本文より~
八百屋の店主だった父と小田。
小田は1976年、兵庫県の西宮市に生まれる。西宮は、高級な住宅地としても知られ、野球好きな人には、お馴染みの甲子園球場もある。海沿いにはヨットハーバーがあり、海と山が、案外近い距離にある。
「私は、ファミコン世代なんですが、もっぱら外で遊んでいて、真っ黒でした」。小田家は、5人家族。姉と兄がいて、小田は末っ子である。だが、兄とは双子。遊び相手は、いつも目の前にいた。「父は、八百屋を経営していました。朝市で販売していたこともあって、午後には仕事が終わり、夕方には家にいました。だから、母よりも接する時間が長かったかもしれません」。遊んで貰った記憶が蘇る。「ただし、私ら兄弟にとっては怖い存在でもあったんです」。
礼儀には特に厳しかったそうで、放任主義な母とは対象的だった。「父の背中は、いつも近くにありました。兄には確かめたことはありませんが、私は、いつか父の仕事を継ぐと思っていました。そういう意味では、小学校の頃から独立心はあったんだと思いますね」。サラリーマンという生き様を目にすることのない小田にとって、父の生き様は、唯一のお手本でもあったのだろう。
「私は、ファミコン世代なんですが、もっぱら外で遊んでいて、真っ黒でした」。小田家は、5人家族。姉と兄がいて、小田は末っ子である。だが、兄とは双子。遊び相手は、いつも目の前にいた。「父は、八百屋を経営していました。朝市で販売していたこともあって、午後には仕事が終わり、夕方には家にいました。だから、母よりも接する時間が長かったかもしれません」。遊んで貰った記憶が蘇る。「ただし、私ら兄弟にとっては怖い存在でもあったんです」。
礼儀には特に厳しかったそうで、放任主義な母とは対象的だった。「父の背中は、いつも近くにありました。兄には確かめたことはありませんが、私は、いつか父の仕事を継ぐと思っていました。そういう意味では、小学校の頃から独立心はあったんだと思いますね」。サラリーマンという生き様を目にすることのない小田にとって、父の生き様は、唯一のお手本でもあったのだろう。
双子が進んだそれぞれの道。
小さな頃から何をするのも一緒だった。一緒に遊んで、一緒にご飯を食べ、一緒に大きくなってきた。「中学になって器械体操部に入る、これも一緒でした。でも、兄の方が断然、巧くて…」。
一緒にいることで2人は、比較の対象になった。小田も下手だったわけではないのだが、兄が巧すぎた。「私たちが中学2年の時、父が、病気になり八百屋を手放すことになりました。これで、いつか父の跡を継ぐという私の構想はなくなってしまったわけです」。父が病になったことで、生活を考えると家族は誰一人、安穏とはしていられなかった。
「私たち兄弟は、2人とも高校には進学します。ただ、兄は特待生。だから授業料もかかりません。一方、私は、そういうわけにはいきません。それに私はちょっと変わりもんで…」。小田は、地区ごとにあらかじめ決められている学区から抜け出し、誰一人友人のいない高校に進学したそうだ。ともかく、これで双子の兄弟は違う道を進むことになった。それは大人の階段を歩み始めた証拠だったかも知れない。
一緒にいることで2人は、比較の対象になった。小田も下手だったわけではないのだが、兄が巧すぎた。「私たちが中学2年の時、父が、病気になり八百屋を手放すことになりました。これで、いつか父の跡を継ぐという私の構想はなくなってしまったわけです」。父が病になったことで、生活を考えると家族は誰一人、安穏とはしていられなかった。
「私たち兄弟は、2人とも高校には進学します。ただ、兄は特待生。だから授業料もかかりません。一方、私は、そういうわけにはいきません。それに私はちょっと変わりもんで…」。小田は、地区ごとにあらかじめ決められている学区から抜け出し、誰一人友人のいない高校に進学したそうだ。ともかく、これで双子の兄弟は違う道を進むことになった。それは大人の階段を歩み始めた証拠だったかも知れない。
バイト漬けの高校生活。
「高校になって、毎日が俄然楽しくなった」と小田はいう。しかし、厳密に言えば、高校生活のことではない。バイト生活のことである。
「1年生の時から、近くのレストランでアルバイトを始めました。これが楽しくてしかたなかったんです。授業が終わるのが待ち遠しいくらいでした。周りは大学生の先輩ばかりでしょ。同年代とは違って、話も面白いんです」。もちろん、仕事も楽しかった。辿りに辿れば、小田というビストロのオーナーの源流はこのレストランにある。「3年間ずっと働いていた」と小田。むろん、楽しいだけではなかった。「高校になってから父が亡くなり、私たち兄弟も生活を支えなければならなくなったんです」。
バイト代のいくらかは母に渡した。・・・続き
「1年生の時から、近くのレストランでアルバイトを始めました。これが楽しくてしかたなかったんです。授業が終わるのが待ち遠しいくらいでした。周りは大学生の先輩ばかりでしょ。同年代とは違って、話も面白いんです」。もちろん、仕事も楽しかった。辿りに辿れば、小田というビストロのオーナーの源流はこのレストランにある。「3年間ずっと働いていた」と小田。むろん、楽しいだけではなかった。「高校になってから父が亡くなり、私たち兄弟も生活を支えなければならなくなったんです」。
バイト代のいくらかは母に渡した。・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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