2013年10月22日火曜日

有限会社マンジェ・ササ 代表取締役オーナーシェフ 笹垣朋幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社マンジェ・ササ 代表取締役オーナーシェフ 笹垣朋幸氏登場。

本文より~

高知県高岡郡、育ち。

「高知県高岡郡」、笹垣が「田舎だ」というから、調べてみた。高岡郡は、高知市より西にあり四万十町など6町1村を含む郡である。笹垣は、「漁師の祖父と祖母に育てられた」というから群のなかでも海沿いの町だったはず。とにかく自然のなかで、遊び回るのが日課だったそうだ。
「なにしろ、祖父が漁師ですから朝が早い。だから、寝るのも早くて夕食が4時で、8時には消灯です。料理はさかなの煮つけと塩焼きの繰り返し。もっとも私が、生魚が食べられなかったからで、祖母なりに工夫はしてくれたと思います」。 海沿いの漁師の生活。祖母は祖父が釣った魚を行商していた。
「3歳のとき両親が離婚し、姉は父方、私は母方に引き取られ、母の実家である祖父の家に移り住んだんです。母が病弱だったこともあって、もっぱら祖父と祖母に育ててもらいました。でも、2人ともはたらいているもんですから、ほったらかしで、もう自然に育てられたといってもいいんじゃないかな」。
もっとも田舎の村。村の人もやさしかった。「村の子どもたちはみな兄弟みたいなもんです。小学校も、中学校もいっしょ。中学生になっても、クラスの女子は恋愛の対象じゃなかった。ある程度、大きくなるまでは風呂もみんなでいっしょに入っていたぐらいですから(笑)」。

漁業も、農業も盛ん。

笹垣が生まれたのは1970年。大阪府吹田市で万国博覧会が開催され、日本の近代化が一挙に推し進められようとしていた頃である。しかし、笹垣が育った高知の田舎では、まだまだ近代化の恩恵にはあずかれていなかったようである。 「高知市に行くだけでもたいへんで。そうですね、ぼくら高岡郡の人間にすれば、普通の人たちが東京に行くのとおなじイメージ。東京ともなれば、もうニューヨークです(笑)」。「漁師もたくさんいましたが、農家の人も多く、ピーマンやししとう、お米なども盛んに作られていました。いまでも、農業が盛んな村です。」
「私は、小さな頃から絵が好きで、将来は漫画家になりたいと思っていました。しかし、現実はそう甘くなかった。投稿しても、さっぱり。高校を卒業する頃には、実力もだいたいわかってきたので、これは無理だなと。でも、勉強もさほどしていなかったもんですから、それ以外でいえば、整備士、美容師、調理師ぐらいしか選択肢がありません。そのなかから調理師を選択したのは、小さくてもいいからみんなで楽しめるような店を造りたいと思ったからなんです」。

調理師学校へ旅立つ。

笹垣は、小さな思いを胸に抱き1年制の「RKC調理師学校」に進んだ。進学というより、旅立ち。なにしろ、「RKC調理師学校」は、東京とおなじぐらい離れた高知市にあったからだ。「すでに祖父が亡くなっていたもんですから、祖母には辛い思いをさせたと思います。でも、祖母は私にいくつもの大切な言葉を贈ってくれました。『人に可愛がられるようになりなさい』というのも、祖母の教えの一つです」。
単身で向かった高知。4月3日に高知に入り、2日後の5日には入学式を済ませ、高知市内のホテルに向かった。アルバイトを始めるためだった。
「あの時の選択がぼくの将来を決定したと言えるかもしれません。選択といっても、ぼくがしたわけじゃないんですが。まぁ、受け入れたという意味で、一つの選択だったと思っています」。
仔細はこうだ。友人と2人して、ホテルに向かった。夕方6時ぐらいに着く。「そのとき、将来何になりたいって聞かれたんです。で、ぼくより早くもう1人の友人が和食と答えたもんですから、中華のないそのホテルでは洋食しか残っていなかったんです(笑)。それで、洋食。いま思えば、そこが出発点なんです」。
鍋洗いからスタートした。
次々に出勤してくる先輩たちを待ってインスタントコーヒーをつくった。砂糖何杯、ミルク何杯、コーヒーは濃い目か、薄い目か。15人いた先輩の味を全部、おぼえた。祖母の言葉を実践し、先輩たちにも気に入られるようになった。
ベーコンを切らしてもらえるようにもなった。ただし、その数、1日2000枚。・・・・続き
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