in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にあのロバート・デニーロとの共同経営されているNOBU TOKYO オーナーシェフ 松久信幸氏登場。
本文より~
世界の、「ノブ」。
ハリウッドスターであるロバート・デ・ニーロ氏。日本でも有名なこの映画俳優が、松久をスターダムにのしあげた。1987年にビバリーヒルズに「Matsuhisa」をオープンした松久は、たちまちハリウッドの著名人たちを魅了する。そして7年後、ロバート・デ・ニーロ氏に誘われ、共同出資でニューヨークに「NOBU New York City」をオープンするのである。この店が、松久をスターダムにのしあげるきっかけとなった。
ちなみに2000年10月にはデザイナーのジョルジオ・アルマーニ氏とパートナーシップを組みイタリア・ミラノに「NOBU Milan」をオープン。その後も、世界各国の著名なローカルパートナーと組み、出店。いまや「ノブ」の名は世界中で知れ渡っている。
今回は、この「世界の」という冠も大げさには聞えない「ノブ」こと、松久信幸氏にインタビューさせていただけるという「幸運」に出会った。
おばあちゃんに育てられ。
「私は、4人兄弟の末っ子。長男とはひと回り離れていました」と松久は語る。父は木材商で、もともとは深川で仕事をしていたが、戦時中に家族とともに埼玉に疎開。そこで、松久を授かった。ところが、松久が小学校に上がるとすぐに父は他界。4人の兄弟と、母と祖母が残されてしまった。
「長男が大学進学をあきらめ、父の代わりに仕事を切り盛りします。私にとって長男は怖い兄で、ある意味では父のような存在でした」。
父の事業は長兄と母に引き継がれ、かたちは残したものの、けっして裕福ではなかったようだ。母はもちろん兄弟たちも、まだ幼い少年に目をかけている暇もなかったことだろう。
「私は、おばあちゃん子なんです。おばあちゃんに育てられたようなもんですから」。この祖母は、明治生まれ。優しい人だったが、厳格で、松久にとっては怖いおばあちゃんでもあった。
「当時は、靴というのがなくって、裸足か下駄なんです。で、しょっちゅうケンカもして。私がケンカに負けて泣いて帰ってくると、祖母が怒りだすんです。『どうして、おまえは下駄を履いているんだ』って。最初はなにを言っているのかわかりません。つまり、こういうことだったんです。『何故、ケンカをして泣かされているのに下駄を履いて帰ってきたんだ。どうして、その下駄をぶつけて帰ってこないんだ』と(笑)」。
祖母は負けずぎらいの人だったのだろうか。それとも、父のいない松久を思っての、切ない怒りだったのだろうか。
この祖母は、松久に「影、日なたのある人間にはなるな」とつねに教えてくれた。「ごめんなさい」「ありがとうございます」を大事にすることも、口酸っぱく諭してくれたそうだ。ともかく少年の日々の記憶にはいつも祖母の姿がある。
1枚の写真と鮨屋と。
祖母とは別に、松久のなかにはもう一つ鮮明な記憶がある。すでに書いた通り、父の写真をみながら、いつか海外へと思った思考の記憶である。
松久が小学生というからには10歳ぐらいのことで、1959年前後のことである。為替はまだ1ドル360円で、海外に行く人は数少なかったはずである。そんななか、海外で現地の人と映る父の写真は、少年にとって何よりも誇らしいものだったのかもしれない。
ともあれ、少年松久はまだ自然が豊富に残る埼玉で、土手を駆け、山を走るわんぱくな坊主でもあった。「まぁ、埼玉でも有数の健康優良児だったわけです」と松久は、昔を思い出し笑う。
そんな松久に一つの転機が訪れたのは、1軒の鮨屋ののれんを潜った時のことだった。「長兄にはじめて鮨屋に連れていってもらった時のことです。鮨屋という別世界に、魅了されたんです。そう、きれいなカウンターにも、ガリという用語にも…」。異次元に迷い込んだ気がしたのかもしれない。ほどなく「鮨屋になる」というのが松久の目標になった。・・・続き