2014年4月28日月曜日

ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション エトワール シェフ 須賀洋介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション エトワール シェフ 須賀洋介氏登場。
本文より~

1976年、生まれ。

須賀は、1976年11月15日、名古屋市の緑区に生まれる。3人兄弟の末っ子。
「祖父が船の上で料理長をしていました。退職後、陸に上がり洋食屋を開いたのがうちの始まりです。1978年、私が2歳の時に、父がフランス料理店を開きます。こちらはいま兄が継いでいるのですが、私は、このフランス料理店の三男坊として育ちました」。
幼い時の記憶では母に連れられ店を行き来し、ごはんを食べ、店の片隅で遊んでいたそうだ。もっともこれはフランス料理店ではなく、洋食店での話。料理人も、可愛がってくれたそうだ。
「母が、洋食店のほうにいたもんですから、よく出かけていきました。まさか、フレンチレストランのほうに行って、おもちゃで遊んでいるわけにはいかないでしょ(笑)」。
その話からも推測できるが、父が経営するフランス料理店は、当時の名古屋にはまだなかった本格的なフレンチレストランだったそうだ。
「非常に才能のある飲食店経営者」と須賀は父親のことをそう表現する。オーナーとして手腕を発揮されていたことを鮮明に記憶しているからだろう。
親交も広く、様々な業界の著名人とも交流が深かったという。もちろん、著名なフランス料理人とも付き合いがあったことは言うまでもない。
「当時の名古屋にはフレンチの料理人なんていませんでした。だから父は、1人上京して、現在、東京ドームホテルの総料理長をされている鎌田昭男氏や『フレンチの鉄人』の坂井宏行氏らに会いに行っては料理人を紹介してもらっていたそうです。関係ないですが、叔父も飲食の仕事をするようになります。私の周りに、少しずつ飲食の世界が広がっていきました」。
高校を卒業する段になって、須賀も飲食に興味を持ち「料理を勉強するために、フランスに行きたい」と父親に直訴している。
「兄二人が、大学に進学していたので、どういう風に言われるかと思っていたんですが…」と須賀。快諾だったそうである。
三男ということもあったかもしれない。ただ、それだけでもない気がする。
「息子をフランスで修業させる」。それはひょっとすればフランス料理店のオーナーである父の、ひそかな願いだったかもしれないと思うからだ。
ともあれ、三男坊の須賀は、フランスへ向かった。・・・続き
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2014年4月27日日曜日

“ラジオ日本(AM1422kHz)” 『HILTEX presents ハードワーカーズ』に。

本日 “ラジオ日本(AM1422kHz)”にて放送中の
『HILTEX presents ハードワーカーズ』(4月よりスタート)に
ゲスト出演させて頂きました。
※本当に楽が出来ずハードワーカーです(笑)

『HILTEX presents ハードワーカーズ』は
4月からスタートした株式会社HILTEXの工藤幸生社長
パーソナリティ(アシスタント露木まどかさん)を務め
毎週ゲストに著名人、スポーツ選手、ビジネスマンを招いて
人生のターニングポイントや生き様をぶつけ合う本音トーク番組です。
 
今回BTUの北さんからご縁頂き、
マット安川さんのご紹介で、
出演させてもらい本当にありがとうございました。
 
オンエアは“ラジオ日本(AM1422kHz)”にて
5月23日(金)23時からですので、
是非ともご視聴ください。
 
 
 
 
 
  

2014年4月26日土曜日

社長特命課の横谷、アメリカ・フロリダ到着。

『ここ、どこや、よこや。』 
あっ、冗談言ってる場合ではありません。

キイストン社長特命課の横谷(よこや)、
無事アメリカ・フロリダに着きました。

ICU WORLD CHAMPIONSHIP(チアリーダーの世界大会)に
日本代表チームの一員として、
成田空港からの長旅、
機内の隣の座席の人、横谷のボディーの圧迫のなか無事かな・・・、心配。


練習
練習?
ちゃうやんけ、観光やんけ。

会場前で「Y~M・C・A ?」
(横谷、ざっくり3頭身でした)

キイストンは横谷が加入している
日本代表チーム応援しています。

4月25日(金)、夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”に「ティオスグループ」の石橋孝子オーナー登場。

大森を中心に様々な店舗をドミナント展開され、また福島・郡山の奥座敷・磐梯熱海温泉で離れの宿『よもぎ埜(よもぎの) 』も経営されている「ティオスグループ」の石橋孝子オーナー
4月25日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”(細見連載企画)に
ご登場いただきました。
『離婚したら、勘当された。子どもをかかえ、女ひとり、大森に来た。ただただ必死に働いた。・・・』(石橋孝子オーナー著書より)
株式会社ティオスグループ 代表取締役 石橋隆太郎氏はコチラから
 【ティオスグループの石橋孝子オーナー】
 
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2014年4月22日火曜日

京おばんざい“青家”の青家本店 オーナーシェフ 青山有紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”京おばんざい“青家”の青家本店 オーナーシェフ 青山有紀氏登場。
本文より~

子どもの頃の、青山有紀。

青山は1974年、京都に生まれる。5人家族で、姉と弟の3人兄弟で育ってきた。ご両親は飲食店を経営されていた。今も京都御所前で「談笑庵青山」という1日1組限定の料理屋を経営されているとのこと。もっとも「談笑庵青山」ができたのは、青山が高校生くらいの時で、子どもの頃の店とはスタイルもずいぶん違っているようだ。
子どもの頃のお話も伺った。
「小さい頃の記憶はあまりないし、楽しんでいた記憶もないんです。両親はお店が忙しかったでしょ。それに姉と弟がとても仲が良くって…。だから私は1人ぼっちのように感じていました」。
「姉は、とても綺麗な人だったんです。両親は宝物のように育てていました。そこにも幼いながら嫉妬心や不満を抱いていたんだと思います」。
青山は「ひがんでいた」という。しかし、子ども時代には、そういうケースが往々にしてある。「自分」というものがわからず、相手との距離もまた掴めないでいた。
青山が生まれたのは京都市内の中心。ビジネスや繁華街ではあったが、住んでいる人は少なかったのだろう。小学校は25人のクラスと小さな規模で、中学に上がっても3クラスだったという。高校で、ようやく普通の規模になったそうだ。
高校時代は、アルバイトにも精を出した。
「お小遣いが貰えなかったんです」と青山。先斗町や祇園にある飲食店でアルバイトをしていたとのこと。「ただし、当時から飲食業だけはやりたくなかった」と言っている。
理由を尋ねると、「両親の大変なところを見ていたからです。いくら頑張ってもお客様がいらっしゃらないことがある。そういったことも目にしていましたから」。
確かに、飲食店は大変だ。一方、大変な中にも楽しさがあるのだが、少女の青山には、両親が忙しく働く姿だけが刷り込まれていったのだった。・・・・続き
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社長特命課・横谷“キイストン”を世界にPRを・・・???

社長特命課の横谷、本日22日米国・フロリダに向け成田空港を出発しました。
なぜって?
そうです、社長特命課として“キイストン”を
世界にPRしに行ってくれました!!

 ?

あっ、メインはICU WORLD CHAMPIONSHIP(チアリーダーの世界大会)に
出場するためでした(笑)

なんと日本代表チームの一員としてでした!!

「<横谷> 出発前にお茶漬けを食べました」 
なんで俺がそれ伝えるの? (笑)

(日本代表チームの仲間の方たちと)
成田でWebメディアのインタビューを受けたそうです。

(今から乗りま~す)
横谷、抱き枕持参で機内に・・・?! 
(イェ~イ!!)

ちなみにエコノミーですが、
身体が座席シートに入るか心配です。


さあ、横谷の米国・フロリダの珍道中スタートしました!!



戦略型総合人材採用サービス会社キイストン 

2014年4月19日土曜日

社長特命課の横谷、ICU WORLD CHAMPIONSHIP(世界大会)へいざ出発!!

キイストン 社長特命課の横谷、
なんと
なんと
なんと

4月22日よりICU WORLD CHAMPIONSHIP(世界大会)に
日本代表チームの一員として出場するため、
米国・フロリダに出発しま〜す!

ガンバレ日本!
ガンバレ 横谷!



その横谷、大会前にも関わらず経営セミナーで講師の皆さんと写真撮ってもらってます。


4月18日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”に「鳥貴族」の大倉忠司社長登場。

8月から社員全員、週休2日制導入予定の280円均一の焼鳥屋「鳥貴族」の大倉忠司社長
4月18日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”にご登場いただきました。
今回は特別にカラー掲載です。(細見連載企画)
 【鳥貴族の大倉忠司社長
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2014年4月15日火曜日

4月、いよいよ京都(関西)初上陸!!  株式会社フランスフーズ オーナーシェフ 岸本直人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”4月、いよいよ京都(関西)初上陸!!  株式会社フランスフーズ オーナーシェフ 岸本直人氏登場。
本文より~
兄は走り屋。弟はTVの料理番組が好きなお調子者。


岸本は1966年12月29日、東京千駄ヶ谷に生まれる。2人兄弟の弟で、5歳上の兄がいる。父はカメラマンで、兄も現在、カメラマンをされているそうだ。
岸本は、菅原文太の「トラック野郎 一番星」が大好きな少年だった。
中学生になると料理が趣味となり、「天皇の料理番」や「料理天国」といったTV番組を見逃したことはなかった。
「お調子者だった」と岸本。「勉強はやらなかったですね。そもそもジッとしていることができない性格でした」という。
少年時代の兄は走り屋だったそうで、岸本も集会に何度か連れて行ってもらったことがある。兄の仲間も走り屋だった。当時のことについて岸本は、「自分は小さな頃からワンパク小僧だったけど、兄貴やその仲間の人達は、とても優しくしてくれました。色々連れていってもらえたことも覚えています。」と振り返っている。そして続けて、
「うちの両親は『人さまに迷惑をかけなければ自由にやりなさい』という方針でした。だからではありませんが、私も、兄も結構、好きにさせてもらっていました(笑)」と岸本。
団地住まい。友達はたっぷりいる。小学生の4年生から兄と手伝って新聞配達もした。学校では、半袖半ズボン賞を取ったこともある。
少年野球とサッカーに精を出した。代わりに、勉強はやらなかった。やればできると思っていた。そして、中学生になり、「天皇の料理番」や「料理天国」を食い入るように観るのである。華麗な料理の世界にどんどん魅了されていった。
卒業式では、仲間達が荒れないように兄に見回りを頼んだこともある。
「中学を卒業すれば、調理師学校に行くつもりだった」と岸本。しかし、母親から、せめて高校くらいはと諭されて、高校受験に切り替えた。だが、時、既に遅し。
たいていの高校の受験日は過ぎていた。
「結局、親の薦めもあって、長野県にある高校に進むことになったんです。2次募集をしていました。生徒が集まらないで困っているような学校だったんです。試験も、面接だけで、たいていの受験生がなんなく合格です」。

少年から大人へ。長野県のある高校での3年間。


「クラスは2つあって、ほぼ全員、寮生でした。6時30分に起床。その後1.4kmのランニング、準備運動、体操と続きます。冬は7時起床。風呂場から部屋まで歩くと、髪が凍りつくんです」。
日曜日は、マラソンが無かったが、点呼と門限はあった。
「初めは地獄でした。中学時代は、自由気ままにやってきたのが、いきなり団体生活で掃除、洗濯、身の回りの事は全て自分自身でやらなければならなかった」と岸本。
全く知らない人との共同生活。同じ学年でも年上が多かった。しかも全員、ごつい体をしていた。風呂に入った時にも、唖然とした。目の前の同期の体に刃物で切られた痕があったからだ。
先生たちも尋常ではない。熊みたいな人達ばかりだったそうだ。
「私らは常時監視されている様なもの。自由もない。朝が来れば強制的に走らされ、点呼を取られる。日曜日まで門限があって…。停学者、退学者は続出です」。
「私も、あの時はいつ抜け出そうかとそればかり考えていました。でもね。今になれば、逃げださないで良かったし、何より、あんな凄い学校に入れてもらえてよかった。親に感謝です。ぶち込んでいただいて本当に感謝、感謝」。
矯正施設の様な高校だったが、多少は、自由も利いた。冬はスキーに明け暮れた。バイトもした。夏はパチンコ店にも顔を出した。
ともあれ、長野の高校で過ごした3年間。それは、少年岸本が大人になる3年間でもあった。・・・続き
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2014年4月11日金曜日

4月11日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”は「ラムラ」の村川明社長登場。

あまりメディアに出られない「土風炉」「日本橋亭」「京町家」「鳥元」「過門香」など多業態の飲食店展開されている「ラムラ」の村川明社長
4月11日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”にご登場いただきました。 (細見連載企画)


【ラムラの村川明社長


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2014年4月9日水曜日

土風炉や日本橋亭、過門香でも有名な株式会社ラムラ 代表取締役 村川 明氏登場。

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本文より~

北海道の農家にて。「農業」が好きな少年が生まれる。


村川氏は、1952年4月26日、北海道のオホーツク海に面した小さな村で生まれた。父親はもともと農家をされていたそうだが、親戚が行っていたコンクリートの事業を手伝われるようになり、のちに社長まで務められるようになる。
村川氏は、11人兄妹の8男坊。広大な農地、豊かな自然、人と人の息遣い、それらすべてにみちた世界のなかで、村川氏はいつしか大きな心を育てていった気がする。
「父は、農業やっているくせに、農業がきらいだった(笑)。もともと頭がいい人だったから。それで、私が中学の頃かな。親戚の会社の手伝いをするようになる。その会社は、北海道の深川というところにあったんです。こちらも小さな町ですが、それでも私には都会に思えたんですね」。
村川氏が深川市に移り住んだのは、中学1年の時から。ところが、便利なはずの都会の生活に1年で飽きてしまう。
「スイッチを入れれば、ごはんも炊けるでしょ。マキもいらない。便利だけど何もすることがない。農家が、すごく恋しくなった(笑)」。
父に許可をもらい、もとの農家へ。
「あの時はさぁ、朝がくるのがたのしみでね」。
北海道の朝はいうまでもなく寒い。オホーツクから吹き付ける風は刃のようだったろう。しかし、少年の村川氏は、その朝がくるのを何より楽しみにしていた。
「都会に行って改めて、農業の仕事のたのしさに気づいたからでしょう。農家の仕事がとっても好きになっちゃうんですよ」。
野良仕事、牛や羊の世話。
「首筋をなでると、可愛い顔をする。そりゃ楽しいですよ」。牛にも、馬にも、羊にも接した。どこまでもつづく広い大地。畑を耕し、手にはいくつものマメができる。村川氏にとって、何の問題もなかった。冬の凍えるような寒さもバネにしながら、氏は強い心を育てていったに違いない。・・・・続き
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