本文より~
一つ屋根の下で。
東京都品川区目黒。片岡がこの町に生まれたのは、1948年。
1945年が終戦の年と言われているから、戦後からそれほど日は経っていない。男ばかりの4人兄妹で、長男とは16歳も年が離れていた。
「次男とも8つ差でしょ。三男とも4つ。末っ子だから、みんなが可愛がってくれました。私が生まれてすぐに父を亡くしたこともあって、母は兄弟4人を女手一つで育ててくれました。部屋が多い家だったので、そこを下宿屋にして。だから、学生さんとか勤め人さんもいて、みんな一緒にご飯を食べたりしていました。だから全く寂しい思いはしませんでした」。
大家族みたいなものだった、と片岡。大きなお兄ちゃんたちに囲まれて、いつしか人懐っこい子どもに育っていった。「昔から、人を喜ばすことが好きだった」と片岡。「だから、昔からサービス業に向いていたんだよね」とも。
一つの屋根の下で、少年、片岡は誰からも分け隔てなく、愛情たっぷりに育てられていく。
カルボラーナと片岡少年。
片岡の人生は、いろいろな人との「縁」を抜きにしては語れない。なかでも、金倉氏は、特別な存在である。
「母は内職もやっていたし、家政婦もやりました。家が貧しいものだから、仕事を選ぶこともできなかった。私が中学生の頃、母は金倉さんというお宅で家政婦をしていました。金倉さんは、外交官をされていて、私もまだ小さかったから犬の世話などをしに何度かご自宅へ伺っていました」。
「金倉さんの奥さんも、いろいろなことをご存知だったんでしょうね。まだ、私が中学生の頃だからイタリア料理なんて一般的ではなかったのですが、奥さんが作ったカルボラーナを母がいただいてきて、それを食べたんです。おおげさじゃなく、その時、『世の中にこんなに美味しいものがあるのか』ってビックリしました」。
一口食べた、カルボラーナの味が片岡の記憶に刷り込まれる。だからといってすぐに料理の世界を目指したわけではない。「当時、私は工業デザイナーになりたかったんです」と片岡は言っている。
工業デザイナーになりたくて。
「中学3年の時にできた友達が、絵が好きな奴で、いっしょに絵をやろうって誘われたんです。でも、うちは貧乏だから、絵画とか芸術をする余裕はない。だから、職業として成り立つ工業デザイナーになろうと思ったんです」。
「金倉さんも絵が好きで、日頃から展覧会等に行くように勧めてくれていました。それも絵を始めた要因の一つです。その友達といっしょに、芸大に行こうと言っていたんですが、私は落ちて…。浪人もしたのですが、2回目もダメで。その時、たぶん、私を励ましてくれるつもりだったんでしょう。金倉さんが、『もし、だめならコックになって、私に付いておいで』って仰ってくれていたんです」。
目標は、日本一のパスタ職人。
「金倉さんは、まさか私が『一緒に行かせてください』と本当に言うとは思っていなかったようです。芸大はダメだったのですが、一方料理はお皿の上にデザインするのと同じだと思い、もう自分は本気モードになっていました」。
「あれは、芸大を2度落ちて、また浪人しようかどうかと迷っている時でした。たまたま金倉さんがメキシコから帰ってきて、次はミラノに赴任するということで、『なら、一緒に連れていってください!』とお願いしたんです」。
いま振り返れば、何という最高のタイミングだろう。日本のイタリア料理の1ページは、この偶然から生まれた。
ミラノに行く前は、「つきじ田村」で3ヵ月、鍋洗いと刻みの修行をした。そして、4月。金倉夫妻とともに、飛行機に乗った。肩書きは、日本総領事付きの料理人。むろん、イタリアも、総領事付きの料理人も初めての経験だった。
「当時はドル/円のレートが360円です。海外に行く人なんて限られていました。こういう幸運を頂いたので、よし!日本一のパスタ職人になってやる!と意気込んで、ミラノに向かいました」。・・・続き