本文より~
料理人に憧れて。
「パーマの実験台になったこともある」と言って、神谷は子どもの頃を振り返る。父親が理髪店を営んでおり、子どもの頃は父親から「散髪屋になれ」と言われたこともあるそうだ。父親は逆らえない存在で、スパルタだったと笑う。
神谷は戦後間もなくの1947年、北側には愛宕山を仰ぎ、南側には三河湾を望む、山にも海にも囲まれた風光明媚な町、愛知県幡豆郡幡豆町(現在の西尾市)に生まれている。男4人、女3人の7人兄弟の4男坊。ともかく、わんぱくだったらしい。
「おかげで、うちの散髪屋には子どもが誰も来ないんです」と言って笑う。小学校に上がってからはガキ大将になった。野球部に所属。成績は、「まぁ、そこそこ」だったそうである。
中学に上がってからは、テニス部に所属。「試合で負けなし」というのだから、巧かったのだろう。一方、海に行ってはカニを獲ったり、ナマコを獲ったりしていたそうである。
料理に関心を持ったのは、親戚の家に遊びに行ったことがきっかけ。
「叔母が食堂をやっていまして、夏休みに遊びに行くと親子丼などいろいろなものを食べさせてくれたんです。板前さんもいて『かっこいいな』と思ったのが料理に興味を抱くきっかけです」。
中学を卒業する頃になると、父から「散髪屋に修業に行け」と言われる。しかし、その時にははっきりと「料理人という職業を意識するようになっていた」そうだ。
だから、神谷は高校に進学せず、「料理人になるべく修業を始めよう」という選択をする。15歳の、決断だった。
神谷は戦後間もなくの1947年、北側には愛宕山を仰ぎ、南側には三河湾を望む、山にも海にも囲まれた風光明媚な町、愛知県幡豆郡幡豆町(現在の西尾市)に生まれている。男4人、女3人の7人兄弟の4男坊。ともかく、わんぱくだったらしい。
「おかげで、うちの散髪屋には子どもが誰も来ないんです」と言って笑う。小学校に上がってからはガキ大将になった。野球部に所属。成績は、「まぁ、そこそこ」だったそうである。
中学に上がってからは、テニス部に所属。「試合で負けなし」というのだから、巧かったのだろう。一方、海に行ってはカニを獲ったり、ナマコを獲ったりしていたそうである。
料理に関心を持ったのは、親戚の家に遊びに行ったことがきっかけ。
「叔母が食堂をやっていまして、夏休みに遊びに行くと親子丼などいろいろなものを食べさせてくれたんです。板前さんもいて『かっこいいな』と思ったのが料理に興味を抱くきっかけです」。
中学を卒業する頃になると、父から「散髪屋に修業に行け」と言われる。しかし、その時にははっきりと「料理人という職業を意識するようになっていた」そうだ。
だから、神谷は高校に進学せず、「料理人になるべく修業を始めよう」という選択をする。15歳の、決断だった。
15歳。料理の道に進む。
神谷が15歳といえばまだ1962年のことである。当時の板前修業とは?
当時の話も伺った。
「私は、名古屋の奥座敷といわれた渓谷・定光寺の「千歳櫻」で働き始めます。200人はいる大きな旅館です。もちろん今と比較することはできません…」、そう断ってから神谷は当時の話をしてくれた。
「料理人は、裸足のままなんです。これがきつかった。大きな旅館だったものですから、夜中の2時まで洗い物です。足は全部霜焼けで痛い思いもしました。先輩は任侠のような人ばかりで(笑)」。
ガキ大将だったはずの神谷も、さすがに厳しい先輩たちが部下を叱責する様子には息を呑んだことだろうと思っていたが、神谷にとっては、そう怖い存在でもなかったらしい。
「私は、一番小さかったということもあってね。とても可愛がってもらいました。もっとも私は、先輩の言うままに、すぐに煮物を作ったり、魚を下ろせたりしましたので、余計に可愛がってもらえたんだと思います。色々教えてもいただきました。私が要領良く仕事をこなすものですから、教えるほうも気持ちが良かったのではないでしょうか」。
可愛がられたといっても、仕事が楽になるわけではない。言い方を替えれば、「これも、あれも」と何倍も働かされたことになる。霜焼けした足で、駆け回る15歳の少年。それは思い描いていた料理人の姿だったのだろうか。
当時の話も伺った。
「私は、名古屋の奥座敷といわれた渓谷・定光寺の「千歳櫻」で働き始めます。200人はいる大きな旅館です。もちろん今と比較することはできません…」、そう断ってから神谷は当時の話をしてくれた。
「料理人は、裸足のままなんです。これがきつかった。大きな旅館だったものですから、夜中の2時まで洗い物です。足は全部霜焼けで痛い思いもしました。先輩は任侠のような人ばかりで(笑)」。
ガキ大将だったはずの神谷も、さすがに厳しい先輩たちが部下を叱責する様子には息を呑んだことだろうと思っていたが、神谷にとっては、そう怖い存在でもなかったらしい。
「私は、一番小さかったということもあってね。とても可愛がってもらいました。もっとも私は、先輩の言うままに、すぐに煮物を作ったり、魚を下ろせたりしましたので、余計に可愛がってもらえたんだと思います。色々教えてもいただきました。私が要領良く仕事をこなすものですから、教えるほうも気持ちが良かったのではないでしょうか」。
可愛がられたといっても、仕事が楽になるわけではない。言い方を替えれば、「これも、あれも」と何倍も働かされたことになる。霜焼けした足で、駆け回る15歳の少年。それは思い描いていた料理人の姿だったのだろうか。
料理人神谷、上京ス。
「先輩達に言われるまま料理を勉強していた頃です。ある日、日本で一番の料理人が、うちの旅館に来てくださったんですね。この人に出会って、料理というのは凄いな、料理人は格好いいなと改めて思いました」。
この日本一の料理人の来訪が、神谷の視界を広げた。京都に出て本格的に日本料理を学んだのも、この人との出会いがあったから。そして21歳になった神谷は、東京へ向かうことになる。修業を開始して6年、年齢は若かったが、いっぱしの料理人である。
「赤坂の『きくみ』という店に行きました。こちらに来ても、休みは全然無かったです(笑)」。
この頃になると師と仰ぐ人もいた。竹内啓恭氏である。竹内氏は、北大路魯山人の下で、煮方を務めた料理人である。
「師匠が作るものは、他とはまるで違って、もうめちゃめちゃ旨いんです。出汁の取り方が違うんですね。その師匠が亡くなる時に、『自分がいなくなったら、食べることが師匠なんだぞ』という言葉を残してくださいました」。
この時、神谷を、師と同じように可愛がってくれていた1人に、「割烹やました」の山下茂氏がいる。山下氏は、竹内氏について次のように述べ、諭している。
「お前の師匠の竹内啓恭氏は関西料理を象徴する店『錦水』に18年間いた。そんな貴重な人はいない。そこの料理をお前は受け継いでいる。だから疎かに料理をするんじゃないよ」と。
この言葉を神谷は今も大事に胸にしまっている。ついでの話であるが、この時、山下氏から、次のようにも言われたそうだ。
「だけど料理をやるばっかりじゃなくて、70、80歳になっても習い事をすること。決して天狗になってはいけない。いくつになっても師をもつことが大切だ」と。
この言葉も大事にし、今も習い事を常に心掛けているそうだ。・・・・続き
この日本一の料理人の来訪が、神谷の視界を広げた。京都に出て本格的に日本料理を学んだのも、この人との出会いがあったから。そして21歳になった神谷は、東京へ向かうことになる。修業を開始して6年、年齢は若かったが、いっぱしの料理人である。
「赤坂の『きくみ』という店に行きました。こちらに来ても、休みは全然無かったです(笑)」。
この頃になると師と仰ぐ人もいた。竹内啓恭氏である。竹内氏は、北大路魯山人の下で、煮方を務めた料理人である。
「師匠が作るものは、他とはまるで違って、もうめちゃめちゃ旨いんです。出汁の取り方が違うんですね。その師匠が亡くなる時に、『自分がいなくなったら、食べることが師匠なんだぞ』という言葉を残してくださいました」。
この時、神谷を、師と同じように可愛がってくれていた1人に、「割烹やました」の山下茂氏がいる。山下氏は、竹内氏について次のように述べ、諭している。
「お前の師匠の竹内啓恭氏は関西料理を象徴する店『錦水』に18年間いた。そんな貴重な人はいない。そこの料理をお前は受け継いでいる。だから疎かに料理をするんじゃないよ」と。
この言葉を神谷は今も大事に胸にしまっている。ついでの話であるが、この時、山下氏から、次のようにも言われたそうだ。
「だけど料理をやるばっかりじゃなくて、70、80歳になっても習い事をすること。決して天狗になってはいけない。いくつになっても師をもつことが大切だ」と。
この言葉も大事にし、今も習い事を常に心掛けているそうだ。・・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)