本文より~
大学卒業までの鈴木博。
鈴木が生まれたのは、愛知県刈谷市。父は公務員。 2人兄弟の次男で、兄は、誰もが認める優等生だった。 「まずうちは母親がもう、子どもべったりというかな、そういう家庭で。兄貴は、それに応えて学校の成績は良かったんだけど、弟の俺は、ちょっとそういうのに反抗したっていうか。兄貴と比較されんのも嫌だったわけ。それで一時期、悪さもするようになって。あれは高校2年の時だと思うんだけど、親父から『無人島に行って暮らせ』って。そうすれば誰にも迷惑が掛からないから。あの時の親父の目は、冗談を言っている目じゃなかった。それで俺もハッとなったんです。元々しっかり育ててもらっていたこともあり、勉強もやれば一応できた。たまたま進学コースちゅうこともあって、それで勉強も真面目に取り組んだんです。結果、推薦で大学に進学したんです」。
大学時代の話も、大胆でユニークだ。
「スポーツサークルに入っとったわけですよ。1年の時、ペンションのオーナーと親しくなり、『人を何人か連れてきたら、いくら』みたいな話になって。それで50人連れていったわけです。そのうち、とある旅行会社の社長とも知り合いになって。名刺も刷って、パンフレットも配るようになって。一時は、まだ学生の分際で、栄にオフィスを構えて、100人のスタッフを動かしていました。まぁ、それなりに儲かりました」。
鈴木は、「小銭」というが、金額を聞くと小銭どころの話ではなかった。
「でも、まぁ本分は大学生でしょ。それで、大学3年で引退し、ハワイ大学に2ヵ月間短期留学をしました。大学を卒業する時には、4つの選択肢があったんです。1つ目は、お世話になっていた旅行会社の社長が、『会社を作るから、社長になれ』というもの。2つ目はペンションのオーナーから、『ペンションオーナーになってみないか』というお誘い。3つ目は、スペイン料理のママに気に入られていたこともあり、『うちで働かないか』と。そして、最後の選択肢が起業だったわけです」。
大学時代の話も、大胆でユニークだ。
「スポーツサークルに入っとったわけですよ。1年の時、ペンションのオーナーと親しくなり、『人を何人か連れてきたら、いくら』みたいな話になって。それで50人連れていったわけです。そのうち、とある旅行会社の社長とも知り合いになって。名刺も刷って、パンフレットも配るようになって。一時は、まだ学生の分際で、栄にオフィスを構えて、100人のスタッフを動かしていました。まぁ、それなりに儲かりました」。
鈴木は、「小銭」というが、金額を聞くと小銭どころの話ではなかった。
「でも、まぁ本分は大学生でしょ。それで、大学3年で引退し、ハワイ大学に2ヵ月間短期留学をしました。大学を卒業する時には、4つの選択肢があったんです。1つ目は、お世話になっていた旅行会社の社長が、『会社を作るから、社長になれ』というもの。2つ目はペンションのオーナーから、『ペンションオーナーになってみないか』というお誘い。3つ目は、スペイン料理のママに気に入られていたこともあり、『うちで働かないか』と。そして、最後の選択肢が起業だったわけです」。
起業するなら、「うなぎ専門店」だ。
「サラリーマンになっても兄貴には勝てないと思っていました。確かに社長とか、ペンションのオーナーとか、そういうものにも興味があったのですが、とにかく私は、やるなら『現金商売』や!と思っていたんです。これは家具店をやっている親戚の叔父に言われたことなんですが、私もその通りだと思って。そうなると、手っ取り早いのは喫茶店とか、うどん屋とかだった。でも、私は違った。『うなぎや』になろうと思ったんです。理由は、単純なことなのですが、子どもの頃、よく祖母がうなぎを焼いてくれたんです。それがとても好きだったからなんです」。
もっとも好きだけではない。鈴木流の計算も立てた。
「和食というのも、根本にはありました。だから鮨やうどんも頭の中にあったんですが、うどんも鮨も結構、店が多い。ところが、うなぎの専門店ってそう多くないでしょ。あるのは創業何年ちゅう老舗ばかり。だから、結局誰もやらん。そう考えたら、逆にチャンスと思えてきたんです」。
うなぎ専門店。確かにそう多くない。
「でも、いきなり店を開くことはできません。まず修業です。最初は、福岡の柳川にあるお店を紹介してもらいました。1年、そちらで働くのですが、そちらのうなぎは東京のように蒸すんです。だから、私が食べ慣れた焼きうなぎと違う。それで、2年目から名古屋に帰り、名古屋の老舗である『西本』に入れてもらったんです。それが23歳の時です」。・・・続き
もっとも好きだけではない。鈴木流の計算も立てた。
「和食というのも、根本にはありました。だから鮨やうどんも頭の中にあったんですが、うどんも鮨も結構、店が多い。ところが、うなぎの専門店ってそう多くないでしょ。あるのは創業何年ちゅう老舗ばかり。だから、結局誰もやらん。そう考えたら、逆にチャンスと思えてきたんです」。
うなぎ専門店。確かにそう多くない。
「でも、いきなり店を開くことはできません。まず修業です。最初は、福岡の柳川にあるお店を紹介してもらいました。1年、そちらで働くのですが、そちらのうなぎは東京のように蒸すんです。だから、私が食べ慣れた焼きうなぎと違う。それで、2年目から名古屋に帰り、名古屋の老舗である『西本』に入れてもらったんです。それが23歳の時です」。・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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