2013年8月14日水曜日

株式会社ピーターパン 代表取締役 横手和彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ピーターパン 代表取締役 横手和彦氏登場。
本文より~

瀬戸内海に浮かぶ小さな島の話。

全国でも上位に上げられるほどの過疎地。人口1万人、現在は小・中学校ともに1つだけ。そういって横手は生まれ故郷について話しだす。
横手がその島に住んでいたのは、もう50年も前の話である。
「だんだん畑で、ミカンを作っていました。いまは広島県の呉市になっていますが、瀬戸内海に浮かぶ小さな島です。私は7人姉弟の末っ子で長男です。いちばん上とは18歳も離れていて、私が小学生になると姉が教壇に立って教えていました(笑)」。
家族も多かったが、本家でもある横手の家の暮らしは、不自由ではなかった。ところが、戦前、祖父が娘婿の保証人となり、状況がいっぺん。すべての財産を投げ出しても、借財は「0」にならなかった。
「幸いというか、戦後、強烈なインフレが起こるんですね。インフレになると貨幣の価値が低くなります。あのおかげで、うちの借金も相対的に低くなり、ようやく返済できるようになるんです」。
これはむろんあとから聞いた話。太平洋戦争の終戦は、横手が2歳の時、つまり1945年のことである。
ところで、高台のミカン畑から、青い空とおだやかな瀬戸内海を見下ろす。想像しただけで気持ちいい風景が広がるのだが、そこで暮らしている人にとっては、見慣れた田舎の生活シーンの一コマに過ぎないのだろう。
少年は山を駆け、海に潜りたくましくなり、そして高校進学と同時に島を離れた。愛媛県にある高校に通うためである。この時、はじめて独り暮らしも経験している。

500万円持って、上京。

「末っ子でしたが上が全部女なんで、小さい頃から跡取りと言われて育ちました。『いるものも、いらないものもぜんぶ、おまえのもんになる』と。いるものと言ったら財産で、いらないものは負債というか、マイナスの財産ですよね。そういう風に言われていたもんですから、『どうせ、おれのもんになるのなら先にもらっておくか』と。それで、家から500万円(当時、大卒の初任給が4万円の時代である)を頂戴して、上京するわけです」。
「東京に出て一旗、あげる。そういう志ですが、田舎を逃げだしたかったというのも、本心です」。
24歳。上京して「バーテンダー」の見習いなどを始める。26歳、店に中学の同級生がひょっこり顔を出す。それがきっかけで結婚。結婚したことも勇気のひとつとなり、青山に「レストランクラブ ぎんなん」をオープンすることになる。
小さなクラブだったが、成功した。店は流行り、2年後には、自宅を新築するまでになる。29歳、子どももでき、公私ともに絶好調だったある日のことである。 ・・・続き
株式会社ピーターパン 代表取締役 横手和彦氏
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