in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社船橋屋 代表取締役 渡辺雅司氏登場。
本文より~
武士も、町民も、舌鼓を打った「くず餅」の話。
江戸文化2年、1805年に「船橋屋」は創業する。以来、200年以上の歴史を「くず餅」ひと筋に研鑽をかさね、いまに至るそうだ。
200年を超える歴史と聞けば、たしかに驚かされるが、さすがに文化2年と聞いてもイメージがわかない。調べてみたところ、将軍は11代徳川家斉。文化人では杉田玄白や伊能忠敬らの名前が出てきた。
この文化2年に生まれた「船橋屋」。創業の地は、いまの江東区亀戸3丁目、「亀戸天神」のすぐ側である。
ホームページに創業当時の様子が書かれているので抜粋する。
<初代の勘助の出身地は下総国(千葉県北部)の船橋で、当時、下総国は良質な小麦の産地でした。勘助は、亀戸天神が梅や藤の季節に参拝客でにぎわうのを見て上京し、湯で練った小麦澱粉をせいろで蒸し、黒蜜きな粉をかけて餅を作り上げました。それがまたたく間に参拝客の垂涎の的となり、いつしか『くず餅』と名づけられ…江戸の名物の一つに数えられる程の評判をとりました。>
続いて、明治初頭に出たかわら版「大江戸風流くらべ」において<江戸甘いもの屋番付に『亀戸くず餅・船橋屋』が横綱としてランクされた>とも記されている。
近年になっても本店には、芥川龍之介、永井荷風、吉川英治ら文化人がしばしば足を運んだそうだ。
さて、現在の「船橋屋」は、「亀戸天神前本店」のほか4店舗(季節限定営業店舗も含む)を擁し、百貨店などに15の売店を構えている。東京都内が中心だがオンラインショップもあるので全国から購入可能だ。
この、現代の「船橋屋」を統率しているのが、今回、ご登場いただく渡辺雅司氏である。歴史が長い分、前置きもまた長くなってしまった。では、いつも通り渡辺氏の足跡を振り返り、老舗中の老舗のいまを追いかけてみよう。
中学までの渡辺
渡辺は1964年2月16日、東京都江東区亀戸に生まれる。父親は、慶應大学卒の元証券マン。5人兄弟の次男で、婿養子として「船橋屋」に入っている。
「父はまじめな性格の人で、何より厳しかった。ふつう、私たちのような老舗では店と住まいが一つになっているんですが、それでは私が店の者に甘やかされると、店を離れ、私が小学6年生までは千葉県の船橋市に住んでいました」。
昔のことなので、亀戸もいまとは違うが、船橋はいっそう自然に囲まれていた。渡辺もまた、「毎日、田んぼを駆けまわっていた」そうである。
当時の自己評価は、ガキ大将。スポーツが得意で、地元軟式野球クラブに所属していたそうだ。
もちろん、勉強もできなくはなかった。しかし、勉強は二の次というのが正直なところ。だから、中学に上がるなり、現実を見せつけられた。
「妹がぜんそくだったこともあって、中学に上がるときから、妹の学校が至近にある麹町で暮らしはじめたんです。中学は麹町中学校。当時から公立でも有数の進学校で、わざわざ越境してくる生徒がいたほどなんです」。
そんな進学校に千葉の田舎の少年が1人紛れ込んだ。結果はすぐに表れた。
「中学になると試験の成績が発表されるでしょ。最初の中間テストで、330位中306位だったんです(笑)。これには、父も驚きました」。
「さっきも言ったように、父は婿養子で、祖父も実は婿養子だったんです。私が、店と離れた船橋や麹町で育ったのも、ボンボンに育ってはかなわないと思っていたからなんです。しかし、そんな風に育てた息子が、330位中306位を取ってきたもんですから、もう放っておけないと思ったんでしょう。父自ら、仕事の合間を縫って私の勉強をみるようになるんです。一方、私のほうといえば冷静で、周りの大部分が中学受験をしていたような連中ですから、最初は負けても仕方ないと思っていました。何しろ、こっちは勉強らしいことをいっさいしてこなかったんですから」。
結局、3年生の時には、その進学校で26位まで這い上がった。
「やれば、できる」という教訓を得たのはこの時。
「成績が上がれば、先生も可愛がってくださって。調子に乗って、在学中はほとんど勉強していました」と笑うまで勉強も好きになった。・・・・続き