2013年11月12日火曜日

Toshiro' s(トシローズ) シェフ 小西紀郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”Toshiro' s(トシローズ) シェフ 小西紀郎氏登場。
本文より~

恵まれた環境

小西紀郎の生家は、会席料理に定評のある割烹旅館だった。明治生まれの祖父が仕切るその厨房は、いつも緊張感に包まれていた。プロの世界だからと、祖父は仕事中職人以外の立ち入りを決して許さなかったが、休憩の際小西は隙を見て出入りし、さまざまな野菜や魚を目にしてきたという。子供のころから野菜洗いを手伝い、中学の時にはすでに賄い用の魚を洗ったり捌いたりしていた。「小遣い目当てだったけどね」と笑う小西だが、素材を選ぶ料理人の厳しい目は、こうして幼少のころから鍛えられてきたと言えるだろう。
また、プロの技を見る機会にも恵まれていた。「材料に火を加えたり、何かすることで変わっていくのが不思議だったし、見ていて面白かった」そんな小西が初めて自らの手で“調理”をしたのは6歳の頃。近所のおばあちゃんが作ってくれた土筆の煮物がすこぶる美味しく、もう一度食べたい一心から摘んだ土筆を煮てみたそうだ。子供は火を使うなと祖父に強く禁じられていたので、大人には黙っての挑戦だった。結果は、「ありゃ…不味かったな」袴を取るなどの下処理をしなかったため、舌触りが悪くなってしまったのだ。ただ、味付けに関しては、おばあちゃんの作業を見てきたので何が必要か理解していたという。醤油と味醂、酒、そして出汁。幼いながらも料理人としての片鱗が窺えるエピソードである。

旬を食べ、さまざまな味覚に触れる

「お袋の料理で覚えているのもとと言えば、まずはきびなごの煮付け。季節になるととにかく毎日出てきた。夏はニガウリの味噌煮ね。冬は切り干し大根。宮崎は切り干し大根が有名なんだよ」と、彼の思い出話には料理と季節が必ず対になって登場する。「昔は温室栽培なんてないから、旬のものを食べるのは当たり前だった。夏は採れたての胡瓜やトマト、とかね。俺たちの時代はそれが自然だったし、そもそもこれは日本料理の基本だよね」もぎたての野菜と強烈な日差し、茜色の夕陽に染まる干物の長い影。季節感の薄れた現在の「旬」とは異なり、小西の幼少期には、四季と共に生きてきた日本人の古き良き暮らしぶりが垣間見られる。
また、小西は「色んなものを食べさせてもらった」と昔を懐かしそうに振り返る。家族用だからと手抜きをせず、一流の素材を使って食卓を潤してくれた料理上手な母。人の味覚は5歳までに決まるというが、小西が育ったこうした環境は、母に貰った最高の贈り物と言えるだろう。

天性の度胸

子供の頃から目立ちたがり屋だった。モノマネや芸事が得意で、学芸会では必ず主役に選ばれた。また、詩吟の師範である母から受け継いだ歌の才能は正に玄人はだし。中学時代のバンドではリードギター兼ボーカルを担当し、後に上京してからも気が向けばギター片手に流しをしていたという。カントリー歌手の故ジミー時田に「お前、プロになる気はあるのか」と聞かれたこともあった。小西の朗々たる歌声はリマでもつとに有名で、ペルーで20年以上の歴史を誇るアンコン音楽コンクールの1978年大会で、堂々3位に入賞した実力の持ち主でもある。
とにかく大胆で度胸のある子供だった。「中学1年の時に台風が来てさ。みんな父兄が迎えに来るんだけど、うちは商売の家で親も忙しくて。だから俺は『どうせ濡れるんだったら』ってんで、海水パンツ一丁で下校したりね」「近所で飲み会があったりしたら、よく芸能人のモノマネなんかしては人を笑わせたね」こうした人好きのする性格は、今でもまったく変わっていない。・・・続き
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