2013年10月31日木曜日

10月30日(水)、母校の大学で学生向けライブトーク講演。

自分の母校(名古屋学院大学)の学生に、少しでも夢・希望を与えるきっかけになればと昨年に続き講演させていただきました。
※ゼミでの講義を入れると3年連続です。
 (名古屋・熱田区白鳥校にて)
 髪の毛切りすぎました(笑)
若い方と話すのは楽しいな。
私も20歳のころはいろいろやってたな・・・・。

若さゆえ、もっと夢を持たないと現実にならないよ。
またもっと失敗しても行動しないと人生に幅がなくなるよ。

京北(K)、活性化(K)、部長(B)を取りKKB48が発足しました。

10月29日(火)は、実家ある京都・京北(右京区)に、KKB48の打ち合わせに行きました。
この京北地域は、右京区の北部に位置し、総面積はなんと大阪市と同じ面積くらいです。

ただ、人口は昭和30年は1万人超えてましたが、今では5000人強と過疎化が進んでいます(涙)
そこで、このKKB48が誕生し、京北(K)、活性化(K)、部長(B)となった訳です。
まあ、京都・京北の営業部長ですね。


“花降る里けいほく”を掲げており、
磨き丸太は京都市全体の42%のシェア。
御杣御料として守られた森に、
天然記念物指定地域「伏条大杉群(http://www.geocities.jp/ayumukai96/report/081116.htm)などあります。

また、農業生産額は年間6億3000万円(うち鹿や猪による作物被害5600万円)ですが、
農家の6次産業化も進みだし、道の駅のウッディー京北はこの数年で大幅売上アップしてます。
資源発掘事業の取組、環境モデル都市の実践、京都市の新エネルギー政策なども進みそうなんで

故郷の発展のために応援していきます。

株式会社ロックウェル 代表取締役 中野光宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ロックウェル 代表取締役 中野光宏氏登場。
本文より~

横浜市、生まれ。

中野は1974年、横浜市港南区に生まれる。中野家の長男で、2つ離れた弟がいる。小学4年生で塾通いをはじめ、学力がアップ。
中学からは体育教師でもある父の影響を受け、柔道を始めている。当時は、子ども達の数も多く、中野が通う中学では1学年に10クラスもあったそうだ。
そんな生徒数が多いなかでも、中野の成績も悪くはなく、スポーツもできた。横浜でも中堅クラスを超える高校に進学している。
「高校に進学してから、引越屋のバイトを始めました。浪人時代も最初はおなじバイトをしていたんですが、当時はバブルです。人手不足で…。このまま、言うことを聞いていたら引越屋になってしまう。そういう危機感を感じて(笑)、今度はカラオケ店でバイトするんですが…」。
ある意味、この選択が、中野の人生の、ターニングポイントとなる。

14坪のバー。

カラオケ店ではスグに頭角を現した。オーナーに引っこ抜かれ、店長になる。中野がマネージャーになると、店の売上は拡大した。大学受験は、完全にあきらめた。そんなとき、小・中がいっしょの、とある学生から声をかけられた。
「いまも親交があるんですが、サンクチュアリ出版の生みの親で『高橋 歩』という人物です。当時、彼はまだ学生だったんですが、千葉でバーをやっていて、その店を横浜でやらないかということだったんです。それで、私も出資し、学生たちでバー『ロックウェル』を開業しました」。
19歳の時である。スナックの居抜き。それでも保証金は450万円もしたし、14坪にもかかわらず家賃は月42万円だった。
「学生らでつくったバーでしょ。まぁ、仲間がきます。私たちも若いし、休みなくはたらいて、給料もとっていませんでしたから1年で借り入れていた1000万円を返済します。その後、吉祥寺と下北沢にも、出店するんです」。
好調だった。ただ、19歳。仕事だけに没頭できたのだろうか。「遊びたいとは思わなかったですね。借金を返済してからも、がんばれた理由は、自由に生きる、そのための布石だと思っていたからだと思います」。
自由という意味では共同経営者である高橋歩氏から受けた影響も多い。「彼は、根っからの自由人です」と中野。その高橋氏は、千葉を合わせ4店舗のバーを出店したあと、出版事業を立ち上げる。むろん、共同出資の中野も事業に参加する。これが、新たなターニングポイントとなる。

イルカに誘われて。

「当時、イルカがブームになっていたんです。それで、うちの会社でもイルカの本をつくることになって、それで私が『小笠原諸島』へ、出かけるわけです」。
いまでも、飛行機はない。船で24時間。船は1週間に1便だから、1度行くと1週間の滞在がよぎなくされる。
中野はその時、22歳の後半。ベンチャー企業の、いわば経営陣の1人である。
「小笠原に降り立って、もう、ここしかないと。そういう風に思って。それで会社を辞めて…」。思わず「え?」と口にしてしまった。中野が辞めるといったのは曲がりなりにも、19歳から3年半。共同出資で立ち上げてきた会社でもある。
「高橋とはいまも親交がありますし、当時、つくった出版社はいま、業界でも中堅クラスになっています。そういう意味では、結果オーライです。何より当時は、『好きなことをして食べていく』というのが、私たちのコンセプトだったわけですから、小笠原というステージでそのコンセプトを実践する、そこに意義があったんです」。
それが中野の答えだった。
小笠原にオープンした店の名は「クレヨン」。店は、40坪。家賃月40万円。貯金していた300万円と銀行からの借り入れ400万円を元手にオープンした。だが、思うようにいかない。地元の人たちにも受け入れてもらえない。新参者はキツイ目でみられた。
「もう、20年ちかくやっていますので、いまでは向こうにいる店長は、観光協会の役員をするまでになっていますが、当時は、ぜんぜん仲間に入れてもらえませんでした。客足も伸びず、月40万円の家賃にも届かない月もあったぐらいです。あの時、銀行から借金していなかったら、あきらめて島から離れていたかもしれません」。
1年、2年、3年目でようやく認めてもらえたそうだ。言葉でいうのは簡単だが、3年はそう短い期間ではない、「いちばん、辛かった」と中野が振り返る、その意味もわかるような気がする。
「店だけではなく、お弁当事業もやっていました。こちらも、3年目には独占事業になり、船で来られる1000人分のお弁当を独占的に販売できるようにもなりました」。
軌道に乗った。大好きなところで、大好きなことをやりながら、食べていく。借金も返済し、縛るものは何もなかった。だが、28歳、店を部下の店長に任せ、中野本人は本土に戻る決意をする。・・・・
続き
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PLATE Organic&Grill オーナーシェフ 尾前 武氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”PLATE Organic&Grill オーナーシェフ 尾前 武氏登場。
本文より~

ボランティアのご褒美

地図でみると、ずいぶん東京から離れている。九州新幹線が走り出したいまでは、半日程度で着くのかもしれないが、以前は、東京に行くといっても1日仕事だったに違いない。むろん、その逆もおなじである。
「フランスから帰国したときのことです。たまたまボランティアの話をいただきました。東京の赤羽にカトリック系のホームがあるんですが、夏休みでも帰るところがないホームの子どもたちを、なんにもないけど自然だけは豊富な人吉に招こうという企画があり、私はそのなかで料理を受け持つことになったんです」。
約40人の子どもたちがやってきた。3週間。子どもたちと一緒に川辺にテントをつくり、食材を探して料理をつくった。子どもたちの笑顔とともに、暑い夏が過ぎる。このボランティアが、尾前を東京にいざなうことになる。
「偶然ですが、子どもたちが東京に帰る数日まえに、フランスで知り合った友人から電話があって『日本で会おう』というんです。東京に行くといっても、当時はぜんぜんお金もないですから普通なら断っていたんですが、ちょうど子どもたちが帰るバスがあったので便乗させてもらったんです(笑)」。思わぬ、褒美。だが、この東京行きは、褒美以上に、尾前の人生を決定することになる。尾前、24歳の時の話である。

熊本県人吉市の親子3人。

尾前が生まれたのは、1970年1月3日。出身地は、熊本県人吉市である。父は、自動車整備工として市内の工場で勤務していた。兄弟は2人。尾前が6歳の時に両親と離婚。以来、尾前少年は、母がつくる食事を知らない。
「私が6歳ですから、兄は11歳。5つ離れていても、よくケンカをしました」。ケンカの時には「母が出て行ったのはおまえが生まれたからだ」という辛辣な一言も投げかけられたそうだ。「兄はそうですね、なんにもしない。してくれない。だから私は、6歳の時から食事をつくっていました。そうしないと食べるものがないから(笑)」。
6歳でスーパーに出かけ、肉と野菜を買って、それを炒めた。小学3年生からは新聞配達も始めるのだが、その時にはもう、尾前家になくてはならない立派なシェフになっていた。洗濯も、掃除も尾前の仕事になった。
「つらくはなかったですか?」。もし、こう問うていたら、「つらかった。でも、つらいといっても誰も何にもしてくれないから」という答えが返ってきたはずだ。ある意味、それだけ尾前は、孤立していたことになる。
運動会に父が来てくれたのは1回きり。校内ではなく、2人で車のなかで弁当を食べた。それがかえってつらかった。
小学校から剣道もやっていたが、新聞配達をするようになると、その時間もなくなった。
「夕刊だけでしたが、月に4000円。お小遣いには不自由しなかったですね」。

高校中退、父とおなじ整備工をめざすが。

農業系の高校に進学した。食品の製造や栄養学を勉強した。「でも、結局、中退してしまうんです。当時は、ちょっといきがっていて悪いこともしていましたから」。
母と12.年ぶりに再会したのは、この時。
「再婚した人が警察関係の人だったようで、私のことも聞いていたようなんです」。
会ってもうつむいているだけだった。顔をみても分かる気がしなかったから。だが、母が一言、口を開いたとたん分かった。それは、間違いなく記憶のなかにしまいこんでいた母の声だった。
しかし、母と再会しても、尾前の退学の決心は揺るがなかった。父とおなじ整備士になるべく、実家を離れた。「熊本市内の整備工場で勤務しました。住み込みです。ほんとうはもっと続けていきたかったんですが、1年半ぐらいのときに、けっこう大きな事故にあって入院生活を強いられたんです。この生活が1年以上もつづいたもんですから、退職することにしました」。
「両足の膝のところにあるサラが両方割れて。足の甲も3ヵ所。足の指も7本、折れてしまいました。それまでけっこう悪さもしていた私ですが、あのとき入院したことでずいぶん考え方がかわりました。半年は寝たきりで、トイレにもいけません。まだ若い10代ですから、はずかしくて、くやしくて。それでも、少しずつ治ることで、少しずつ前に進んでいるような気にもなりました。もし、この事故がなかったら、まだフラフラしていたかもしれません。そういう意味では、いいきっかけをつくってくれたといまは前向きにとらえています」。
退院後は、いったん人吉市にもどった。市内のバーで勤務したのはこの時。
「足が、まだ不自由でしょ。短時間しか無理だと思っていたんです。それで、人吉市内のバーではたらかせていただきました。これが、結局、私の飲食人生の始まりなんです」。・・・・続き
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2013年10月27日日曜日

10月25日、夕刊フジの連載『波乱万丈 起業家列伝』に、とこなつ家の鈴木康弘社長登場。

10月より夕刊フジにて新連載『波乱万丈 起業家列伝』(毎週金曜)がスタートしました。
10月25日(金)の第4回目は、とこなつ家の鈴木康弘社長
です。
鈴木社長は、無前職はリクルートにて人材紹介業務を担当しトップセールスにもなり、その後フィジーの留学学校で役員として活躍。
その後自分の夢でもある飲食業に就くという異色の社長です。
現在は、過去の経験を活かし転職バーを経営
将来はリゾートレストラン目指されています。
是非、お読みください。



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2013年10月26日土曜日

“飲食の戦士たち”。最近、顔ぶれが広がっている。

飲食経営者の生い立ちを綴った“飲食の戦士たち”
2008年2月から本格的にスタートし早くも5年の月日が経ちました。

ここにきて、またまた顔ぶれが大きく広がってきました。
大手・上場企業の社長から急成長の社長、アーリーステージの社長、
世界的に有名なオーナシェフからアイアンシェフ(料理の鉄人)やカリスマシェフ、
そして志ある若手社長までと幅が拡がりました。

改めて思いますが、この業界は奥が深いです。

また、一流になればなるほど、お客様目線に立ち、常に勉強されています。
そしてなにより人間力が素晴らしい。

新卒の学生の方、フリーターの方、一度“飲食の戦士たち”を読んで頂き
飲食業界への就職の途も考えられるのもいいかも・・・。

余談ですが、着実に私の田舎の町おこし体制が出来つつある。
よしよし(笑)
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2013年10月24日木曜日

10月23日(水)、第5回海外就職説明会実施しました。

10月23日(水)、今回で第5回目となる海外就職説明会実施をしました。
今回も応募者の方が多くご参加されました。

プログラム① 
「世界で勝負できるのはフードビジネスだ!」 (株)キイストン 代表取締役 細見昇市

プログラム②
企業概要説明(全体説明) 出展企業の特色や海外展開などの説明

プログラム③
各企業詳細説明(4ブース15分)

プログラム④
企業個別面談
 (海外就職説明会スタート)
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2013年10月22日火曜日

10月22日、本日は会社設立して21回目です。

1992年10月22日。

今から21年前、武田と2人で
赤坂の一軒家の間借りからスタートしたキイストンも
今日で丸21年経ちました。

21年やってると
うれしいこと、悲しいこと、つらいこと、
ありがたいこと、悔しいこと、思いがけない出会いなど
いろいろありました。

でも言えることは、
やはり『継続はチカラなり』です。

継続の大変さは、
会社経営されている方から誰でもわかります。

飲食経営者の取材してても思います。

何度も潰れそうな思いを経験し、
乗り越えた者しか今がありません。

何事も必然です。
今をコツコツやり続ける、
それが必ず明日の希望になります。

「あきらめないで」
やっぱりこれでしょ!!
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キイストン

有限会社マンジェ・ササ 代表取締役オーナーシェフ 笹垣朋幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社マンジェ・ササ 代表取締役オーナーシェフ 笹垣朋幸氏登場。

本文より~

高知県高岡郡、育ち。

「高知県高岡郡」、笹垣が「田舎だ」というから、調べてみた。高岡郡は、高知市より西にあり四万十町など6町1村を含む郡である。笹垣は、「漁師の祖父と祖母に育てられた」というから群のなかでも海沿いの町だったはず。とにかく自然のなかで、遊び回るのが日課だったそうだ。
「なにしろ、祖父が漁師ですから朝が早い。だから、寝るのも早くて夕食が4時で、8時には消灯です。料理はさかなの煮つけと塩焼きの繰り返し。もっとも私が、生魚が食べられなかったからで、祖母なりに工夫はしてくれたと思います」。 海沿いの漁師の生活。祖母は祖父が釣った魚を行商していた。
「3歳のとき両親が離婚し、姉は父方、私は母方に引き取られ、母の実家である祖父の家に移り住んだんです。母が病弱だったこともあって、もっぱら祖父と祖母に育ててもらいました。でも、2人ともはたらいているもんですから、ほったらかしで、もう自然に育てられたといってもいいんじゃないかな」。
もっとも田舎の村。村の人もやさしかった。「村の子どもたちはみな兄弟みたいなもんです。小学校も、中学校もいっしょ。中学生になっても、クラスの女子は恋愛の対象じゃなかった。ある程度、大きくなるまでは風呂もみんなでいっしょに入っていたぐらいですから(笑)」。

漁業も、農業も盛ん。

笹垣が生まれたのは1970年。大阪府吹田市で万国博覧会が開催され、日本の近代化が一挙に推し進められようとしていた頃である。しかし、笹垣が育った高知の田舎では、まだまだ近代化の恩恵にはあずかれていなかったようである。 「高知市に行くだけでもたいへんで。そうですね、ぼくら高岡郡の人間にすれば、普通の人たちが東京に行くのとおなじイメージ。東京ともなれば、もうニューヨークです(笑)」。「漁師もたくさんいましたが、農家の人も多く、ピーマンやししとう、お米なども盛んに作られていました。いまでも、農業が盛んな村です。」
「私は、小さな頃から絵が好きで、将来は漫画家になりたいと思っていました。しかし、現実はそう甘くなかった。投稿しても、さっぱり。高校を卒業する頃には、実力もだいたいわかってきたので、これは無理だなと。でも、勉強もさほどしていなかったもんですから、それ以外でいえば、整備士、美容師、調理師ぐらいしか選択肢がありません。そのなかから調理師を選択したのは、小さくてもいいからみんなで楽しめるような店を造りたいと思ったからなんです」。

調理師学校へ旅立つ。

笹垣は、小さな思いを胸に抱き1年制の「RKC調理師学校」に進んだ。進学というより、旅立ち。なにしろ、「RKC調理師学校」は、東京とおなじぐらい離れた高知市にあったからだ。「すでに祖父が亡くなっていたもんですから、祖母には辛い思いをさせたと思います。でも、祖母は私にいくつもの大切な言葉を贈ってくれました。『人に可愛がられるようになりなさい』というのも、祖母の教えの一つです」。
単身で向かった高知。4月3日に高知に入り、2日後の5日には入学式を済ませ、高知市内のホテルに向かった。アルバイトを始めるためだった。
「あの時の選択がぼくの将来を決定したと言えるかもしれません。選択といっても、ぼくがしたわけじゃないんですが。まぁ、受け入れたという意味で、一つの選択だったと思っています」。
仔細はこうだ。友人と2人して、ホテルに向かった。夕方6時ぐらいに着く。「そのとき、将来何になりたいって聞かれたんです。で、ぼくより早くもう1人の友人が和食と答えたもんですから、中華のないそのホテルでは洋食しか残っていなかったんです(笑)。それで、洋食。いま思えば、そこが出発点なんです」。
鍋洗いからスタートした。
次々に出勤してくる先輩たちを待ってインスタントコーヒーをつくった。砂糖何杯、ミルク何杯、コーヒーは濃い目か、薄い目か。15人いた先輩の味を全部、おぼえた。祖母の言葉を実践し、先輩たちにも気に入られるようになった。
ベーコンを切らしてもらえるようにもなった。ただし、その数、1日2000枚。・・・・続き
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スピル株式会社 代表取締役社長 穂崎芳幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”スピル株式会社 代表取締役社長 穂崎芳幸氏登場。
本文より~

子どもの頃の穂崎の話。

穂崎が生まれたのは1963年1月6日。東京都生まれ、千葉育ちである。男3人兄弟の長男。「父は千葉の市原出身、母は九州の小倉出身です。父はタクシーの運転手をしていました。ギャンブルとは無縁の父でしたが、酒は大好きで、とにかく怖かった。言葉より先に手がでるような人でしたから(笑)」。
「私自身は、ふつうの少年でした。中学に進学するまでは背も低く1メートル38センチしかなかった。かわりに中学になると毎年10センチずつ伸びて、いまに至ります」。
中学生の頃の穂崎は、群れるのがきらいで、これといったグループにも属していなかったそう。子どもの頃からどこか自立した少年だったとのことである。
「いま思えば、中学自体が私のガラじゃなかったんでしょうね。公立だったんですがエリート中学で、のちに東大に合格する人間も少なからずいました。わざわざ越境してくる生徒もいて。学校が終わると塾じゃなく、予備校に通うような生徒が大半でした。私は、勉強はできませんでしたが、それなりに運動神経は良くって入ったサッカー部でも中心選手でした」。

拓大紅陵、花の1期生のはずが。

中学はハダに合わなかったが、高校は逆にピッタリマッチした。穂崎が進んだのは「拓大紅陵」。1期生である。
希望に燃えて入学した学校は、全国から不良が集結したような学校だったそうである。「もともと男女100名ずつ募集していたんです。でも、入ってみてビックリ。話がまったく違って、ぐるり全員、男子。女子の影すらありません(笑)。しかも、顔に不良とレッテルが貼ってある奴ばかり。そんな連中600名でスタートしたんです。共学のはずが、3年間、男子ばかりですからたまったもんじゃありません」。
1年間で、1期生600人のうち10分の1ちかくの50名が退学。停学者数は150名にものぼった。おもしろい話がある。当時、穂崎は1年目から学生寮に入っていたが、そこがのちに「鑑別所」と称されるようになるのである。「最初は、普通の寮だったんですが、両親にサジを投げられた不良どもが、次々、収監されてくるんです」。たしかにたまったもんじゃない。だが、穂崎も負けてはいなかった。野球部に入っていたが、2年で肩をこわして退部。それ以降は、立派な不良生活を送っている。・・・・続き
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2013年10月21日月曜日

アイアンシェフ黒木純さんの“くろぎ”にて。

先日社長取材させていただいた和の鉄人・黒木純さんの“くろぎ”で
黒木さんに取材を入れてくれた社長特命課・横谷と食事させていただいた。
食材のこだわりから、料理内容、接客にいたるまで素晴らしい。
また、黒木さんの人柄にも惚れました。
ごちそうさまでした。




2013年10月19日土曜日

10月18日、夕刊フジの連載『波乱万丈 起業家列伝』に、せたが屋の前島司社長登場。

夕刊フジにて新連載『波乱万丈 起業家列伝』(毎週金曜)がスタートしました。
10月18日(金)の第3回目は、せたが屋の前島司社長
です。
前島社長は独学で苦労重ね、今や超有名ラーメン店主に・・・
是非、お読みください。


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2013年10月17日木曜日

青山学院大学にて、激セマ焼肉店・六花界の森田 隼人社長の講義でした。

本日10月17日(木)
青山学院大学の総合文化政策学部・堀内ゼミにて
モリタ空間デザイン事務所の森田隼人社長(激セマ焼肉店・六花界)に講義されました。

青山学院大学の学生の皆さんに、
1.現在までの経歴と事業について
2.創業から軌道に乗せるまでの手法と観点
3.『六花界』で大切にしていること
4.森田隼人の3つの習慣
5.最後に
仕事・人生について熱く語って頂きました。
学生の皆さんも、お話しを聴いて、なにか得たのでは・・・・・・。