2014年6月27日金曜日

6月27日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”に「くろぎ」の黒木純オーナー料理長登場。

6月27日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”(細見連載企画)に
「くろぎの黒木純オーナー料理長取り上げさせてもらいました。 
今回も特別にカラー記事です。
黒木純氏は、フジテレビ系列で放送されていた料理をテーマにした『アイアンシェフ』(2012年10月26日から2013年3月22日)にも出演されていました。
この5月14日に東京大学本郷キャンパス内に「廚菓子くろぎ」をオープン。
「くろぎの黒木純オーナー料理長】 

(アイアンシェフより)

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2014年6月26日木曜日

千葉商科大学・池田ゼミにてドリーマーズの中村社長が講義を。

6月24日(火)は、千葉商科大学の池田先生(サービス創造学部)のゼミにて
ドリーマーズの中村社長の講義でした。
中村社長のスーツ姿見るの初めてかも・・・(笑)
(熱血 中村先生って感じです)
(千葉商科大学の学生の皆さんは熱心です)
(質問多かったな~)
キイストンは大学のゼミ講義を通じ、飲食経営者と学生をつなぐプロジェクト続けています。

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2014年6月24日火曜日

株式会社エル・ディー・アンド・ケイ 代表取締役 社長/オーナー 大谷秀政氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社エル・ディー・アンド・ケイ 代表取締役 社長/オーナー 大谷秀政氏登場。
本文より~

母親の、しつけ。

男3人兄弟の真ん中、つまり次男坊である。兄とはしょっちゅう喧嘩する仲だった。
「ちょっと早く生まれただけで、たいして強くないのに偉そうにしている兄貴に、いつも腹が立った」。
「包丁を振り回して家中を追いかけることもあった」というから、兄弟げんかどころの騒ぎではない。
大谷はのちに、「年功序列の社会は、俺には無理」と思うようになるのだが、それもまたこの頃の体験がもとになっているのかもしれない。
ところで、やんちゃな息子3人の面倒で、母親もさぞかし大変だったのでは、と心配にもなったが、案外、平然とされていたようだ。
「母親自身の兄弟たちに比べたら、ぼくらの方がはるかにマシだといっていました」。母は7人兄弟の大家族だった。10代で父親が亡くなったため、若いうちから兄弟の面倒を見ることになった。この兄弟たちがすさまじかった、ということなのだろう。
「私が、警察の世話になった時も、全然、動揺していなかった(笑)。普通なら、何をしたんだ、って聞くと思うんですが、何も聞かない。自分でやったことは、自分で始末をつけろというのが母親の教育でした」。
大谷の「自分で、何でもやってみよう」「ダメなら違うやり方でまたやればいい」「自分の力を信じよう」という考え方に、母親の影響が色濃く表れている。
一方、父親は祖父が築いた建設会社の2代目社長。商売が下手で、変に職人気質。 当時主流になり始めていたツーバイフォー工法も「あんなものはダメ、俺は絶対やらない」と言い放っていたらしい。
大谷は、「典型的な2代目ダメ社長。時代の流れ、バブルの波に乗れなかった不器用な人だった」と語っている。
一見、批判的にも思えるが、「不器用な人」という一言に、父を愛する大谷の気持ちが潜んでいる気がする。

人生のピークは小・中学生時代?

小・中学校時代はいわゆる目立つ子。勉強もできたし、やんちゃぶりもしっかり発揮。小学校の入学式では強そうなやつには片っ端から突っかかっていた。
ツッパリ全盛のリアル金八世代。
短距離走は学校で1番。100mを11秒代前半で走ったというから大変なものだ。「中学生の時が自分のモテ期ピーク。あの時代は足が速かったらモテたんですよ」と笑う。
中学入学当初はおそらくトップクラスだった学力がみるみる落ちていった。
「努力ができないんですよ。数学って努力いるでしょ。ほかの教科は地頭で何とかなったんですけど」。
実家が建設会社という理由だけで数学ができないくせに理系を選択。「最大の失敗」。まったく授業についていけず、数学の授業には漢文やほかの勉強をしていたという。
「担任にも言ったんですよ。俺、やっぱり数学はダメ、文系でいくからって」。
ただ、建築への興味まで失ったわけではなかったようだ。
大谷は、のちに空間プロデュースを生業にするのだが、それもまた建築に興味があったからに違いない。それは、ともかく、結局、文系での受験を経て、日本大学へ進学する。
「受かりそうな大学だけを選択したから当然なんですが、狙い通り全部、合格しました。いくら合格しても、行けるのは、ただ一つだけなんですけども(笑)」。
合格したなかでも一番行きたかったのは日芸だったそうだが。
「学費が高くて。当時、日大の倍ほどかかったんですよ。親から、無理って言われて。受ける前に言っといてくれよって(笑)」。・・・続き
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2014年6月20日金曜日

2014年6月18日水曜日

イル ギオットーネ オーナーシェフ 笹島保弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”イル ギオットーネ オーナーシェフ 笹島保弘氏登場。
本文より~

「いい点数を取ると友だちに引かれてしまうから」。感性豊かな少年時代の話。

笹島が生まれたのは1964年1月22日。大阪府吹田市出身で、2人兄弟。
子どもの頃は、本を読むのが好きで「小説家になりたかった」と笹島。祖母の影響で考古学にも興味があったそうだ。
体を動かすことも好きだったが、それよりもクリエイティブなものに関心があった。
どこか大人びたクールな少年というイメージだろうか。
小学校の頃から成績はよかったが、中学になるとテストの点数も隠すようになる。勉強もしなくなっていった。「友だちの手前というか、あまりいい点を取ると引かれてしまうでしょ。だから、だんだん成績がいいのを隠すようになったんです」とナイーブな一面も覗かせる。
料理との出会いは、高校時代のアルバイト。
「17歳の時です。仲が良かった先輩の紹介で高級料理店で、バイトをさせてもらいました」。接客を通じ、初めて社会との繋がりを感じた。お金ではなく、働くことの楽しさや面白みを実感したのも、この時。「同級生といるよりも、社会人といるほうが楽しかった」と言っている。結局、笹島は、そのバイト先に就職した。

キッチンが足りない!

バイト時代もそうだが正社員になっても、先輩たちから可愛がられた。もちろん、厳しい一面もあったが苦に思ったことはなかった。ただし、ホールで就職したつもりが、人手が足りないからとキッチンに回された時には唖然とした。キッチンのノウハウは何一つなかったからである。
「とにかく洗いものです。洗い物以外は、危なっかしくて任せられなかったのでしょうね。『いいよ、お前は』って」。
大阪の御堂筋線の「江坂」駅近くにある人気店だった。「とにかく、忙しいのに人がいない。5~6人は必要な店なのに、私を合わせて3人しかいません。それでも先輩たちは気を遣ってくれて。飯に行ってこいよとか、優しい言葉もかけてくれました」。
先輩たちの優しさに、頭を下げた。その一方で、何もできない己を腹立たしく思った。「キッチンが足りない? 全然、解決していないじゃないか!」。

バイト代は、いらないからと頼み込んで、働いた。

「せっかくキッチンに入ったわけですよね。でも、皿洗いしかできない。先輩たちの手助けもできない。飯も食べずに頑張っている先輩たちを見ているから余計に腹が立った。それで考えたんです。キッチンで何が困っているか。すると魚や肉を下すことだったんです」。
「それで店には内緒で魚屋さんや鶏肉屋さんに行って、バイト代はいらないからと頼み込んで、働かせてもらいました。店が休みの日だけですが、それでもいい訓練になりました。ある程度できるようになった時、先輩に一度やらさせてくださいといって披露してみたら、『案外、できるじゃないか』ってことになって(笑)」。
笹島の料理人生の一歩は、たしかに、この時。
カレーも、シチューも、ハンバーグも、全然作れなかった少年が、やがてレシピまで理解するようになる。料理の奥は深い。金銭には代えられないほどの、感動が少年を包む。この時、笹島は17歳。社会人1年生でもあった。・・・続き
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JR電車中吊り (by株式会社どん)


(2014年6月16日・17日)

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2014年6月16日月曜日

【4年後の肩書きはグループ会社の海外執行役員(20代対象)】株式会社どん。

吉野家グループの“ステーキのどん”
(JR京浜東北線・中央線・総武線・埼京線に中吊り広告掲示/16・17日)




日本のフードサービスには、大きな可能性があります。

もっと世界に発信していくには、やはり人財です。


インターンシップを実施されます。

詳しくはこちらまで→リアル経済大学

2014年6月15日日曜日

日々感謝。

・仕事があるということ
・取引先が多いこと
・働いてくれる仲間がいること
・優秀なブレーンの皆さんにサポート頂いてること
・身体が元気なこと

本当にありがたいです。

任せて頂ける企業様がいてくださるがゆえ、
頑張ねばと思えます。

飲食の戦士たちのおかげで、
複数の企業様のトップと接点持たせて頂きました。

退職していった社員が基礎作ってくれ、
厳しい時でも辞めずに頑張ってくれた社員がいたからこそ今があります。

1年以上も納品すら出来てないのに自分勝手なブレーンがいるおかげで、
今のブレーンの方の有難味がわかります。

家内ご毎朝の野菜ジュースを作ってくれ 
食事にも気を使ってくれるのでハードな日々が続いても独立して22年ずっと元気です。

昔は当たり前と思ってたことが、
今では日々感謝と有難さ実感してます。

2014年6月10日火曜日

リストランテMASSA オーナーシェフ 神戸勝彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”リストランテMASSA オーナーシェフ 神戸勝彦氏登場。
本文より~

果樹園の下で。

果樹園が広がっていた。神戸勝彦の小さな頃の記憶である。
「もともと祖父が稲作をやり、次に果樹園を始めた。それを私の父親が引き継いだんです。兄弟は3人。弟と妹がいました。小学校は1クラスだけで40人です」。
山梨市。県名と同じだが、山梨の県庁所在地は、山梨市より西にある甲府市である。「人口3万人くらい」と神戸。「農業やっていると結婚できないんです。嫁さんが来ないから(笑)」。過疎化は、現在進行形だそうだ。
神戸が子どもの頃も、人口が多かったわけではない。もっとも山梨市の駅の近くには料理店も多く、うち2軒の中華調理店は、神戸の親戚が経営されていたそうである。「子どもの頃は良く食べに連れてもらった」といって目を細める。
神戸が初めて料理をしたのは、小学校4年生の時。
「同級生に和菓子屋の子供がいて、その子のうちでクッキーをつくったのが最初ですね。小学4年生でした」。
中学校になると生徒も増え、6クラスになった。高校では11クラス。高校は山梨でも有名な日川高校。
「林 真理子さんやジャンボ鶴田さんも卒業生なんです」と神戸。ちなみに調べてみると両氏以外にも、有名人、著名人、政治家も名を連ねていた。彼らの中には、山梨に残った人もいるのだろうが、大半は山梨をあとにして、東京へと旅立っていったのではないか。神戸も、その1人である。

海外1人旅。

「色々なものを見たかった」と神戸。神戸もまた山梨を離れ、東京の駒澤大学に進学する。むろん、独り暮らし。「授業にはちゃんと出席していました。その一方で、バイトにも精を出しました。もっともバイト先は一か所で下北沢の和食店です。4年間働きました」。
「食材に対する考え方を教えていただいたのはこちらの店。卒業する頃には、すでにイタリア料理をしようと決意していたのですが、それもこちらの大将の影響が大きかったように思います」。
神戸にとって、かけがえのない一つの縁がそこにはあった。
一方、色々なものを見たかったという思い通り、海外も旅行した。2年の夏にアメリカへ2ヵ月、3年夏にヨーロッパへ2ヵ月半。春休みには、東南アジアへ3週間。
大学4年時には既にイタリア料理をやりたいと思っていたので、フィレンツェの語学学校へ3ヵ月留学。卒業時、1ヵ月さらに留学した。こちらもまた縁である。
海外を見て、また留学して、「自分のちっぽけさ」を痛感したという。
ちなみに、旅行といっても、優雅な旅ではない。リュックサック一つ背負ってグレイハウンドバスに乗り旅に出た。
「アメリカはサンフランシスコから入って、オレゴン、バンクーバー方面に行き、飛行機でワシントンまで行って、ニューヨークへ、そこから南下してマイアミ、キーウェストまで行きヒューストン、ダラスを回り、テキサス州に行き、ラスベガス、ロサンゼルスに行って、そこからアウトしました」。3日に1回はずっとバスの中だった。1泊10ドルほどのユースホテルにも泊まった。2ヵ月間の旅費が30~40万円。「困らない程度には英語が話せるようになった」そうだ。ヨーロッパの旅もある意味凄まじい。
「ロンドンから入って、アムステルダム、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリアに行きイスタンブールから飛行機でチューリッヒへ行き、パリ、スペイン、ポルトガル、ニースの方に行きベニス、イタリアを回った」とのこと。
いずれも独り旅である。
未知なるものに対する強い想い。そういう想いが神戸のなかに渦巻いている証の一つだろう。むろん、「イタリア料理を」と思ったのも、この旅のお土産の一つだった。
そして、留学して分かったことは、自分の小ささと、自分は色々な人に支えられてここまで生きてこれたということだった。
帰国後、料理人を目指すと打ち明けたところ、家族や親戚に大反対された。ただ、せっかくの1度の自分の人生、とのことで神戸は料理人として目指すことを決意した。・・・続き
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海外からの案件増えています。

アラブ首長国連邦以外に、オーストラリアのカフェチェーン、フィリピンの最大手飲食グループ、中国のファーストフーズに日本食出店と急に海外から日本飲食企業との提携、日本食出店案件が入ってきてます。
キイストンのビジネス構想の一つである海外ビジネス展開。
コツコツと着実に動いています。


2014年6月6日金曜日

6月6日(金)の夕刊フジに「やぶやグループ」の横瀬武夫社長登場。

6月6日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”(細見連載企画)に
「やぶやグループ」の横瀬武夫社長取り上げさせてもらいました。 
今は全て東京集約でやってますが、当時名古屋オフィス立ち上げた時、大変お世話になったことで、現在の東海地区との基盤作らせてもらいました。
もう直ぐ、新たなに横瀬社長の書籍出ます。乞うご期待ください。


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2014年6月3日火曜日

株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏登場。
本文より~

福建省、出身。

藤井は1978年5月15日、中国の福建省に生まれる。福建省といえばウーロン茶の宣伝で知られた日本人の我々にもなじみがある。だが、CMの映像から勝手に内陸部だと思い込んできた。今回、藤井をインタビューするなかで「魚や貝を良く食べた」という話が出てきたので、改めて調べてみると台湾の対岸に位置する沿岸の都市だった。
「うちのお婆ちゃんが、残留孤児だったんです。私が12歳の時にお婆ちゃんが日本に帰国することになりました。祖母と叔父が私たちより1年早く日本に向かい、翌年の1990年に親族合わせて200人くらいで日本に渡りました。そうですね、当時の日本といったらバブルの真っ最中です。不安よりもむしろ凄い国に移住するんだという期待の方が大きかった気がします」。
「父は福建省ではタクシーの運転手をしていました。タクシーと言いましたが、日本のタクシーとは違って三輪車です。15人くらい乗れる大型の三輪車で、生活はそれほど貧しくありませんでした。それでも、経済大国の日本には憧れていました。大人たちは、我々子どもと違って不安もあったんでしょうが…。」
12歳。日本では小学6年生となる。
「日本に来て住んだのは、横浜の本牧というところです。来日して、しばらくは3階建ての住居の3階に3家族が住んでいました。ちょうど1Fと2Fが弁当屋で、親族そろってそちらでアルバイトをさせてもらっていたからです」。
当時、横浜の本牧には中国の方がたくさん住んでおられたそうだ。

12歳の少年、バナナに驚く。

日本に来ていちばん驚いたことはなんですか?という問いに、藤井は、可笑しげに「バナナ」といった。「当時、中国ではバナナは高価だったんです。年に1度食べられるかどうかという。それが日本に来たら食べ放題だったわけで、それがいちばん驚いたことです(笑)」。
バナナは腹いっぱい食べられたが、けっして裕福なわけではなかった。残留孤児といっても、国からの支援は何もなかったという。
「父は自動車関連の工場で勤務していました。工場内は、とても暑いといっていました。耐えきれず辞める人も多かったようです。ただ、中国人の父は辞めるわけにはいかなかった。お金を稼がなければいけないから、残業する人を募られると真っ先に手を挙げていたそうです」。
父は勤勉を絵に描いたような人だった。母も父も倹約家で、とことん切り詰めた生活。
「当時、いちばんたいへんだったのは、父が仕事の最中に誤って指を切断してしまったこと」と藤井。
母も仕事をしていたが、父が家族の生活を支えていたからだ。幸い、父は半年で復帰。話を聞いていると、父の頑張りが目に浮かぶようだ。交通費を切り詰めるため、1時間半かけ工場と自宅を自転車で往復されていたらしい。会社からの評価は高く、契約社員から正社員に昇格している。・・・・続き
株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏
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