2014年7月31日木曜日

有限会社竹がみ 主人 神谷昌孝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社竹がみ 主人 神谷昌孝氏登場。
本文より~

料理人に憧れて。

「パーマの実験台になったこともある」と言って、神谷は子どもの頃を振り返る。父親が理髪店を営んでおり、子どもの頃は父親から「散髪屋になれ」と言われたこともあるそうだ。父親は逆らえない存在で、スパルタだったと笑う。
神谷は戦後間もなくの1947年、北側には愛宕山を仰ぎ、南側には三河湾を望む、山にも海にも囲まれた風光明媚な町、愛知県幡豆郡幡豆町(現在の西尾市)に生まれている。男4人、女3人の7人兄弟の4男坊。ともかく、わんぱくだったらしい。
「おかげで、うちの散髪屋には子どもが誰も来ないんです」と言って笑う。小学校に上がってからはガキ大将になった。野球部に所属。成績は、「まぁ、そこそこ」だったそうである。
中学に上がってからは、テニス部に所属。「試合で負けなし」というのだから、巧かったのだろう。一方、海に行ってはカニを獲ったり、ナマコを獲ったりしていたそうである。
料理に関心を持ったのは、親戚の家に遊びに行ったことがきっかけ。
「叔母が食堂をやっていまして、夏休みに遊びに行くと親子丼などいろいろなものを食べさせてくれたんです。板前さんもいて『かっこいいな』と思ったのが料理に興味を抱くきっかけです」。
中学を卒業する頃になると、父から「散髪屋に修業に行け」と言われる。しかし、その時にははっきりと「料理人という職業を意識するようになっていた」そうだ。
だから、神谷は高校に進学せず、「料理人になるべく修業を始めよう」という選択をする。15歳の、決断だった。

15歳。料理の道に進む。

神谷が15歳といえばまだ1962年のことである。当時の板前修業とは?
当時の話も伺った。
「私は、名古屋の奥座敷といわれた渓谷・定光寺の「千歳櫻」で働き始めます。200人はいる大きな旅館です。もちろん今と比較することはできません…」、そう断ってから神谷は当時の話をしてくれた。
「料理人は、裸足のままなんです。これがきつかった。大きな旅館だったものですから、夜中の2時まで洗い物です。足は全部霜焼けで痛い思いもしました。先輩は任侠のような人ばかりで(笑)」。
ガキ大将だったはずの神谷も、さすがに厳しい先輩たちが部下を叱責する様子には息を呑んだことだろうと思っていたが、神谷にとっては、そう怖い存在でもなかったらしい。
「私は、一番小さかったということもあってね。とても可愛がってもらいました。もっとも私は、先輩の言うままに、すぐに煮物を作ったり、魚を下ろせたりしましたので、余計に可愛がってもらえたんだと思います。色々教えてもいただきました。私が要領良く仕事をこなすものですから、教えるほうも気持ちが良かったのではないでしょうか」。
可愛がられたといっても、仕事が楽になるわけではない。言い方を替えれば、「これも、あれも」と何倍も働かされたことになる。霜焼けした足で、駆け回る15歳の少年。それは思い描いていた料理人の姿だったのだろうか。

料理人神谷、上京ス。

「先輩達に言われるまま料理を勉強していた頃です。ある日、日本で一番の料理人が、うちの旅館に来てくださったんですね。この人に出会って、料理というのは凄いな、料理人は格好いいなと改めて思いました」。
この日本一の料理人の来訪が、神谷の視界を広げた。京都に出て本格的に日本料理を学んだのも、この人との出会いがあったから。そして21歳になった神谷は、東京へ向かうことになる。修業を開始して6年、年齢は若かったが、いっぱしの料理人である。
「赤坂の『きくみ』という店に行きました。こちらに来ても、休みは全然無かったです(笑)」。
この頃になると師と仰ぐ人もいた。竹内啓恭氏である。竹内氏は、北大路魯山人の下で、煮方を務めた料理人である。
「師匠が作るものは、他とはまるで違って、もうめちゃめちゃ旨いんです。出汁の取り方が違うんですね。その師匠が亡くなる時に、『自分がいなくなったら、食べることが師匠なんだぞ』という言葉を残してくださいました」。
この時、神谷を、師と同じように可愛がってくれていた1人に、「割烹やました」の山下茂氏がいる。山下氏は、竹内氏について次のように述べ、諭している。
「お前の師匠の竹内啓恭氏は関西料理を象徴する店『錦水』に18年間いた。そんな貴重な人はいない。そこの料理をお前は受け継いでいる。だから疎かに料理をするんじゃないよ」と。
この言葉を神谷は今も大事に胸にしまっている。ついでの話であるが、この時、山下氏から、次のようにも言われたそうだ。
「だけど料理をやるばっかりじゃなくて、70、80歳になっても習い事をすること。決して天狗になってはいけない。いくつになっても師をもつことが大切だ」と。
この言葉も大事にし、今も習い事を常に心掛けているそうだ。・・・・続き
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2014年7月29日火曜日

インターンが入ってると組織が活性化するな。

今日からインターン生が入ってきた。
21歳と元気で声が大きく、素直なやつだ。
楽しみ!!

来週にもまた、ひとり入ってきてくれます。

やはり、若いって素晴らしい。
なんの経験もない分、変な固定概念ないから直ぐに大きな成果を上げてくれる。

好奇心持って楽しくやる人、何もやらないから言われてイヤイヤやる人、
どうせやるなら楽しい人とやりたいよね。


2014年7月26日土曜日

弊社の武田あかね、またまた表紙に。

弊社の役員(兼ミストラル代表)とモデルの二足の武田あかね。
今回はドクターシーラボの8月の情報誌2冊の表紙に登場!
また裏表紙、中面に複数出てます。
(中面にも複数出てます)




余談ですが、
2年前7月にも「小顔シリーズ第2弾 5秒で10歳若返る! 最強引きあげベルト」 
(主婦の友生活シリーズ)にも表紙で登場しました。
(おかげさまで売り切れ。アマゾンで1万6000円の価格が)
株式会社ミストラル

2014年7月25日金曜日

7月25日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”に「玉海力」の河邉幸夫社長登場。

7月25日(金)の夕刊フジの“波乱万丈 起業家列伝”(細見連載中)は玉海力」の河邉幸夫社長取り上げさせてもらいました。  
暑くなってきたので、玉海力の冷やしちゃんこの天使のちゃんこ”、またたくさん取り上げられるだろうな・・。
玉海力」の河邉幸夫社長】 
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どん様の駅貼りポスター インパクトあるな。

どん様の駅貼りポスター インパクトあるな。
掲示駅(渋谷駅、目黒駅、国分寺駅、立川駅、赤羽駅、池袋駅、高田馬場駅、目黒駅、上野駅、御茶ノ水駅、八王子駅、中野駅)

国分寺駅で
御茶ノ水駅にて
上野駅にて
渋谷駅にて
八王子駅にて
中野駅にて
 
池袋駅にて
 
目黒駅にて
 

立川駅にて
詳しくはこちらまで→リアル経済大学
締切は2014年7月末日 間もなく。

さあ、8月からいろいろなものが動く。体育会系出身者対象で飲食業界の経営者が語る新卒説明会

さあもう直ぐ8月、いろいろなものを始動させます。

キイストン発信の動画チャンネル“グルメマイスター”をオープンさせます。

また、夕刊フジ×飲食店とのコラボ“オレンジ世代シリーズ”の第2弾が動きます。

今年、初めて体育会系出身者対象にした飲食業界の経営者が語る新卒説明会を実施します。

キイストン・ミストラルの認知アップされるため3年連続で今年もある求人企画実施します。

そして、8月インターンシップで5人以上の人材が研修に入ってきます!!
意欲ある人材は、こちらが元気もらえます。


株式会社京樽 代表取締役社長 森下裕一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社京樽 代表取締役社長 森下裕一氏登場。
本文より~

高校時代までの森下。

森下が生まれた長野県栄村は日本有数の豪雪地帯である。冬には4メートルほど雪が積もる、と当然のように森下も言う。調べてみると村を横切るように千曲川が流れている。
千曲川は、信濃川が長野県に入った時点でそう言われるようになるそうで、河川法上では、千曲川と信濃川を合わせて、信濃川と呼ばれ、日本で最も長い川となっている。
森下の父は公務員だったが日曜日になると畑に出て野沢菜を育てておられたそうだ。2人姉弟で、姉とは5歳離れていた。
小学校は1クラス20人。学校の帰りにスキー板を付けて、滑って帰ったこともあるそうだ。「良くおばあちゃんと石臼を挽いて本格的な蕎麦を作って食べていました。そして近所はみんな繋がっていました」。
古き良き日本の風景。中学校も、1クラスしかない小さな学校だった。陸上、野球、バレー、色々なスポーツをした。夏は自宅から通えたが、11月末~3月の冬の時期は降雪が凄く、先生の家に下宿させてもらっていたという。
「高校は長野高校に進学したかったのですが、結局、飯山北高校に進学しました。電車の本数が無くて、早く帰らないと電車が無くなっちゃう。本当は、体育会の部活に入りたかったのですが、練習があってすぐに帰れないので、生物部や写真部に入っていました」。
消去法的に選択したクラブだったが、案外面白かった。「特に生物部は全国でも有名でした。岐阜蝶の観察を行ったりしていたんです」。
「保護観察官」の資格を取得したのもこの時。時には森にテントを張って、乱獲者を監視したりしていたそうだ。「文化部だったわけですが、体育会の要素も少なからずあった気がします」。
高校時代からバイトも始めている。「旅館で働いていました。水力発電所の夜間バイトも経験しました。トンネル内の虫掃除が仕事だったのですが、1回で1万円もいただけたんです」。1晩、1万円。悪くない。バイト代はどうしたんですか? と尋ねると「銃が好きで、モデルガンを買ったりしていた」という。

長野県警、勤務。

「早稲田に行きたかったんです。でも、不合格になってしまって。しかたなく、浪人生活を送ります。この時も色々なバイトを経験しました。この浪人中のことですが、銃が好きでしょ。自衛隊なら銃が持てると気付いて、自衛隊に入隊しようと試みたこともあったんです。でも、目が悪くて、不合格。なら、警察だと。こちらは合格して、一時、長野県警で勤務していたことがあるんです(笑)」。
その当時の様子も伺った。
「朝起きて、腹筋、腕立てを300回。毎日、20キロのランニング。銃を撃つこともできたのですが、こちらの訓練も相当、きつかった。一升瓶に砂を入れてね。それを1時間、手を挙げて持っていなければいけないんです。拳銃の腕前は、良かったですよ(笑)」。
「辞めるつもりはなかったのですが、半年で膝を壊してしまいました。それで、退職。警官時代は、たった半年。練習は厳しかったですが、銃も撃てたし…。貴重な経験をさせてもらったと思います」。
警察を辞め、しきり直し。2浪の末、中央大学に進学した。・・・・
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2014年7月20日日曜日

営業マンの成長とネガティブ発言の減少。

キイストンの経理・総務は上場企業並みの能力の高さです。
これは上場試みた時、証券会社から、またブレーンの方からも言われてました。
同じく制作まわりもデザインセンスにはまだまだ注文多いですが、
制作能力とマルチ対応出来るので、追い込まれても必ずやってくれます。
提案書、社内システム、社内業務フローなどこれも一線級で、他には負けません。
つまりキイストンはスタッフが強いので、営業マンは営業に専念出来る環境にあります。

個々でみると成功体験が少なかったり、営業未経験者が混じり合った営業チームですが、
この半年でまた少しずつ営業マンが成長してくれてます。
本当にありがたいことです。
あくまでまだまだリクルートの一線級にはほど遠いですが、近いうちに追いつける様な気がします。
成長と比例するかの様にネガティブな言葉や態度も減り、対応スピードも早くなってきました。
日々言ってます、『スピードは最大のホスピタリティ』が少しわかりだしたかも…。
この5年は実践型で人材育成し、業界No.1の最強営業集団にしてみたい。
今の2倍はこのメンバーなら出来るはず!
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2014年7月18日金曜日

7月18日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”に「エクシオジャパン」の佐伯猛社長登場。

7月18日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”(細見連載企画)にハワイで一番おいしい朝食を出すお店 “カフェ・カイラも運営されている「エクシオジャパン佐伯猛社長取り上げさせてもらいました。  
「エクシオジャパン」の佐伯猛社長】 
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2014年7月17日木曜日

松尾社長の別邸(京都・高雄)にて京野菜を堪能しました。

昨日は、京都・京北で獲れる京野菜の生産者サイドに立って頂く松尾社長の別邸(京都・高雄)にて農家の自宅で食べられる獲れたての無農薬野菜、また天然鮎、山椒やミョウガ入りの「登里昭」の地鶏鍋などご馳走になりながら、京大現役学生社長のキシュウの前木社長と李さんらとミーティングしました。
いや~、美味しいです。
松尾さんならびにお家族の皆さん、ご馳走になりありがとうございました。
一瀬君、細かな作業と野菜ありがとうございました。
また出張で料理して頂いた「登里昭」様ありがとうございました。

株式会社NAOC 代表取締役 髙木信介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社NAOC 代表取締役 髙木信介氏登場。
本文より~

サッカー小僧。

髙木は、1981年6月10日、熊本県熊本市に生まれる。2人兄弟の長男で、弟とは1つ違い。父親の影響もあって、少年は2人ともサッカーが大好きだった。
「もともと父は熊本で仕事をしていたんですが、私が中学3年生の時、転職をして静岡県に引っ越ししました」。
静岡と言えば、サッカーが盛ん。髙木は高校に進学してからもサッカーを続けた。
髙木の父の夢もサッカー選手だったそうである。小さな頃は、サッカーの試合を観に出かけるのが休日のお決まりコースだったそうだ。
1年中、サッカー。父に、長男に、次男。話題もサッカーのことばかりだったのではないか。そんな髙木家である。高校生になっても髙木がサッカーを続けるのは、既定路線だったのだろう。
ちなみに、1歳下の弟は、早くから才能を認められ、2014年、現在、「清水エスパルス」に所属。MFとして、トップチームで活躍している。
一方、髙木は、帝京大学に進学する。
「帝京大学から合格通知が来たのは、高校3年の1月でした。ほかの大学の結果も残っていたんですが、もういいやって(笑)。それより早く東京で独り暮らしを始めたかったものですから」。
東京で独り住まい。サッカーを続けるつもりならまた違ったのだろうが、髙木のサッカー人生は高校で終了した。
だから、なのだろう。とにかく、「東京」と「独り住まい」というフレーズに心を躍らせた。「卒業を待たず東京に出て、住まいも決めた」とのことだ。
結局、弟はプロリーグに進み、兄の髙木は、大学へ。
2人のサッカー少年の道は、ここで分かれることになる。

遊べや、遊べ。

「大学に行ったらな、死ぬほど遊べ」。
大学生となる息子に父が贈ったアドバイスである。父の言葉通り、入学早々、車の免許を取得。バイトとともに遊び、三昧の日々が始まった。
バイトを始めたのは、むろん、金のため。父の言いつけを守ろうとすれば、それだけで金がかかる。
「宅急便のヤマトさんでバイトをして、そのほかにも何やかやと掛け持ちして、月に41万円くらい儲けていました。41万円もあれば、たいていのことはできます。旨いもんも腹いっぱい食べて」。
福岡や青森まで1人旅を楽しんだのも、学生時代の思い出の一つ。バックパッカーに憧れ、タイにも渡った。これは、4年生になってからの話で、まだ卒業には間があったが、就職戦線は、もうスタートしていた時だった。
それでも、かまわず出かけた。所持金、15万円。レートを考えれば、少ない額ではない。予定は2ヵ月。余裕で生活できるだけの額だった。
とはいえ、遊びに行けば、1日でなくなってしまうくらいの額でもある。この違いなど、考えもしなかった。しかし、海を渡り出会った現実は、その差をリアルに映しだしたものだった。・・・続き
株式会社NAOC 代表取締役 髙木信介氏
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2014年7月12日土曜日

7月11日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”に「クレア」の町田典子会長登場。

7月11日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”(細見連載企画)に激動の幼少期も経験され、大ファンでもあった昭和の大スター・石原裕次郎氏のYu’s Barも運営されている「クレア町田典子会長取り上げさせてもらいました。  
「クレア町田典子会長】 
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