本文より~
大学卒業までの話。
「子どもの頃は、野球が大好きで、長嶋や王が、ヒーローでした。父に連れられ、何度か甲子園に巨人・阪神戦を観に行きました」。
南が生まれたのは、1958年。出身は兵庫県宝塚である。日本の復興が進み始めた頃。
当時の子どもにしては珍しく、南は中学から私立の名門「関大一中」に進学する。
「その時、テニスに出会って…」と南。
最初は、野球をやりたかったものの、先輩に誘われ仕方なくテニス部に入部。しかし、やってみると、これが案外とおもしろい。すっかりテニスに魅了された南は、大学時代までつづけることになる。
「大学になると、車も乗れるようになるでしょ。私たちの時代は、車が青春のシンボルだったんですね。だから、テニスのほかに車にも夢中になって。そのぶんアルバイトに精をだして、車の資金も確保しました(笑)」。
手に入れた愛車は、「カリーナ2000GT」。
暴走族でも、走り屋でもなかったが、タイヤも替え、キャブレターもいじり、チューニングも楽しんだ。
そうやって、六甲の峠を攻めた。急な下り坂を抜けると、海が眼下に広がった。青春は、青空の下で、星空の下で、六甲の山の頂で、過ぎていった。
大学卒業。就職。南にもその時期がやってきた。
南が生まれたのは、1958年。出身は兵庫県宝塚である。日本の復興が進み始めた頃。
当時の子どもにしては珍しく、南は中学から私立の名門「関大一中」に進学する。
「その時、テニスに出会って…」と南。
最初は、野球をやりたかったものの、先輩に誘われ仕方なくテニス部に入部。しかし、やってみると、これが案外とおもしろい。すっかりテニスに魅了された南は、大学時代までつづけることになる。
「大学になると、車も乗れるようになるでしょ。私たちの時代は、車が青春のシンボルだったんですね。だから、テニスのほかに車にも夢中になって。そのぶんアルバイトに精をだして、車の資金も確保しました(笑)」。
手に入れた愛車は、「カリーナ2000GT」。
暴走族でも、走り屋でもなかったが、タイヤも替え、キャブレターもいじり、チューニングも楽しんだ。
そうやって、六甲の峠を攻めた。急な下り坂を抜けると、海が眼下に広がった。青春は、青空の下で、星空の下で、六甲の山の頂で、過ぎていった。
大学卒業。就職。南にもその時期がやってきた。
ホテルマンになろうと思って。
ホテルマンを描いた一冊の本に出会った。主人公に引き寄せられた南は、一時期、ホテルマンを志すようになる。
「でも、調べると現実との間に大きな溝があって。ともかく下積みが長いんです(笑)。主人公みたくなるには、それこそ何年もかかることがわかって…。でも、そう気づいた時にはもう4年生最後の年になっていました。いちから就職活動をするのはたいへんだと思っていたのを記憶しています」。
それでも、某ホテルからもらった内定を蹴って、いちから新たな就職先を探した。
時期が良かったといえば一言で済んでしまうが、当時は、いまほどの就職難ではなく、南がめざしたサービス職、とくに飲食はファミリーレストランの勃興期で、「一人でも多くの学生を採用したい」と、採用担当者はしゃかりきりになっていた時代である。
「ファミリーレストランの『サト』から内定をもらいました。外食産業は、これからの産業だと思っていたので、就職を決意しました。」
憧れのホテルマン改め、外食マン。時代は、外食マンの時代となるはずだった。
「たしかに、外食産業は凄いいきおいで成長していくんです。ただ、現場の私たちは、もうそのいきおいに押されっぱなしで(笑)」。多忙な日々。
同期で入社した5名の大卒は、すぐに3名になった。歯がかけていくように、スタッフがへっていく。高卒25名は、半年で半分になった。
「それでも、うちは残業代もすべて支給されていましたからましな方だったんじゃないでしょうか」と南。
残業だけで月に、200時間を超えていたそうだ。
「当時は、外食産業が急成長していくんです。その背景には、チェーンオペレーションという理論があって。そう、飲食という、ざっくりした旧世界に、論理立てた考えが導入されていくんです」。それはそれで魅力的だった。「しかし、ともかく忙しすぎて(笑)。考える暇も、勉強する暇もないというのはあのことですね」。
業務に追われながらも、ともかく3年、務めた。
飲食の勃興期に、南なりの足跡は残したことになる。・・・・続き
「でも、調べると現実との間に大きな溝があって。ともかく下積みが長いんです(笑)。主人公みたくなるには、それこそ何年もかかることがわかって…。でも、そう気づいた時にはもう4年生最後の年になっていました。いちから就職活動をするのはたいへんだと思っていたのを記憶しています」。
それでも、某ホテルからもらった内定を蹴って、いちから新たな就職先を探した。
時期が良かったといえば一言で済んでしまうが、当時は、いまほどの就職難ではなく、南がめざしたサービス職、とくに飲食はファミリーレストランの勃興期で、「一人でも多くの学生を採用したい」と、採用担当者はしゃかりきりになっていた時代である。
「ファミリーレストランの『サト』から内定をもらいました。外食産業は、これからの産業だと思っていたので、就職を決意しました。」
憧れのホテルマン改め、外食マン。時代は、外食マンの時代となるはずだった。
「たしかに、外食産業は凄いいきおいで成長していくんです。ただ、現場の私たちは、もうそのいきおいに押されっぱなしで(笑)」。多忙な日々。
同期で入社した5名の大卒は、すぐに3名になった。歯がかけていくように、スタッフがへっていく。高卒25名は、半年で半分になった。
「それでも、うちは残業代もすべて支給されていましたからましな方だったんじゃないでしょうか」と南。
残業だけで月に、200時間を超えていたそうだ。
「当時は、外食産業が急成長していくんです。その背景には、チェーンオペレーションという理論があって。そう、飲食という、ざっくりした旧世界に、論理立てた考えが導入されていくんです」。それはそれで魅力的だった。「しかし、ともかく忙しすぎて(笑)。考える暇も、勉強する暇もないというのはあのことですね」。
業務に追われながらも、ともかく3年、務めた。
飲食の勃興期に、南なりの足跡は残したことになる。・・・・続き
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