2013年10月15日火曜日

キリンシティ株式会社 代表取締役社長 大木忠彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”キリンシティ株式会社 代表取締役社長 大木忠彦氏登場。
本文より~

キリンシティの社長に。

「日本で1番、お客様と従業員が『笑顔』になれるビアレストランに」という素敵な理念を抱えるビアレストランがある。
キリンビールを親会社に持つ「キリンシティ」がそれ。創業は1983年にまで遡ることになる。現在、同社の社長である大木忠彦が生まれたのが1961年のことだから、彼が大学を卒業する年に「キリンシティ」は誕生したことになる。
この「キリンシティ」は当時、ガリバーだったキリンビールが社会に投じた、「ビール文化」の新たな方向性を示す未来図の一つだった。
いまでも「こだわりつづけている」という「ドイツピルスナービールの伝統技『3回注ぎ』による樽生ビールの提供方法」は、このインタビューのなかでも、大木が何度も口にした言葉である。
<日本に本場ドイツのビール文化を。>というミッションを与えられ、生まれた「キリンシティ」。30週年を迎えた今年、新社長となり、この組織をリードする大木忠彦。では、いつも通り大木の、生い立ちから追いかけてみることにしよう。

学習院大学までの話。

「松下幸之助か、大木岩治か、と言われていたそうです」。と大木は、祖父について語り始めた。大木伸銅工業(株)のHPで歴史を調べてみると<大正13年、大木岩治が練馬区北町にて個人経営>とある。大木がいう祖父とは、この大木岩治氏のことであり、大木伸銅工業(株)の創業者のことである。
「父も母も東京出身。私は祖父の会社がある板橋で生まれ、育ちました」。大木が生まれたのは1961年。昭和36年のことである。
3年後に、東京オリンピックが開催されるわけだから、復興の需要がピークだった頃のこと。銅及び黄銅の棒・線・鍛造品などを営業品目とする祖父の会社も、おおいにうるおったにちがいない。そんななかで、大木が生まれる。
大木は、大木家の子ども3人兄弟の末っ子。長男は学習院に進み、次男は青山、3男の大木は長男に習い学習院に行く。もっとも大学ではなく中学の話である。
「成績が良くなかったんで、家庭教師をつけられ、特訓です」。小学生が中学受験のために特訓を受ける。いまでは当たり前といえなくもない光景だが、当時はまだめずらしかったのではないか。ともかく、特訓の成果もあって、無事、学習院に進む。「進むんですが…」と歯切れが悪い。どうも、体質に馴染めなかったそうだ。
いちばんの理由は、金銭感覚が周りと合わなかったから。
「周りにいる生徒は、著名人や旧華族の息子でしょ。ぜんぜん、金銭感覚が違うんです。学校が楽しくなったのは、大学に進学してからでしょうか。大学生ともなれば、親ではなく、ジブンという軸で語るようになりますから、そうなればみんなおんなじ学生。意識することもそれぞれ違って、私自身は、山登りに凝り、アルバイト代のほとんどが山に消えていきました」。

「あるける会」で過ごした4年間。

長男が入っていたこともあって、楽しそうだと、「あるける会」に入部した。ハイキングから夏山・冬山まで様々な登り方ができることに惹かれた。その一方で、もう一つ目標があった。
「実をいうと、中学・高校時代に部活をやり続けたことなどない軟な奴だったんです。だから、山岳部なんてとても入るような人間ではなかったんですが。大学1年の時、1人のすごくかわいい女の子に出会って。軟弱なジブンをかえたいと思ったんです」。
軟なオトコを返上してみせる。それにしては「あるける会」というネイミングが、いま一つフィットしないが、たしかに大木は、この部で、そして山で、男になった。
「何回か、登るうちすっかりハマってしまいました」。空前の風景、ハードな山、一瞬たりとも気を抜けないスリル。すべてが大木を魅了した。いまだかつて、ここまで大木を魅了したものはなかった。
「そうですね。いまはさすがに行く時間がなかなかとれないんですが、また余裕ができれば登りたいですね。それほど魅力的です。4年間は、山のなかであっという間に過ぎていきました」。
いのちが噴き出る春、緑がもえる夏、紅葉の秋、そして厳寒の冬。大木は、冬の山がいちばん好きだそうだ。
好きといえば、部に入るきっかけとなった女性は、いまも大木の隣で笑っている。山男になった大木の誘いを、彼女は笑顔で受け入れたに違いない。

就職先は、ガリバー「キリンビール」。

「同業に行っても、将来ライバルになるだけ」という父のアドバイスを受け、長男とも次男とも違う業種を選択した。それが、ガリバー「キリンビール」だった。
「仕事をするようになって、だんだん父のことも理解できるようになるんです。私の就職が決まったのは、いまの学生ならびっくりすると思いますが、4年の9月です。そして、年が明け、いよいよ私の社会人生活がスタートしました」。
キリンビール一筋、これが大木の人生である。しかし、その間に経験したことは、何社かを転職して、得られるように多彩で内容が濃いように思う。簡単に、キリンビール時代を追いかけてみる。
「最初に配属されたのは、滋賀県にある工場です。ここで、ビールづくりを学習します。もっとも社会人としても勉強することになるんですが、とくに最初の1年は課長と言い合いの日々がつづきました。人事がみかねたのでしょう。2年目には異なる部に異動になりました。ある意味、1年目から社会の洗礼を受けた気もします」。この滋賀工場が、大木にとってはすべてのスタートライン。新たに業務部に配属されてからは、「麦芽」を食べるのが日課になった。「毎日、食べていると、違いが分かるようになるんです」。ビールマイスターの域とまではいわないが、確実にビールの根幹にちかづいていった。
この滋賀工場で3年。そのあとは、大阪府の北摂エリアを任された。それが1987年2月のこと。この年の4月には、ビール業界の勢力図を塗り替えた、あの「アサヒスーパードライ」が登場する。
もともと「アサヒ」は大阪で人気のブランドだった。他府県と比較しても、アサヒのシェアが高かった。それでも大半がキリンビールで占められていた。しかし、大阪府は、アサヒの牙城でもあったこともたしか。スーパードライが発売されると、オセロの駒が次々、入れ替わるように、形成は見事に逆転された。とくに大木が担当する北摂エリアは顕著だった。
「ぜんぜん、だめでしたね。だいたい私が担当していた北摂エリアは富裕層が多く、時代のトレンドに敏感なエリアなんです。北から時計回りに東・南というように、トレンドが流れていくのです。だから、この時もまっさきに影響がでました。私の成績ときたら、もう全体のなかでも尻から2番か3番目という結果です」。
しかし、山男は逆境から逃げなかった。とにかく現場をまわり、さまざまな工夫をして、逃げ出すこともせず、アサヒスーパードライという怪物とも戦いながら、少しずつ成果を残していく。「この時の工夫がいまも生きている」と大木。人間、辛い時のがんばりほど意味があるものはない。
しかし、ガリバーキリンビールは、この1本のビールによって、首位の座をアサヒビールに明け渡すようになる。・・・続き
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