本文より~
兄は走り屋。弟はTVの料理番組が好きなお調子者。
岸本は1966年12月29日、東京千駄ヶ谷に生まれる。2人兄弟の弟で、5歳上の兄がいる。父はカメラマンで、兄も現在、カメラマンをされているそうだ。
岸本は、菅原文太の「トラック野郎 一番星」が大好きな少年だった。
中学生になると料理が趣味となり、「天皇の料理番」や「料理天国」といったTV番組を見逃したことはなかった。
「お調子者だった」と岸本。「勉強はやらなかったですね。そもそもジッとしていることができない性格でした」という。
少年時代の兄は走り屋だったそうで、岸本も集会に何度か連れて行ってもらったことがある。兄の仲間も走り屋だった。当時のことについて岸本は、「自分は小さな頃からワンパク小僧だったけど、兄貴やその仲間の人達は、とても優しくしてくれました。色々連れていってもらえたことも覚えています。」と振り返っている。そして続けて、
「うちの両親は『人さまに迷惑をかけなければ自由にやりなさい』という方針でした。だからではありませんが、私も、兄も結構、好きにさせてもらっていました(笑)」と岸本。
団地住まい。友達はたっぷりいる。小学生の4年生から兄と手伝って新聞配達もした。学校では、半袖半ズボン賞を取ったこともある。
少年野球とサッカーに精を出した。代わりに、勉強はやらなかった。やればできると思っていた。そして、中学生になり、「天皇の料理番」や「料理天国」を食い入るように観るのである。華麗な料理の世界にどんどん魅了されていった。
卒業式では、仲間達が荒れないように兄に見回りを頼んだこともある。
「中学を卒業すれば、調理師学校に行くつもりだった」と岸本。しかし、母親から、せめて高校くらいはと諭されて、高校受験に切り替えた。だが、時、既に遅し。
たいていの高校の受験日は過ぎていた。
「結局、親の薦めもあって、長野県にある高校に進むことになったんです。2次募集をしていました。生徒が集まらないで困っているような学校だったんです。試験も、面接だけで、たいていの受験生がなんなく合格です」。
岸本は、菅原文太の「トラック野郎 一番星」が大好きな少年だった。
中学生になると料理が趣味となり、「天皇の料理番」や「料理天国」といったTV番組を見逃したことはなかった。
「お調子者だった」と岸本。「勉強はやらなかったですね。そもそもジッとしていることができない性格でした」という。
少年時代の兄は走り屋だったそうで、岸本も集会に何度か連れて行ってもらったことがある。兄の仲間も走り屋だった。当時のことについて岸本は、「自分は小さな頃からワンパク小僧だったけど、兄貴やその仲間の人達は、とても優しくしてくれました。色々連れていってもらえたことも覚えています。」と振り返っている。そして続けて、
「うちの両親は『人さまに迷惑をかけなければ自由にやりなさい』という方針でした。だからではありませんが、私も、兄も結構、好きにさせてもらっていました(笑)」と岸本。
団地住まい。友達はたっぷりいる。小学生の4年生から兄と手伝って新聞配達もした。学校では、半袖半ズボン賞を取ったこともある。
少年野球とサッカーに精を出した。代わりに、勉強はやらなかった。やればできると思っていた。そして、中学生になり、「天皇の料理番」や「料理天国」を食い入るように観るのである。華麗な料理の世界にどんどん魅了されていった。
卒業式では、仲間達が荒れないように兄に見回りを頼んだこともある。
「中学を卒業すれば、調理師学校に行くつもりだった」と岸本。しかし、母親から、せめて高校くらいはと諭されて、高校受験に切り替えた。だが、時、既に遅し。
たいていの高校の受験日は過ぎていた。
「結局、親の薦めもあって、長野県にある高校に進むことになったんです。2次募集をしていました。生徒が集まらないで困っているような学校だったんです。試験も、面接だけで、たいていの受験生がなんなく合格です」。
少年から大人へ。長野県のある高校での3年間。
「クラスは2つあって、ほぼ全員、寮生でした。6時30分に起床。その後1.4kmのランニング、準備運動、体操と続きます。冬は7時起床。風呂場から部屋まで歩くと、髪が凍りつくんです」。
日曜日は、マラソンが無かったが、点呼と門限はあった。
「初めは地獄でした。中学時代は、自由気ままにやってきたのが、いきなり団体生活で掃除、洗濯、身の回りの事は全て自分自身でやらなければならなかった」と岸本。
全く知らない人との共同生活。同じ学年でも年上が多かった。しかも全員、ごつい体をしていた。風呂に入った時にも、唖然とした。目の前の同期の体に刃物で切られた痕があったからだ。
先生たちも尋常ではない。熊みたいな人達ばかりだったそうだ。
「私らは常時監視されている様なもの。自由もない。朝が来れば強制的に走らされ、点呼を取られる。日曜日まで門限があって…。停学者、退学者は続出です」。
「私も、あの時はいつ抜け出そうかとそればかり考えていました。でもね。今になれば、逃げださないで良かったし、何より、あんな凄い学校に入れてもらえてよかった。親に感謝です。ぶち込んでいただいて本当に感謝、感謝」。
矯正施設の様な高校だったが、多少は、自由も利いた。冬はスキーに明け暮れた。バイトもした。夏はパチンコ店にも顔を出した。
ともあれ、長野の高校で過ごした3年間。それは、少年岸本が大人になる3年間でもあった。・・・続き
日曜日は、マラソンが無かったが、点呼と門限はあった。
「初めは地獄でした。中学時代は、自由気ままにやってきたのが、いきなり団体生活で掃除、洗濯、身の回りの事は全て自分自身でやらなければならなかった」と岸本。
全く知らない人との共同生活。同じ学年でも年上が多かった。しかも全員、ごつい体をしていた。風呂に入った時にも、唖然とした。目の前の同期の体に刃物で切られた痕があったからだ。
先生たちも尋常ではない。熊みたいな人達ばかりだったそうだ。
「私らは常時監視されている様なもの。自由もない。朝が来れば強制的に走らされ、点呼を取られる。日曜日まで門限があって…。停学者、退学者は続出です」。
「私も、あの時はいつ抜け出そうかとそればかり考えていました。でもね。今になれば、逃げださないで良かったし、何より、あんな凄い学校に入れてもらえてよかった。親に感謝です。ぶち込んでいただいて本当に感謝、感謝」。
矯正施設の様な高校だったが、多少は、自由も利いた。冬はスキーに明け暮れた。バイトもした。夏はパチンコ店にも顔を出した。
ともあれ、長野の高校で過ごした3年間。それは、少年岸本が大人になる3年間でもあった。・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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