本文より~
高校卒業、18歳の決断。
高校を卒業するということ。それは、たいていの人にとって、大きな意味を持つ。それまでとは違って、自ら進路を決定することに迫られるからだ。
むろん、大学受験のみがまっとうな進路ではない。ただ親からすれば、それを勧めるのが、まっとうなことなのだろう。
高木の父もまた、大学を受験せず、菓子職人になるという息子の決断を聞いて、「馬鹿をいうな」と怒鳴られたそうである。それから、互いに口もきかない日々が続いたそう。そして1ヵ月たったある日、もう一度決断を尋ねられ、高木はもう一度、「フランス菓子をやる、と答えた」という。
高木にすれば、進路を決定するうえで悩んだ末の結論だった。しかし、父にすれば、唐突すぎたのだろう。空白の1ヵ月間は、息子の思いを試す時間だったのかもしれない。
息子の決意を聞いて、父もまた自らの決断を口にする。
「やるなら真剣にやれ」「フランス菓子をしたいなら、フランスに行ける学校はどこだ?」。「辻調理師学校」とすぐに答えはしたが、躊躇する思いがないわけではなかった。入学金など諸々の費用がいちばん高かったからだ。
しかし「そういう問題じゃない」と父。「ただし、一つ約束しろ。もしフランスに行くことができなければ、菓子職人を諦めて大学に進学しろ」と、言われたそうである。
どういう思いでそれを口にされたのか。息子の決断を「良し」とされたのか、それとも…。
ともかく「辻調理師学校」を出発点にして、いまや菓子職人の頂点に立つ高木の飲食人生は、こうしてスタートした。
むろん、大学受験のみがまっとうな進路ではない。ただ親からすれば、それを勧めるのが、まっとうなことなのだろう。
高木の父もまた、大学を受験せず、菓子職人になるという息子の決断を聞いて、「馬鹿をいうな」と怒鳴られたそうである。それから、互いに口もきかない日々が続いたそう。そして1ヵ月たったある日、もう一度決断を尋ねられ、高木はもう一度、「フランス菓子をやる、と答えた」という。
高木にすれば、進路を決定するうえで悩んだ末の結論だった。しかし、父にすれば、唐突すぎたのだろう。空白の1ヵ月間は、息子の思いを試す時間だったのかもしれない。
息子の決意を聞いて、父もまた自らの決断を口にする。
「やるなら真剣にやれ」「フランス菓子をしたいなら、フランスに行ける学校はどこだ?」。「辻調理師学校」とすぐに答えはしたが、躊躇する思いがないわけではなかった。入学金など諸々の費用がいちばん高かったからだ。
しかし「そういう問題じゃない」と父。「ただし、一つ約束しろ。もしフランスに行くことができなければ、菓子職人を諦めて大学に進学しろ」と、言われたそうである。
どういう思いでそれを口にされたのか。息子の決断を「良し」とされたのか、それとも…。
ともかく「辻調理師学校」を出発点にして、いまや菓子職人の頂点に立つ高木の飲食人生は、こうしてスタートした。
バターの香りに誘われて。
高木は1966年8月16日、東京都葛飾区に生まれる。
父はサラリーマンだったが、祖父はワイシャツ職人で、親戚は、萩焼職人という職人家系でもあった。
高木家は、高木が小学4年生の時に東京の葛飾から千葉に引っ越している。当時は光化学スモッグが激しく、妹が喘息を患ったための引越だったそうだ。
高木自身は、東京でも千葉でも変わらず、熱心な野球少年だったが、その一方で料理も好きな少年だった。
「私の母は、モノづくりが好きな人だったんです。菓子も手づくりしてくれていました。当時は、マドレーヌを良くつくってくれました」。
そのマドレーヌが、高木の人生をある意味決める、小さな、それでいて大きなきっかけとなる。
「マドレーヌを焼くたびに、オーブンからバターのすごくいい匂いがするんです」。
匂いに惹かれるように高木も母のとなりで菓子づくりを手伝った。
当時の様子を、高木はHPにも綴っている。
<少年の頃、母に内緒でつくったお菓子><帰ってきた母から、勝手に火を使って、と叱られる><しかし、お菓子を一口食べた母から、おいしいね、と言われた>と綴り、<母から人を喜ばすことの素晴らしさを学んだ>と結んでいる。
「おいしいね」、優しい母の一言は、少年の胸をふるわしたに違いない。
「中学3年生のときに『菓子職人になる』と母には言うんです。でも、その時、『高校くらい出ておいたら』と母が言うもので、そのまま高校に進学しました」。
高木は、頑なというより素直な心を持っている。人の意見を素直に聞く人なのである。ただし、大学受験は、何度言われても頑なに断ったようではあるが。・・・続き
父はサラリーマンだったが、祖父はワイシャツ職人で、親戚は、萩焼職人という職人家系でもあった。
高木家は、高木が小学4年生の時に東京の葛飾から千葉に引っ越している。当時は光化学スモッグが激しく、妹が喘息を患ったための引越だったそうだ。
高木自身は、東京でも千葉でも変わらず、熱心な野球少年だったが、その一方で料理も好きな少年だった。
「私の母は、モノづくりが好きな人だったんです。菓子も手づくりしてくれていました。当時は、マドレーヌを良くつくってくれました」。
そのマドレーヌが、高木の人生をある意味決める、小さな、それでいて大きなきっかけとなる。
「マドレーヌを焼くたびに、オーブンからバターのすごくいい匂いがするんです」。
匂いに惹かれるように高木も母のとなりで菓子づくりを手伝った。
当時の様子を、高木はHPにも綴っている。
<少年の頃、母に内緒でつくったお菓子><帰ってきた母から、勝手に火を使って、と叱られる><しかし、お菓子を一口食べた母から、おいしいね、と言われた>と綴り、<母から人を喜ばすことの素晴らしさを学んだ>と結んでいる。
「おいしいね」、優しい母の一言は、少年の胸をふるわしたに違いない。
「中学3年生のときに『菓子職人になる』と母には言うんです。でも、その時、『高校くらい出ておいたら』と母が言うもので、そのまま高校に進学しました」。
高木は、頑なというより素直な心を持っている。人の意見を素直に聞く人なのである。ただし、大学受験は、何度言われても頑なに断ったようではあるが。・・・続き
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