本文より~
千里ニュータウン。
1970年、大阪市吹田市で「万国博覧会」が開催されると同時に、吹田市はニュータウンとして多くの人口を抱えることになる。
「千里ニュータウン」という名称もついた。
「ニュータウンには戸建ての一軒家や文化住宅、公団などいろんな層の人が混在していた」と東浦。東浦は、万博が幕を閉じた翌年の1972年にこの千里ニュータウンの一角で生まれている。
「父親は公務員。姉弟は3人で、姉が2人いました。小さい頃は17時45分には両親→父が帰って来て、18時に夕飯を食べるのが当たり前だった」と東浦はふりかえる。東浦家は、職員専用の宿舎に暮らしていたが、周りには億はくだらない大きな家もあり、たくさんの公団住宅も建っていたそうだ。
いろんな人が住んでいたのもそのためで、幼馴染や同級生には、たとえば関西でも屈指の総合病院医院長の息子さんもいたという。
そういうさまざまな家庭の少年たちと野球チームでいっしょになり、ポジションを争った。
「小学1年生から、父親がコーチを務める軟式の野球チームに入りました。けっこう人数が多く、おなじポジションに3~4人の選手がいて、A~Cまでわけられていました。練習を休むとレギュラーを下ろされてしまうので、休めません(笑)。盆や正月に旅行にいくぐらいで…。」
3年生から公式試合がはじまり、以来、小学校を卒業する時まで、俊足の左打者として1番を打ち、セカンドを守っていたそうだ。チームの成績をたずねると、「最高で」と断りながら、「地域2位」と言う。一つ下の代が強くて1位となっているそうだ。ちなみに、学年はちがうが対戦したこともある、とあるチームに元ヤクルトの宮本慎也選手がいたそうである。
「千里ニュータウン」という名称もついた。
「ニュータウンには戸建ての一軒家や文化住宅、公団などいろんな層の人が混在していた」と東浦。東浦は、万博が幕を閉じた翌年の1972年にこの千里ニュータウンの一角で生まれている。
「父親は公務員。姉弟は3人で、姉が2人いました。小さい頃は17時45分には両親→父が帰って来て、18時に夕飯を食べるのが当たり前だった」と東浦はふりかえる。東浦家は、職員専用の宿舎に暮らしていたが、周りには億はくだらない大きな家もあり、たくさんの公団住宅も建っていたそうだ。
いろんな人が住んでいたのもそのためで、幼馴染や同級生には、たとえば関西でも屈指の総合病院医院長の息子さんもいたという。
そういうさまざまな家庭の少年たちと野球チームでいっしょになり、ポジションを争った。
「小学1年生から、父親がコーチを務める軟式の野球チームに入りました。けっこう人数が多く、おなじポジションに3~4人の選手がいて、A~Cまでわけられていました。練習を休むとレギュラーを下ろされてしまうので、休めません(笑)。盆や正月に旅行にいくぐらいで…。」
3年生から公式試合がはじまり、以来、小学校を卒業する時まで、俊足の左打者として1番を打ち、セカンドを守っていたそうだ。チームの成績をたずねると、「最高で」と断りながら、「地域2位」と言う。一つ下の代が強くて1位となっているそうだ。ちなみに、学年はちがうが対戦したこともある、とあるチームに元ヤクルトの宮本慎也選手がいたそうである。
野球、バスケット、テニス、水泳。
小学6年まで野球をつづけた東浦だが、中学生になるとバスケットボールに転向する。野球は6年つづけたが、こちらは半年で退部した。
2年の春には、仲のいい友人と2人してテニス部へ入った。
だが、こちらも水にあわなかったようだ。「基礎練習しかやらせてくれない」という理由で退部している。5月の終わりくらいになると、今度は2人して水泳部に入部する。
あっちへいったり、こっちへいったりいそがしい。
ところが、この水泳部が水に合った。
「最初に先生から、『春は涼しいからテニスで、夏は暑いから水泳か』と言われました。そういうつもりでありませんでしたから『ちゃんとやります』と、言ってしまうわけです(笑)」
言葉通り、猛練習にも耐えた。夏休みには、毎日10キロも泳いだそうだ。
「女子ばかりのクラブだったので、知り合いを誘って、男子部員を10人ほど確保しました。これが先生たちに評価され、3年生の時には部長に選ばれました」。
もともと運動神経に恵まれている。やったこともない50mバタフライで「市の大会に出場し、決勝まで進んだ」とのことだ。
「当時はまだ規制がなかったので、ドルフフィンキックで半分以上まで行って、あと2、3回だけ、バタフライしたらそこがゴールでした。それで、決勝まで行ってしまったんです(笑)」。「ところがそのあと『予定があるから』と言って、ツレと喫茶店へ。顧問の先生が、私を探すために、走りまわっていたということです」。
こちらはいまだに笑い話のネタの一つになっているそうだ。・・・続き
2年の春には、仲のいい友人と2人してテニス部へ入った。
だが、こちらも水にあわなかったようだ。「基礎練習しかやらせてくれない」という理由で退部している。5月の終わりくらいになると、今度は2人して水泳部に入部する。
あっちへいったり、こっちへいったりいそがしい。
ところが、この水泳部が水に合った。
「最初に先生から、『春は涼しいからテニスで、夏は暑いから水泳か』と言われました。そういうつもりでありませんでしたから『ちゃんとやります』と、言ってしまうわけです(笑)」
言葉通り、猛練習にも耐えた。夏休みには、毎日10キロも泳いだそうだ。
「女子ばかりのクラブだったので、知り合いを誘って、男子部員を10人ほど確保しました。これが先生たちに評価され、3年生の時には部長に選ばれました」。
もともと運動神経に恵まれている。やったこともない50mバタフライで「市の大会に出場し、決勝まで進んだ」とのことだ。
「当時はまだ規制がなかったので、ドルフフィンキックで半分以上まで行って、あと2、3回だけ、バタフライしたらそこがゴールでした。それで、決勝まで行ってしまったんです(笑)」。「ところがそのあと『予定があるから』と言って、ツレと喫茶店へ。顧問の先生が、私を探すために、走りまわっていたということです」。
こちらはいまだに笑い話のネタの一つになっているそうだ。・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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