本文より~
4畳半、2間。
池田市は、大阪府の北部にあり、西は兵庫県と接している。自然も豊かな住宅地でもある。今回登場いただく、株式会社OICYの代表取締役、兼子栄治氏がこの市に生まれたのは、1974年のことである。
1974年といえば、隣の市、吹田市で万国博覧会が開催されてから4年後。ニュータウンが開発され、郊外に人口分布が広がっていった時代でもある。
兼子宅はどうだったんだろうか。
「うちは、狭かったですよ。家賃1万2000円。風呂なしです。4畳半が2間。そこに家族4人で暮らしていました。風呂がないから毎日、銭湯に行かなきゃいけない。あれが、めんどうで。特に水曜日は近くの銭湯がお休みだから、遠くまで行かなきゃならなかったんです」。
「姉を含め家族4人暮らしていた」と兼子氏はいうが、製薬会社に勤務していた父は、出張が多く、月に1日くらいしか帰宅しなかったそうだ。だから、もっぱら3人。「母子家庭みたいだった」と兼子氏も笑って、そう語っている。
「家は狭かったですが、特別、貧しいとは思ってなかったですね。外遊びばっかりで、友だちの家に遊びに行くという機会もなかったから比較できなかっただけかもしれません(笑)」。
「忙しくしていたのは父だけではなく、母親もパートにでていました。だから、私たち姉弟は野放しだったんです」。自由奔放に、少年、兼子氏は育っていった。
1974年といえば、隣の市、吹田市で万国博覧会が開催されてから4年後。ニュータウンが開発され、郊外に人口分布が広がっていった時代でもある。
兼子宅はどうだったんだろうか。
「うちは、狭かったですよ。家賃1万2000円。風呂なしです。4畳半が2間。そこに家族4人で暮らしていました。風呂がないから毎日、銭湯に行かなきゃいけない。あれが、めんどうで。特に水曜日は近くの銭湯がお休みだから、遠くまで行かなきゃならなかったんです」。
「姉を含め家族4人暮らしていた」と兼子氏はいうが、製薬会社に勤務していた父は、出張が多く、月に1日くらいしか帰宅しなかったそうだ。だから、もっぱら3人。「母子家庭みたいだった」と兼子氏も笑って、そう語っている。
「家は狭かったですが、特別、貧しいとは思ってなかったですね。外遊びばっかりで、友だちの家に遊びに行くという機会もなかったから比較できなかっただけかもしれません(笑)」。
「忙しくしていたのは父だけではなく、母親もパートにでていました。だから、私たち姉弟は野放しだったんです」。自由奔放に、少年、兼子氏は育っていった。
バスケットボールとの出会い。
小学生の時から、かけっこが得意だった。だから、中学では陸上部に入るつもりだった。しかし、中学1年時、担任に勧誘され、バスケットボール部に入部することになった。
担任の先生の思惑はどうだったかわからないが、これがきっかけで、兼子氏はバスケットボールにのめり込んでいった。
中学でも活躍し、高校でも注目される選手だった。
全国大会でもベスト16に進んでいる。
むろん大学でも、バスケットボールを続けた。しかし、トップクラスの学校ではなかったそうで、急速に熱が冷めていった。 「偉そうな言い方になりますが、私から言わせれば、部活じゃなくサークルと同じ。ぜんぜん、ピリッとしないんです。それが嫌で、徐々にクラブから足が遠のいていったんです」。
「その頃から、飲食店のアルバイトを本格的に初めました。大阪ミナミの鰻谷にあるレストランバーでした。店長からもいろいろ教わり、お客様もなにかと可愛がってくださいました。こういう言い方したらいけないんですが、あの時は、正直、オレにもできるなと思っていたんです」。
「オレにもできる」。そう思って、大学2年で中退する。部を辞めたことも、関係している。推薦で入学した兼子氏が、部を辞めて大学に残る道はほぼない。
だから、好きだったバスケットボールを辞め、飲食の世界へ進むことを決意した。もっとも、「バスケはいまも続けている」と兼子氏は言う。
それはともかく、いったんは「さらば、バスケットボール」である。これが、兼子氏、20歳の決断。・・・続き
担任の先生の思惑はどうだったかわからないが、これがきっかけで、兼子氏はバスケットボールにのめり込んでいった。
中学でも活躍し、高校でも注目される選手だった。
全国大会でもベスト16に進んでいる。
むろん大学でも、バスケットボールを続けた。しかし、トップクラスの学校ではなかったそうで、急速に熱が冷めていった。 「偉そうな言い方になりますが、私から言わせれば、部活じゃなくサークルと同じ。ぜんぜん、ピリッとしないんです。それが嫌で、徐々にクラブから足が遠のいていったんです」。
「その頃から、飲食店のアルバイトを本格的に初めました。大阪ミナミの鰻谷にあるレストランバーでした。店長からもいろいろ教わり、お客様もなにかと可愛がってくださいました。こういう言い方したらいけないんですが、あの時は、正直、オレにもできるなと思っていたんです」。
「オレにもできる」。そう思って、大学2年で中退する。部を辞めたことも、関係している。推薦で入学した兼子氏が、部を辞めて大学に残る道はほぼない。
だから、好きだったバスケットボールを辞め、飲食の世界へ進むことを決意した。もっとも、「バスケはいまも続けている」と兼子氏は言う。
それはともかく、いったんは「さらば、バスケットボール」である。これが、兼子氏、20歳の決断。・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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