本文より~
東京に出て、役人になれ。
秋田県との県境にあるそうだ。岸氏が生まれた金山町の話である。岸家は代々この土地で暮らしてきた。
「戦後の農地改革で土地を召し上げられる前までの話ですが、小作人もたくさん抱えていたそうです。米作りも盛んですが、林業が最も盛んなところですね。私は3人姉弟の真ん中で長男です」。
長男の岸氏に対する両親、とりわけ父の期待は大きかった。
「父は、地方政治の仕事をしていましたので、私にも『役人になれ』とハッパをかけていました。しかも当時は、県でトップの存在でも国の役人たちからすれば、何のこともないただの地方役人に過ぎなかったんです。だからでしょう。『東京に出て、役人になれ』と」。
小学生の時、岸氏は山形の田舎では成績がいちばんの生徒だった。父が末は大臣かと期待することも理解できる。「ところが6年になって受けたテストが散々な結果だったんです。山形の田舎ではトップでも、東京の子どもたちと比べるとまったく太刀打ちできなかったんです」。
政治・行政と、ある意味、同じ縮図である。すぐさま、息子を東京へ行かすプランが持ち上がった。息子とは言うまでもなく岸氏のことである。
「東京に出て、役人になれ」。岸氏は、小学6年生で山形を出た。
「戦後の農地改革で土地を召し上げられる前までの話ですが、小作人もたくさん抱えていたそうです。米作りも盛んですが、林業が最も盛んなところですね。私は3人姉弟の真ん中で長男です」。
長男の岸氏に対する両親、とりわけ父の期待は大きかった。
「父は、地方政治の仕事をしていましたので、私にも『役人になれ』とハッパをかけていました。しかも当時は、県でトップの存在でも国の役人たちからすれば、何のこともないただの地方役人に過ぎなかったんです。だからでしょう。『東京に出て、役人になれ』と」。
小学生の時、岸氏は山形の田舎では成績がいちばんの生徒だった。父が末は大臣かと期待することも理解できる。「ところが6年になって受けたテストが散々な結果だったんです。山形の田舎ではトップでも、東京の子どもたちと比べるとまったく太刀打ちできなかったんです」。
政治・行政と、ある意味、同じ縮図である。すぐさま、息子を東京へ行かすプランが持ち上がった。息子とは言うまでもなく岸氏のことである。
「東京に出て、役人になれ」。岸氏は、小学6年生で山形を出た。
政治家の子息もいた。麻布、時代。
「日比谷がいちばんで、麻布はだいたい4~5番目くらいでした」。学校のランクの話である。東京で5指に入るような学校はやはり違った。
いまでも付き合いがあるが、政治家の息子もいた。いまではその息子も政治家となっている。
中学1年の頃には、山形弁を笑われたこともあったそうだ。しかし、実力で黙らせたのではないか。
「そうですね。1~2年の頃は学年でもトップクラスの成績でした。麻布に入るため、猛勉強をしていましたからね」。
住まいは、渋谷。下宿だが、1人暮らしである。当時の趣味は、映画と読書とのこと。趣味にハマったわけではない。しかし、関東の言葉に慣れ、いろいろな仲間との交流が広がることで成績はどんどん下降した。
「高校に進学すると、さらに音楽も加わり、音楽や読書、映画に明け暮れていました。それで、成績も下がってしまうんですが、狙うとすればやっぱり東大だろうってわけで、受験するんですが、失敗。1年目にも慶應は受かっていたんですが、もう1年だと思って、翌年もう1回チャレンジするんですが、2回目も、結局東大を落ちて慶應に進みました(笑)」。 大学の進学を機に東京に出てくる青年は多いだろう。しかし、岸氏は、もう6年、東京でしかも1人で暮らしている。「慶應」に入れたと言っても、それほど心浮かれるわけではなかったそうだ。
一方、役人になるなら、断然「東大」だろう。東大を断念したことで、役人という世界は少し遠い存在になったかもしれない。
いまでも付き合いがあるが、政治家の息子もいた。いまではその息子も政治家となっている。
中学1年の頃には、山形弁を笑われたこともあったそうだ。しかし、実力で黙らせたのではないか。
「そうですね。1~2年の頃は学年でもトップクラスの成績でした。麻布に入るため、猛勉強をしていましたからね」。
住まいは、渋谷。下宿だが、1人暮らしである。当時の趣味は、映画と読書とのこと。趣味にハマったわけではない。しかし、関東の言葉に慣れ、いろいろな仲間との交流が広がることで成績はどんどん下降した。
「高校に進学すると、さらに音楽も加わり、音楽や読書、映画に明け暮れていました。それで、成績も下がってしまうんですが、狙うとすればやっぱり東大だろうってわけで、受験するんですが、失敗。1年目にも慶應は受かっていたんですが、もう1年だと思って、翌年もう1回チャレンジするんですが、2回目も、結局東大を落ちて慶應に進みました(笑)」。 大学の進学を機に東京に出てくる青年は多いだろう。しかし、岸氏は、もう6年、東京でしかも1人で暮らしている。「慶應」に入れたと言っても、それほど心浮かれるわけではなかったそうだ。
一方、役人になるなら、断然「東大」だろう。東大を断念したことで、役人という世界は少し遠い存在になったかもしれない。
太平洋、インド洋。波に揺られた船内で、夜になると船長の話が始まる。
「ある有名な作家さんの勧めで、フランスに渡ることになりました」。大学を卒業してからの話である。出版社や新聞社を受けたが、採用されなかった。それで友人の父でもある、その人の勧めに素直に従って岸氏は渡仏する。岸氏、23歳の時の話である。
ところで、西暦でいえばイメージしやすいが、まだ1968年のことである。いまのように、「チケットを取って、いざフランスへ」とは気軽にはいかない。
「貨物船です。私が乗り込んだのは。貨物船ですから、乗客はほとんどいません。12名でした。しかも、私以外は全員フランス人。横浜から乗ったんですが、寄港する港も少なくありませんでした。日本だけでも、名古屋、神戸、福岡でしょ。結局、7ヵ月、彼らといっしょに船上で生活することになりました」。
初めての船旅だったが、過酷な旅ではなかった。むしろ快適で、この旅があったからいまがあると言っていい。
「周りはフランス人ばかりでしょ。最初はぜんぜん言葉もわからないんです。でも、みんな可愛がってくれるわけですよ。貨物船といっても、フランスの船です。食事は超豪華だったし、12時になると船長が来て、みんなの前でお話をしてくれるんです。最初はさっぱりだった私も、向こうに着く頃にはもうかなりしゃべれるようになっていました(笑)。このおかげで、共同通信社のアルバイトも決ったようなもんです」。
7ヵ月の船旅が終わり、パリに着いた。
船上で優しく陽気なフランス人たちと暮らすうちに、フォークとナイフを使わせたら日本一と思えるくらいフランスの食文化にも慣れた。なんでも、ゆで卵をフォークとナイフを使ってポンと割ることができるようになったそうだ。
・・・続き
ところで、西暦でいえばイメージしやすいが、まだ1968年のことである。いまのように、「チケットを取って、いざフランスへ」とは気軽にはいかない。
「貨物船です。私が乗り込んだのは。貨物船ですから、乗客はほとんどいません。12名でした。しかも、私以外は全員フランス人。横浜から乗ったんですが、寄港する港も少なくありませんでした。日本だけでも、名古屋、神戸、福岡でしょ。結局、7ヵ月、彼らといっしょに船上で生活することになりました」。
初めての船旅だったが、過酷な旅ではなかった。むしろ快適で、この旅があったからいまがあると言っていい。
「周りはフランス人ばかりでしょ。最初はぜんぜん言葉もわからないんです。でも、みんな可愛がってくれるわけですよ。貨物船といっても、フランスの船です。食事は超豪華だったし、12時になると船長が来て、みんなの前でお話をしてくれるんです。最初はさっぱりだった私も、向こうに着く頃にはもうかなりしゃべれるようになっていました(笑)。このおかげで、共同通信社のアルバイトも決ったようなもんです」。
7ヵ月の船旅が終わり、パリに着いた。
船上で優しく陽気なフランス人たちと暮らすうちに、フォークとナイフを使わせたら日本一と思えるくらいフランスの食文化にも慣れた。なんでも、ゆで卵をフォークとナイフを使ってポンと割ることができるようになったそうだ。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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