2013年8月20日火曜日

株式会社レプハウス 代表取締役 堀口康弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社レプハウス 代表取締役 堀口康弘氏登場。
本文より~

ピカソに魅せられた少年。

絵を描くのが好きだった。小学3年生の時、県のコンクールに入選した。美術教室に飾ってあったピカソの絵に触発され「画家という職業」を意識しはじめたのは、中学生の時。高校1年で、「芸大」に進むことを決意。夏休みには東京の親戚宅で寝泊まりし、芸大・美大受験予備校の夏期講習に通い詰めた。めざすは最難関の「国立東京芸術大学」。父は四男坊のために金を工面し応援した。だが、「東京芸大」のなかでも堀口が受験した油絵学科の競争率は約50倍。ライバルは、全員、才能にあふれた画家の卵たちである。
高校時代の3年間は夏休みのたびに東京に向かい、予備校に通った。それでも願いかなわず、1年目は失敗。もう一度、と再チャレンジするものの、芸術系大学では唯一の国立で、日本最高峰の芸術系大学である。予備校時代にはコンクールで上位を何度も獲得した堀口にとってもハードルは高かった。挫折。そこから堀口の新たな人生がスタートする。

堀口家の話。

堀口は1955年、佐賀市で鉄工所を営む父の下に4男坊として生まれた。「男5人兄弟の4番目です。全員、3歳ずつ離れていたものですから、入れ替わり立ち替わり中学に進んでいくわけです。兄が卒業し、弟が入る。そういう感じでしたから、先生も3年ごとにお前が堀口の弟かと(笑)」。しかし、4番目の堀口は、3番目までの堀口と少し違っていた。たしかに兄たち同様、テニス部に入りキャプテンも務めるのだが、その一方で4番目の堀口には、あふれんばかりの「絵」の才能があった。テニス部に所属しながらも絵を描きつづける。
一方、家庭のほうは、いつもにぎやかだった。幼少の頃は、家業も順調。船を貸し切るなど年2回は社員旅行も行われていた。堀口は「子どもでも『堀口』と言えばタクシーに乗れたほど」と当時の裕福な暮らしぶりを語っている。だが、堀口が小学校に上がってしばらくして、業績に陰りが見え始める。長男が大学に進学する頃には業績は目に見えて悪化し、秀才と言われた兄が進学を断念するまでになった。・・・・
http://in-shoku.info/foodfighters/vol385.html
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