくるんです。彼もがんばって、現在日本蕎麦屋さん向けの食材商社「日辰」を経営しています。のちに今回の話にも登場します」。
奨学金をもらう一方で、ガソリンスタンドのバイトもした。家庭教師もした。長兄からも仕送りをもらった。離れて、いっそう兄弟のきずなはつよく結ばれていった。・・・つづき
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2013年6月21日金曜日

19日、第3回目の『海外展開フードビジネス企業説明&就職面談会』を実施しました。

19日、 “世界で勝負できるニッポンの産業はフードビジネスだ!!”と銘打った企業説明&就職面談会』を実施しました。
応募に来ていただく人数と意識の高い方が増えています。
好評につき、第4回(8月27日)、第5回(10月23日)、第6回(12月3日)と継続してやっていきます。

 “世界で勝負できるニッポンの産業はフードビジネスだ!!”






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2013年6月18日火曜日

株式会社アールズカンパニー&有限会社アールズダイニング 代表取締役社長 土田良治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にらーめん専門店いちや”の株式会社アールズカンパニー&有限会社アールズダイニング 代表取締役社長 土田良治氏登場。
本文より~

父と子と。

父親が、尋常ではなく厳しかった。小学校時代、父親がコーチをしている野球チームの試合に土田のエラーが原因で負けると息子の土田はもちろんチームメイト全員を殴ったそうである。男気がありすぎたとも言えるが、父の陰で息子の土田は小さくなるほかなかった。
土田自身も、喧嘩っぱやい。問題も起こしている。悪いことはたいていやった。中学時代には既に400ccの単車をころがし暴走族にも入っていた。
それでもあれほど厳しかった父親は学校にも行かず、行けば先生を殴って問題を起こす少年に一言も文句を言わなかった。「ある時、改造バイクを家に止めていたら、親父が近寄ってきて鍵を貸せと。そんなに楽しいのかと一言いうとそのままステテコ姿、足元は裸足に雪駄のまんま爆音を響かせ乗っていくんです。あの時は、凄いなと初めて尊敬しました(笑)」。親父と息子、血筋は争えない。しかし、土田には反面教師といえる父親がいたことが幸いした。

不良というレッテル。

土田が生まれたのは、1967年。福井市出身である。3つ違いの兄がいる。家庭のなかでは父親は絶対的な存在で、子どもたちは父の機嫌をうかがいながら暮らしていたそうだ。元々口数の少ない父親は母親はもちろん私達子供にも容赦なく鉄拳を振り下ろした。もちろん自分が気に入らなければ近所の人間であれ親戚であれ同じで彼を止められる人間は誰もいなかった。小学5年生に上がるまで殆ど父親と口を聞く事がなく時折話さなければの時は常に敬語を使っていたというから驚かされる。
もともと幼少期は大人しいタイプだったが、野球をやるようになってから「活発さ」が出てきたようだ。ただ、野球では、辛い思い出もある。
「小学生時代福井市の大会でした。開会式の入場行進でぼく独りだけ体操服だったんです。そのとき父は欲しいのなら自分で働いて買えと。まだ小学生の子供にですよ?母や祖母にすがって泣いたのを覚えています。しかしいくら泣いても父が言う事が絶対の家でしたから・・。しょうがなくユニフォームが欲しくて新聞配達を始めるんです」。
「中2ぐらいからは、野球もおざなりになりいわゆる非行の道に走るんですね。(笑)今度は僕が手を付けられなくなるんです」。
タバコ、シンナーは当たり前、喧嘩もカツアゲもした。中3の時には既にでバイクや車に乗っていた。悪いと思うことは率先してやったという。きっと父親への逆襲だったのだろう。16、7歳になると父親と同じ背格好になり、やれば勝てる気がしていたが父親に手を上げた事だけはないという。「何故か自分の中の絶対が壊れるのが嫌だったんでしょうね(笑)」近所でも学校でもどんどん不良というレッテルが貼られる。貼られれば貼られるだけ悪い気はしなかった。俺はここに存在している、そして表現しているような錯覚に酔っていたのかもしれない。・・・・続く

株式会社アールズカンパニー&有限会社アールズダイニング 代表取締役社長 土田良治氏
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四川料理の株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に四川料理の株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏登場。
本文より~

喘息と料理。

井桁は、1971年、千葉市で生まれる。高度成長時代の波に乗り、日本経済が世界を意識するようになった頃である。父は鉄工所に通うサラリーマン。母は、洋裁を仕事にしていた。2つ上の姉を合わせ、4人家族。小さな頃から料理番組が好きで「オイスターソースって?」と、調味料を知りたがる少年だったそうだ。
料理を作るのも好きで、小学4年生の文集には「野球選手かコック」と綴っている。実際、父や姉が何か食べたいといえば、井桁は喜んで鍋を使い、フライパンをふった。ただ、できるメニューはチャーハンか、インスタントラーメン。それでも、お客さんたちは「旨い」「旨い」と、我が家のシェフをほめたたえた。
この井桁家の小さなシェフは、当時、喘息を患っていた。一度、咳が出始めると朝まで止まらない。そんな夜も何度かあった。
「喘息とは長い付き合いですね。中学2年生ぐらいまで続きました。おまけにぼくは目が弱いんです。小学4年の検診で判ったんですが、左目が0.04。矯正しても治らないんです」。
喘息と、弱視というのだろうか、2つの病を抱えた少年。そんな少年がふるまう料理が、家族にとってまずいはずはないだろう。

ひたすら走って、走って。

「将来は、野球選手」といっているぐらいだから、からだを動かすことはキライではなかった。ただ、激しい運動はできない。それにもかかわらず中学生に上がった井桁は、自らのからだに挑戦するかのように陸上部に入部する。種目が長距離というのだから尚更、驚かされる。しかも、千葉でも有名な陸上が強い中学校だった。
「部は強かったんです。ぼくは弱かったけど」。井桁はあっさりそういう。それはそうだろう。喘息を抱え、走るのだ。
「辛くて、辛くてしかたなかった」とも。それでも井桁は駆け、そしてからだの弱さを克服していく。
「監督がとてもいい先生だったんです。市大会で記録を残されている先生でした。毎日、日記をつけ、先生と交換していました。ぼくが3年間続けられたのは、この先生のおかげです」。
「もっともぼくだけ特別扱いではありません。練習はおなじメニューです。週に100キロが基本で、休みの日以外で80キロしか走っていなかったら、1日で残りの20キロを走らなくてはならないんです。そういう辛い毎日でしたが、3年間続けられたのが、自信にも、財産にもなった気がします」。
3年かけ、駆け抜けたゴールには、「自信」という文字が刻まれていた。

四川料理の株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏
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2013年6月17日月曜日

映画「奇跡のリンゴ」を観ました。おもしろかった!!

昨日、映画「奇跡のリンゴ」を観ました。

会社やってるからわかりますが、改めて夢を持ち、自分を信じて“あきらめない”という気持ちの大事がわかりました。
なんでも、そんなにすぐうまくいくことはありません。
本当に苦労の連続で、資金的なしんどさは経営してる人しかわかりません。
でも苦労や失敗経験は成功への道しるべとなります。
是非一度観られることをお奨めします。



2013年6月13日木曜日

継続して実施することの大切さ。

6月19日(水)に実施する 『海外展開フードビジネス企業説明&就職面談会』も今回で第3回目になります。
なんと今回はもう既に予定定員数を軽くオーバーしています。
海外で働きたい夢を持った若者が多いのにビックリしました。


第4回目は8月、そして第5回目を10月と今後偶数月に実施し、コツコツ実績を積み上げています。
“飲食の戦士たち”もそうですが、継続こそチカラですね。
海外進出の企業様のお役に立てるように、また海外で働きたい方の夢を実現させたいと思います。
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2013年6月11日火曜日

“麻布十番モンタボー”&“元町珈琲”の 株式会社スイートスタイル 代表取締役社長 若月光博氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“麻布十番モンタボー”&“元町珈琲”の 株式会社スイートスタイル 代表取締役社長 若月光博氏登場。
本文より~

文武両道の少年。

静岡県はサッカーが強い。「習慣みたいなもの」。サッカーをはじめた理由を問うと、若月はそう言って笑う。
サッカーに熱中し、ボールを追いかけながらも成績はオール5。文武両道だったから、とにかく女の子にも人気だったそうである。
サッカーから野球に転向したのは、小学5年生の時。「小学5年生の時に野球クラブができて、仲がいい子がみんなそちらに移ったものですから、私もいっしょに野球に転向しました」。
それ以来、高校の一時期をのぞいて若月は野球に没頭することになる。サッカーから野球に転向したが、社会人になるまで文武両道は若月の代名詞だった。

本質を見抜く、鋭いセンス。

野球に没頭したが、闇雲にボールを追いかけていただけではない。「文武両道」ならではのエピソードもある。中学時代の話である。
「うちの学校は弱かったんです。だから、ほかよりも2倍は練習していました。しかし、いっこうにうまくならない。それで時間の無駄だと思って、私はマネジメントに徹するんです。練習の効率アップに取り組み、あまった時間を利用して部員同士のコミュニケーションを図り、イメージトレーニングも行いました。その結果、いままで負けていたチームにも勝つようになっていくんです」。
「練習」そのものを目的化せず、「勝つ」ことを目的に定め、プロセス、つまりここでは練習の内容を再構築したことが、好結果につながったことはいうまでもない。ただ、このマネジメントを中学生が行った。その点に驚かされる。
学業のほうでも、若月はただ机にかじりついていたわけではない。
「野球に没頭していたもんですから、勉強の時間もない。宿題もせずにバタンキュウです。だから、代わりに朝早く起きて勉強するクセをつけました。英語は歩きながら。授業では、ノートも取らない。数学でも、計算より数式の意味を理解することに重きを置きました」。本質を理解する。この勉強方法にも頭が下がる思いがする。
与えられたことをこなすのに終始するのではなく、自ら本質に迫り、取捨選択し、実践する。アッパレな中学生だ。この中学時代、どちらでもいい話だが、体重も30キロ増えている。・・・・続く

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“ラーメン大”の株式会社フューチャーファクトリー 清水照久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“ラーメン大”の株式会社フューチャーファクトリー 清水照久氏登場。
本文より~

少年、清水がみた魔法使いたち。

清水が生まれたのは1961年。戦後の復興の足音が高らかに響き渡る頃だ。といっても、清水が生まれたのは鳥取県。父親の転勤、転職に伴い広島や島根にも住むことになる。
料理人、清水の原点は母方の実家にある。「母親の実家は何百年も続く、老舗の旅館だったんです。小学生になってまとまった休みが取れるようになると、その度に泊まっていました。当時の楽しみがその旅館の『厨房』だったんです。板前さんたちの凛とした立ち振る舞いはもちろんのことですが、子どもの私には、彼らが魔法使いのように思えました。野菜や魚が、みたこともないうつくしい姿に生まれかわるのですから」。
少年清水は、料理が出来上がるたびに目を丸くした。これが、料理人清水の原風景ともいえるものだ。

3メートル超のそら高く。

父母からは「勉強しろ」とよく言われたが、勉強は得意な方ではなかった。代わりに運動は、群を抜いていた。
「勉強はしないから、得意になるわけもないですよね。でもね。スポーツは好きで、そこそこの成績をおさめました。中学から始めた棒高跳びでは、市大会で優勝しています。もっとも県では3位。記録は3メートル20センチでした」。
3メートル20センチ。想像してみて、うえをみあげた。ビルでいえば、2階まで軽々、届くような高さである。
「もともとは水泳部に入ったんです。でもある日、陸上部の選手が棒高跳びの練習をしているのをみてやってみたくなったんです」。
「棒高跳びは、ジャンプ力があればいいという単純なスポーツではありません。助走のスピードがあればいいというわけでもないんです。当時からグラスファイバーを使っていましたが、あの棒がしなって、そら高くほうり上げてくれる、そのタイミングが難しいんですね」。その難しさにハマったのだろうか。
空中高く舞い上がる、たしかに気持ち良さそうだ。・・・続く

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2013年6月4日火曜日

静岡県下田にキイストン幹部1泊研修に・・・。

キイストンの幹部クラスの3人を人間力アップのため研修に行かせました。
自然に触れ、今まで以上の気づき・感謝の気持ちが芽生えたかも・・・。
皆が成長すれば会社も成長する。


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「大阪焼肉ホルモン ふたご」の株式会社ふたご 代表取締役社長 李 純哲氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 「大阪焼肉ホルモン ふたご」の株式会社ふたご 代表取締役社長 李 純哲氏登場。
本文より~

1億円の右足。

李が生まれたのは、大阪の鶴橋である。鶴橋は、焼肉や韓国料理のメッカで、JR鶴橋駅を降りるといい匂いが鼻をつく。在日韓国人も多く、韓国料理の店も少なくない。李が育つのは、鶴橋から少し離れた大東市の住道という町だった。
李には、8つ離れた兄と2つ違いの姉、そしてもう1人、双子の弟がいる。父の薫風もあるのだろう。双子の兄弟は、運動神経が抜きんでていた。
「ベンジョンソンがつま先で歩いていたという話をどっかで仕入れてきたんやと思いますが、おれら2人は、かかとに画びょうを刺した靴を履かされていました。こうすると、つま先で歩かなしゃぁないでしょ。もう、巨人の星みたいな話ですわ」。
「せやけど、この話には続きがあって、ある時、この画びょうが刺さって血がでたわけです。それで、うちのおかんが知ることになって。『だれが洗濯すると思うてんねん』って怒りだしました。これで、救われたと思ったんですが、画びょうが、ゴルフのピンにかわっただけでした(笑)」。
そういう薫風?もあり、2人ははじめたばかりのサッカーでみるみる頭角を表していく。「肉もガツガツ食うてたから背も高かったんです。2人でツートップやっていました。そうですね。小学生の頃は、負けた記憶がぜんぜんあらへんのです」。
「1億円の右足」とも言われたそうだ。「中学から、ブラジルへ」という育成計画も組まれていたそうだ。
そういう昔話を語ると、「ほんまかいな」と疑う奴がいるそうだ。
「それで、この間、大阪帰って写真撮ってきたんですわ」と1枚の写真をみせられた。 それをみてたまげた。トロフィーが60個ぐらい映っている。それでも、「小学生の時だけのもの」とのこと。「1億円の右足」と言われていたことにも、素直に頷けるようになった。 続く・・・。↓

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