2014年9月30日火曜日

「ランチパスポート」(ランパス)の田町・品川版いよいよスタート!!

出版不況といわれるなか、異例の売れ行きを記録してる新タイプのグルメガイド本「ランチパスポート」(ランパス)の田町・品川版が夕刊フジから12月1日発行します。
キイストンは全面的に営業サポートします。
田町・品川版、限定100店舗
(田町エリア50店舗、芝浦エリア20店舗、品川エリア30店舗)を
予定しています。
 (1店舗1ページが無料で掲載可能)
  (発行エリアのコンビニ・書店で発売)
 (持参すれば、ランチが1コインの500円に)

リストランテ アルポルト オーナーシェフ 片岡 護氏登場。

本文より~

一つ屋根の下で。

東京都品川区目黒。片岡がこの町に生まれたのは、1948年。
1945年が終戦の年と言われているから、戦後からそれほど日は経っていない。男ばかりの4人兄妹で、長男とは16歳も年が離れていた。
「次男とも8つ差でしょ。三男とも4つ。末っ子だから、みんなが可愛がってくれました。私が生まれてすぐに父を亡くしたこともあって、母は兄弟4人を女手一つで育ててくれました。部屋が多い家だったので、そこを下宿屋にして。だから、学生さんとか勤め人さんもいて、みんな一緒にご飯を食べたりしていました。だから全く寂しい思いはしませんでした」。
大家族みたいなものだった、と片岡。大きなお兄ちゃんたちに囲まれて、いつしか人懐っこい子どもに育っていった。「昔から、人を喜ばすことが好きだった」と片岡。「だから、昔からサービス業に向いていたんだよね」とも。
一つの屋根の下で、少年、片岡は誰からも分け隔てなく、愛情たっぷりに育てられていく。

カルボラーナと片岡少年。

片岡の人生は、いろいろな人との「縁」を抜きにしては語れない。なかでも、金倉氏は、特別な存在である。
「母は内職もやっていたし、家政婦もやりました。家が貧しいものだから、仕事を選ぶこともできなかった。私が中学生の頃、母は金倉さんというお宅で家政婦をしていました。金倉さんは、外交官をされていて、私もまだ小さかったから犬の世話などをしに何度かご自宅へ伺っていました」。
「金倉さんの奥さんも、いろいろなことをご存知だったんでしょうね。まだ、私が中学生の頃だからイタリア料理なんて一般的ではなかったのですが、奥さんが作ったカルボラーナを母がいただいてきて、それを食べたんです。おおげさじゃなく、その時、『世の中にこんなに美味しいものがあるのか』ってビックリしました」。
一口食べた、カルボラーナの味が片岡の記憶に刷り込まれる。だからといってすぐに料理の世界を目指したわけではない。「当時、私は工業デザイナーになりたかったんです」と片岡は言っている。

工業デザイナーになりたくて。

「中学3年の時にできた友達が、絵が好きな奴で、いっしょに絵をやろうって誘われたんです。でも、うちは貧乏だから、絵画とか芸術をする余裕はない。だから、職業として成り立つ工業デザイナーになろうと思ったんです」。
「金倉さんも絵が好きで、日頃から展覧会等に行くように勧めてくれていました。それも絵を始めた要因の一つです。その友達といっしょに、芸大に行こうと言っていたんですが、私は落ちて…。浪人もしたのですが、2回目もダメで。その時、たぶん、私を励ましてくれるつもりだったんでしょう。金倉さんが、『もし、だめならコックになって、私に付いておいで』って仰ってくれていたんです」。

目標は、日本一のパスタ職人。

「金倉さんは、まさか私が『一緒に行かせてください』と本当に言うとは思っていなかったようです。芸大はダメだったのですが、一方料理はお皿の上にデザインするのと同じだと思い、もう自分は本気モードになっていました」。
「あれは、芸大を2度落ちて、また浪人しようかどうかと迷っている時でした。たまたま金倉さんがメキシコから帰ってきて、次はミラノに赴任するということで、『なら、一緒に連れていってください!』とお願いしたんです」。
いま振り返れば、何という最高のタイミングだろう。日本のイタリア料理の1ページは、この偶然から生まれた。
ミラノに行く前は、「つきじ田村」で3ヵ月、鍋洗いと刻みの修行をした。そして、4月。金倉夫妻とともに、飛行機に乗った。肩書きは、日本総領事付きの料理人。むろん、イタリアも、総領事付きの料理人も初めての経験だった。
「当時はドル/円のレートが360円です。海外に行く人なんて限られていました。こういう幸運を頂いたので、よし!日本一のパスタ職人になってやる!と意気込んで、ミラノに向かいました」。・・・続き
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新たな挑戦!

京都大学では近く、
アウン・サン・スー・チーさんや村上春樹氏などの講演も控えているなか、
飲食経営者の講演を計画中。
他の大学と比べて集客は格段に難しい状況で、
飲食経営者の講演を実現させる!
これが、その企業の採用面にプラスになるだけでなく、
飲食業界のイメージ変える意味においても大きな意義がある。

2014年9月29日月曜日

27日、ジバベジ・プロジェクト主催の「京北まちづくりツアー」実施されました。

京北とは、京都市右京区に属する地域で、
山林が多く、林業が盛んでしたが、近年京野菜を始め美味しい野菜の産地にもなりつつあり、
京都の奥京都として豊かな自然の美しい地域でもあります。

しかしこの京北、過疎・高齢化が深刻です。

この京北地域の活性化という課題について、
少しでも学生として解決に役立ちたいという思いから
京都大学のジバベジグループ主催で、
学生企業家の前木秀光氏率いる㈱キシュウと京都大学の地域連携が支援する
「京北まちづくりツアー」を企画されました。
京北出身の私は、応援してます。ありがたや、ありがたや。

27日、GJJ×キイストン第7回目“オーストラリア&アメリカ海外就職説明会セミナー”実施しました。

今回で第7回目となる海外就職説明会を9月27日(土)実施しました。
今までとは形を変え、テーマを『オーストラリア&アメリカ』に絞り、セミナー形式で“海外就職説明会”をやりましたが、すごく内容が濃かったと思います。
また参加頂いた皆さんの質が高く、大変良かったです。
GJJ×キイストンとの共同主催、最強です!!
(日本のフードビジネス業界の可能性について講演)
(アメリカで業務拡大されているラ・ブレアの高橋社長の動画)
(オーストラリア・シドニーで展開されている鱒屋の定松社長の動画)
(GJJ田村さんの海外で働くにはの講演)
 

2014年9月25日木曜日

24日、中小個人飲食店向けの人材不足解決セミナー。

9月24日(水)、カリスマ飲食コンサルタント・河野さん(飲食店繁盛会)主催の中小個人飲食店のための人材不足×採用解決セミナーがアサヒビール本社でありました。
少しでもお役に立てば・・・・。
なんでビックリしてるねん。

(いよいよ一部の私の番がスタート)
(皆さん真剣に聴いて頂いてるので熱弁に)
(二部の中野社長)
(三部の松田社長)
(3講師のディスカッション)
(3人で記念写真)


 ん?
なぜ社長特命課の横谷が・・・・・・・。
セミナー会場でもあったアサヒビール本社ビルのオブジェでなにしてるねん。
 吸うてどうするねん。
 なんで尻やねん!!

2014年9月22日月曜日

株式会社備長 代表取締役社長 鈴木 博氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社備長 代表取締役社長 鈴木 博氏登場。
文より~

大学卒業までの鈴木博。

鈴木が生まれたのは、愛知県刈谷市。父は公務員。 2人兄弟の次男で、兄は、誰もが認める優等生だった。 「まずうちは母親がもう、子どもべったりというかな、そういう家庭で。兄貴は、それに応えて学校の成績は良かったんだけど、弟の俺は、ちょっとそういうのに反抗したっていうか。兄貴と比較されんのも嫌だったわけ。それで一時期、悪さもするようになって。あれは高校2年の時だと思うんだけど、親父から『無人島に行って暮らせ』って。そうすれば誰にも迷惑が掛からないから。あの時の親父の目は、冗談を言っている目じゃなかった。それで俺もハッとなったんです。元々しっかり育ててもらっていたこともあり、勉強もやれば一応できた。たまたま進学コースちゅうこともあって、それで勉強も真面目に取り組んだんです。結果、推薦で大学に進学したんです」。
大学時代の話も、大胆でユニークだ。
「スポーツサークルに入っとったわけですよ。1年の時、ペンションのオーナーと親しくなり、『人を何人か連れてきたら、いくら』みたいな話になって。それで50人連れていったわけです。そのうち、とある旅行会社の社長とも知り合いになって。名刺も刷って、パンフレットも配るようになって。一時は、まだ学生の分際で、栄にオフィスを構えて、100人のスタッフを動かしていました。まぁ、それなりに儲かりました」。 
鈴木は、「小銭」というが、金額を聞くと小銭どころの話ではなかった。
「でも、まぁ本分は大学生でしょ。それで、大学3年で引退し、ハワイ大学に2ヵ月間短期留学をしました。大学を卒業する時には、4つの選択肢があったんです。1つ目は、お世話になっていた旅行会社の社長が、『会社を作るから、社長になれ』というもの。2つ目はペンションのオーナーから、『ペンションオーナーになってみないか』というお誘い。3つ目は、スペイン料理のママに気に入られていたこともあり、『うちで働かないか』と。そして、最後の選択肢が起業だったわけです」。

起業するなら、「うなぎ専門店」だ。

「サラリーマンになっても兄貴には勝てないと思っていました。確かに社長とか、ペンションのオーナーとか、そういうものにも興味があったのですが、とにかく私は、やるなら『現金商売』や!と思っていたんです。これは家具店をやっている親戚の叔父に言われたことなんですが、私もその通りだと思って。そうなると、手っ取り早いのは喫茶店とか、うどん屋とかだった。でも、私は違った。『うなぎや』になろうと思ったんです。理由は、単純なことなのですが、子どもの頃、よく祖母がうなぎを焼いてくれたんです。それがとても好きだったからなんです」。
もっとも好きだけではない。鈴木流の計算も立てた。
「和食というのも、根本にはありました。だから鮨やうどんも頭の中にあったんですが、うどんも鮨も結構、店が多い。ところが、うなぎの専門店ってそう多くないでしょ。あるのは創業何年ちゅう老舗ばかり。だから、結局誰もやらん。そう考えたら、逆にチャンスと思えてきたんです」。
うなぎ専門店。確かにそう多くない。
「でも、いきなり店を開くことはできません。まず修業です。最初は、福岡の柳川にあるお店を紹介してもらいました。1年、そちらで働くのですが、そちらのうなぎは東京のように蒸すんです。だから、私が食べ慣れた焼きうなぎと違う。それで、2年目から名古屋に帰り、名古屋の老舗である『西本』に入れてもらったんです。それが23歳の時です」。・・・続き
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2014年9月21日日曜日

9月20日、『就活イベント~JISEDAI~』をサポートしました。

9月20日は2つのイベントが重なりました。
2015年の新卒者対象にした『就活イベント~JISEDAI~』をキイストンとしてサポートしました。
16日、18日、20日と今週は3連続新卒採用イベントでした。
よく社員の皆で頑張ってくれました。

今回のイベントもいい人材とのご縁あれば・・・・。
(超繁盛のラーメン神座の理想実業の布施さん、プレゼン力はさすが!!)
 (超繁盛の焼肉ふたごのF・T・Gの人事担当の韓さん)