本文より~
長野工業高校にあって、20数年ぶりの快挙。
室賀にとっては、父の存在が大きい。父は、高校を卒業後、地元の「大手電機メーカー」に就職。定年までわき目もふらず、その会社一筋に生きてきた人である。そういう世代だったとも言えるが、父を間近でみてきた室賀にとっては、それ以外の生き方はなかなか考えられなかった。
「定年迄、まっとうできる会社かどうか」。それが仕事選びの尺度になった。むろん、大学卒業時だから、まだ先の話ではあるが。
室賀が生まれたのは1979年の長野市である。のちにオリンピックを招致し、熱狂する街もまだひっそりとした街の一つだった。市の郊外に新興の住宅地が生まれ、室賀一家もその住宅地の住人となる。人口は多く、中学の生徒数は1000名をはるかに超えていた。
室賀はサッカー部に所属していたが、「3軍まで、あった」という。「私は2軍でした」と笑う。11クラスもあったそうだ。
中学を卒業し、進学したのは長野工業高校。「情報科に入りたくて…」と室賀。その高校で、それまで中の上ぐらいだった室賀の成績が、群を抜くようになる。
「入学時に首席だったんです。それまで、中の上ぐらいでパッとしなかった成績ですが、首席ということになって急にやる気がでてきました。それで、勉強ばかりして。そう高校時代の3年間、定期テストはぜんぶ1位です。中学同様、生徒数は少なくなかったんですが、もう1位は手放せないと思って、勉強もしました」。
「学校から4時か、5時に帰ってくるでしょ。それから、ごはんと風呂、それ以外は朝2時までずっと勉強です。この高校時代に人格も形成されました」。
勉強、勉強、それでも、苦にならなかった。学年で1番の目標が、卒業時には、それまで20年間以上、先輩たちができなかった「信州大学工学部」現役入学という目標にとって代わった。
「結局、推薦で進学できました。快挙といえば快挙ということになるんでしょうね。この信州大学の学生時代、私は一つの転機を迎えます」。
定年まで、どうはたらくかという問題。
室賀が大学1年時に、長野オリンピックは開催されている。室賀は、家庭教師や塾講師などのアルバイトを始め、大学2年時からは、地元のローカルなファミリーレストランで勤務した。この時のアルバイトが、一つの転機となる。「店長に惹かれたんですね。高校入学以来、私を叱るような人は周りにいなかったわけです。ところが、店長には、やることなすこと怒られて。でも、怒られることが新鮮なもんですから(笑)。ぜんぜんイヤにならず、結局、1年以上いて、飲食業の楽しさまで実感するようになるんです」。
当時、「許されるなら、飲食店に就職しようと思っていた」という。ただ、長野というまだ田舎の話である。就職時には東証二部の情報処理の会社に合格するが、その会社でさえ、親からは首を傾げられる始末だった。結局、JA長野共済連に進路を決める。
「ここなら、無事、定年を迎えられそう」というのが、最終的な理由である。
ところが、定年までという長いスパンで考えたことで、のちに、この会社を辞すことになる。
「いま思えばたしかに、文句のつけようのない会社でした。希望通りシステム部に配属されたわけですし。ただ、贅沢な話ですが、私にはぬるま湯のようにしか思えなかったんです。このまま、定年まで同じような仕事をつづけていくのか、と思うと急に耐えられなくなったんです」。
入社1年目で辞めるつもりなった。ただ、石の上にも3年。3年間は辛抱だと思った。「どこかで気がかわるかも」とも思っていたが、3年たった頃には、すっかり次のプランも出来上がっていた。飲食業での独立。一攫千金を目標にした、刺激ある毎日が待っているはずだった。・・・続き
株式会社スープアンドイノベーション 代表取締役社長 室賀 康氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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