2013年7月2日火曜日

株式会社CANVAS 代表取締役社長 本間保憲氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社CANVAS 代表取締役社長 本間保憲氏登場。
本文より~

変化を感じ取った日々を送る。

海軍のレーダー技師だった本間の祖父は、あの戦艦大和にも搭乗したことがあるそうだ。戦後、復員した祖父は山形で「本間ラジオ」という電器店を開業。母は箱入り娘で、絵に描いたような裕福な家庭だったそうである。
しかし、昭和50年、本間が10歳の時に酒田市を大火が襲い電器店も全焼。跡地に100坪5階建のビルを建設したが、投資が負担になり、次第に経営が厳しくなる。大手が進出し、町の電器店の経営が構造的に不振に陥っていた頃に、思い切った投資したのが響いたようだ。
「結局、家も土地も売却することになってしまった」と本間。
まだ小学高学年だった本間に、すべてがわかるわけもなかったが、家庭内の空気がいっぺん。空気の変化は、敏感に感じ取っていた。
「それまでは、甘やかされて育ちました。私は勉強も良くできた優等生でした」。ところが、家庭内の空気がかわると、本間にもトゲがでてくるようになる。
家庭でも、学校でも衝突することが増えたのではないか。

フレンチレストランにて修業。

中学生の頃からバイトに精を出した。新聞配達をメインに、スーパーのお惣菜コーナーではたらいたこともある。
「いま思えば、これも一つの反抗だったんだと思います。『だれが食べさせてやっているんだ』という父に、それなら、と。そうですね。その時から、親にお金を無心したことは一度もありません」。
新聞配達は3年間続けている。いうのはたやすいが、どれだけの忍耐力がいるかは想像できる。しかし、少年の矜持は、親に頼ることを拒みつづけた。
しかし、さすがに高校も中退となると親の意見も聞かざるをえなかったのだろう。言われるまま、父の知り合いがオーナーのフレンチレストランに就職。せめて「手に職を」という父の意志に従った。
2年半、このレストランで料理のイロハを叩きこまれた。
悪友とは縁が切れた。「なにしろ朝8時~夜11時までの仕事です。それでいて手取り7万円。カネも、ヒマもない。からだもつかれているから、バイクに乗る気もしません(笑)。そんな毎日にイヤ気がさしたわけではないんですが、2年半後、退職。簡単にいえば、逃げ出してしまったわけです」。
ただし、この2年半は、その後に大きな意味を持つことになる。ちなみにこのレストランは岩手でも1、2を争う有名で、関東圏からもお客さまがみえられたそうだ。・・・続き
株式会社CANVAS 代表取締役社長 本間保憲氏


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