in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社HATARAKU 代表取締役 伊藤清孝氏が登場。
本文より~
少年時代の伊藤清孝。
愛媛県今治市。造船やタオルで知られるこの町に、伊藤が生まれたのは1978年のこと。
父親は、元々サラリーマンだったが、伊藤が生まれて少しして、独立。3~4人と、けっして大きくはなかったが、会社を興し、事業は順調に推移する。伊藤家も、それなりに裕福な家庭だった。
「私は、小さい頃から母と姉に甘やかされて、ぬくぬくと育ちました。スポーツでは、水泳とかもやっていましたが、基本、遊び呆けていました。勉強も、全然しなかった(笑)」。過保護だった、と言って伊藤は笑う。
もっとも小学生時代から、農業に興味を持つような純朴な少年だった。動物や漁業にも関心があり、水産高校に行くかどうか迷った時もある。「結局、隣町の工業高校に進学しました。機械いじりも好きだったからです」。
社会人スタート。
「高校を出たら就職しよう」と中学生の頃に、そう決めていた。だから、「工業高校」に進んだ。機械を勉強し、予定通り、大手農業機械・器具関連の会社に就職する。
これが伊藤の社会人生活のスタート。といっても、今治。「のんびりしていますよね。危機感もない。ある意味、過保護な環境なわけです。だからじゃないですが、仕事は楽しかったですよ。バイクで農家を回ってね。機械いじりが好きだから、エンジンを直すのも楽しかった。でもね、田舎ということもあって、給料が安かったんです(笑)」。
「私は、給料にそれほど執着する方じゃないんです。でも、当時はまだ何かできる、オレならと思っていたわけです。まだ少年ですから。それで20歳の時に、退職させてもらいました。ただし、何かをやってやろう、と思って退職したんですが、退職したからって、そうそううまく何かがスタートするわけじゃありません」。
「起業」の二文字を追いかけて。
「転職したのは、若者向けのアパレルショップでした。ショップは5~6店舗ありました。こちらは、こちらで楽しかったですね。社長が、韓国に行って安い服を大量に仕入れてくるんです。それを日本で売る。『商売って、面白いな』と思ったのは、この時ですね。で、3年くらいお世話になって、『よし、オレも』と資金獲得に動き出すわけです」。
資金獲得と書いたが、当時の伊藤にとっては、働いて貯める以外に選択肢はなかったし、それ以外は思いつきもしなかった。「だから、効率がいいと思って、深夜勤務もある交替制の工場で働き始めました」。こちらでも2年間、勤務しているが、お金は貯まらなかったそうだ。それだけではないが、敢えて理由を問えば、バイク好きが高じて、部品にもずいぶんお金を使ったからだろう。もっとも、この2年間のうちに伊藤の心境も変化している。
「最初は、起業への思いはあったものの漠然としたものでした。資金づくりのために転職したのに、全然貯蓄できなかったのも目標が漠然としていたから。まだまだ何かに甘えていたんでしょうね」。「でも、だんだん年は取るわけで、そんな時、バイク仲間がログハウス借りて飲食店を開くんです。それで、こいつでもできるんだったら、と私も『飲食』をやろうと思うんです」。
もっとも経験はない。やろうと思っても、そうそうできるものでもないし、今の生活との決別にも、そう簡単に踏み切れるものでもなかった。・・・続き