本文より~
1976年、生まれ。
須賀は、1976年11月15日、名古屋市の緑区に生まれる。3人兄弟の末っ子。
「祖父が船の上で料理長をしていました。退職後、陸に上がり洋食屋を開いたのがうちの始まりです。1978年、私が2歳の時に、父がフランス料理店を開きます。こちらはいま兄が継いでいるのですが、私は、このフランス料理店の三男坊として育ちました」。
幼い時の記憶では母に連れられ店を行き来し、ごはんを食べ、店の片隅で遊んでいたそうだ。もっともこれはフランス料理店ではなく、洋食店での話。料理人も、可愛がってくれたそうだ。
「母が、洋食店のほうにいたもんですから、よく出かけていきました。まさか、フレンチレストランのほうに行って、おもちゃで遊んでいるわけにはいかないでしょ(笑)」。
その話からも推測できるが、父が経営するフランス料理店は、当時の名古屋にはまだなかった本格的なフレンチレストランだったそうだ。
「非常に才能のある飲食店経営者」と須賀は父親のことをそう表現する。オーナーとして手腕を発揮されていたことを鮮明に記憶しているからだろう。
親交も広く、様々な業界の著名人とも交流が深かったという。もちろん、著名なフランス料理人とも付き合いがあったことは言うまでもない。
「当時の名古屋にはフレンチの料理人なんていませんでした。だから父は、1人上京して、現在、東京ドームホテルの総料理長をされている鎌田昭男氏や『フレンチの鉄人』の坂井宏行氏らに会いに行っては料理人を紹介してもらっていたそうです。関係ないですが、叔父も飲食の仕事をするようになります。私の周りに、少しずつ飲食の世界が広がっていきました」。
高校を卒業する段になって、須賀も飲食に興味を持ち「料理を勉強するために、フランスに行きたい」と父親に直訴している。
「兄二人が、大学に進学していたので、どういう風に言われるかと思っていたんですが…」と須賀。快諾だったそうである。
三男ということもあったかもしれない。ただ、それだけでもない気がする。
「息子をフランスで修業させる」。それはひょっとすればフランス料理店のオーナーである父の、ひそかな願いだったかもしれないと思うからだ。
ともあれ、三男坊の須賀は、フランスへ向かった。・・・続き
「祖父が船の上で料理長をしていました。退職後、陸に上がり洋食屋を開いたのがうちの始まりです。1978年、私が2歳の時に、父がフランス料理店を開きます。こちらはいま兄が継いでいるのですが、私は、このフランス料理店の三男坊として育ちました」。
幼い時の記憶では母に連れられ店を行き来し、ごはんを食べ、店の片隅で遊んでいたそうだ。もっともこれはフランス料理店ではなく、洋食店での話。料理人も、可愛がってくれたそうだ。
「母が、洋食店のほうにいたもんですから、よく出かけていきました。まさか、フレンチレストランのほうに行って、おもちゃで遊んでいるわけにはいかないでしょ(笑)」。
その話からも推測できるが、父が経営するフランス料理店は、当時の名古屋にはまだなかった本格的なフレンチレストランだったそうだ。
「非常に才能のある飲食店経営者」と須賀は父親のことをそう表現する。オーナーとして手腕を発揮されていたことを鮮明に記憶しているからだろう。
親交も広く、様々な業界の著名人とも交流が深かったという。もちろん、著名なフランス料理人とも付き合いがあったことは言うまでもない。
「当時の名古屋にはフレンチの料理人なんていませんでした。だから父は、1人上京して、現在、東京ドームホテルの総料理長をされている鎌田昭男氏や『フレンチの鉄人』の坂井宏行氏らに会いに行っては料理人を紹介してもらっていたそうです。関係ないですが、叔父も飲食の仕事をするようになります。私の周りに、少しずつ飲食の世界が広がっていきました」。
高校を卒業する段になって、須賀も飲食に興味を持ち「料理を勉強するために、フランスに行きたい」と父親に直訴している。
「兄二人が、大学に進学していたので、どういう風に言われるかと思っていたんですが…」と須賀。快諾だったそうである。
三男ということもあったかもしれない。ただ、それだけでもない気がする。
「息子をフランスで修業させる」。それはひょっとすればフランス料理店のオーナーである父の、ひそかな願いだったかもしれないと思うからだ。
ともあれ、三男坊の須賀は、フランスへ向かった。・・・続き
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