2013年7月2日火曜日

有限会社ちばき屋 代表取締役社長 千葉憲二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社ちばき屋 代表取締役社長 千葉憲二氏登場。
本文より~

「一風堂」VS「ちばき屋」

「一風堂の河原を破るのは、ちばき屋の千葉しかいない」。そんな前評判のなか、千葉は最後の対決を迎えた。むろん、決勝戦。前評判通り、ここまで勝ち残ったのは「一風堂」の河原氏と千葉だった。
「いいわけはいいたかねぇんだけど、あの時、熱があったんだよな。39度も」と千葉は対決の時を振り返る。熱はあっても、料理人の矜持。苦しいそぶりもみせない。「ディレクターがさ、和食の料理人というのを出したかったんだろうな。そういうのがあったからオレは、鯛でだしをとったラーメンで勝負したんだ。負けねぇと思っていたんだけど、審査員の中尾彬さんが、『これラーメンって呼べるのかね』って。あの一言で勝負が決まっちまった。2対1でオレの負け(笑)」。
負けても相手が河原氏だから、許せた。
「そのあと河原さんから、食事でもって誘われたんだ。気が合ったね。あの男はさ、俺より一つ下なんだけど、もう何軒も店を持っていたわけよ。でもね。ぜんぜん、そんな話はしないの。するのは一杯のラーメンについて。いい男だな、と思ったね。」。
その対決からもう何年も経つ。だが、2人の関係はいまだ続いている。互いを意識しつつ、互いをリスペクトしている。
「向こうに比べたらうちは店の数もぜんぜんだろ。なのに、千葉ちゃんなんて言ってくれるんです」。
この事実が「千葉憲二」という男を物語っている。名声も、地位も、富も、一杯のラーメンには敵わないことも。

7歳の時に父が他界。

千葉が生まれたのは、宮城県の気仙沼。父は、水産関係の仲買卸をしていた。千葉は4人兄弟の末っ子で、父から兄姉たちが嫉妬するほど可愛がられた。「いちばんオレと一緒にいるのが少ないのが、憲二だから」というのが父の言い分だった。
「もともとうちの父は、満州鉄道で職業野球の選手だったんですよ。戦後、プロ野球が生まれた時には、プロ野球選手にという話もあったそうなんですが、祖父のあとをつがなきゃいけないんで、泣く泣くだと思いますが、プロは断念したみたいなんです」。
「そういう時代だった」とも千葉。そんな父とはキャッチボールも楽しんだ。旅行にも連れられた。
「母に『ちょっと行ってくる』と言って列車に乗り、何時間もかけて早慶戦を観に行ったこともあるし、旅館で芸者にダッコされていた気もする。オレの父はいい男だったんだ。映画俳優みたいだったもの。まぁ、芸者さんにももてたんじゃねぇかな(笑)」。
そんな最愛の父が7歳の時になくなった。
それでも、7歳までの記憶が焼付いている。その記憶が千葉の生きかたを決めてきた気がする。
「父がいなくなっても母が会社を切り盛りし、オレたち兄姉は路頭に迷うことなく、育てられた。でも、母一人でしょ。がんばる母をみて、オレもがんばらなきゃ、って何べんも思ったね」。・・・・続き

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