in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社若竹 代表取締役 田口優英氏が登場。
本文より~
建築関係の仕事に、と思っていた少年時代。
田口は1972年10月18日、川崎市で木材商を営む田口家の次男として誕生する。小さな頃からスポーツが得意で、小学高学年から中学まで陸上部に所属。何でも100メートルを11秒台で走ったそうだ。好きだったのは、魚釣り。友人と自転車を漕いで、海釣りに出かけた。「釣りはいまもやっています。うちには釣り部もあるんですよ」と田口は笑う。
仕事観はどうだったのだろう。直裁に尋ねてみた。「父が木材屋だったでしょ。だから将来は建築関係の仕事に進むんだろうな、と漠然と思っていました」と田口。実際、建築関係の仕事に就くため、建築科がある工業高校に進んでいる。
高校中退、17歳店長誕生。
「もし、あの時、バイトをしていなかったら、私の人生は全然、違っていたかも知れません」と言って田口は、高校時代の話を始める。
高校に進学した田口は、1年時から川崎の駅ビルにある「お好み焼き店」でアルバイトを開始した。「店長がとてもいい人だったこともあるんですが、楽しくてしかたなかった。学校より楽しくなって、1年で中退。17歳の時には、最年少で店長に抜擢していただきました」。17歳で、店長。さすがに、この「飲食の戦士たち」のなかでも最年少記録かもしれない。この時、田口が店長となったのは、「お好み焼き」「ステーキ」等の飲食店を全国に展開する大手飲食チェーン店だった。このチェーン店で、田口は飲食の戦士として、また経営者としての才能を開花させていく。
33ヵ月連続、前年同月比を超えの記録を達成。
「私が最初に店長になったのは川崎の駅ビル店。12~13人のスタッフがいました。私が17歳だから、全員、年上です。だからって、店長にもなって何もしないわけにはいきません。私は、品質はもちろん接客の向上に取り組みました。最初は、背中でみせて。そして1人1人、引き込んでいったんです」。
驚くべきことに、店長になった田口は33ヵ月連続で前年同月比を超える売上を達成した。「最初の12ヵ月は、先輩が残した数字です。13ヵ月目からは私が去年残した数字ですから、越えるのが至難の業だった。それでも、なんとか33ヵ月というレコードをだして19歳の時に、統括マネージャーに昇進しました」。17歳で、店長。19歳で、統括マネージャー。まだ、二十歳にもならない青年である。陰口を叩かれないほうが不思議だ。だが、田口青年は、実績を通して、すべての声を押し込めたのではないだろうか。会社の業績は悪くはなかった。その業績を二十歳にもならない青年が、ひっぱっていることもまた事実だったからである。
倒産と再出発。
順風満帆だった。田口は、会社からも評価され、スタッフからも慕われる存在になっていたはずである。しかし、平成9年、突如、会社が倒産する。1997年のことだから、田口25歳の年だ。「最後は22店舗をみていました。社長から可愛がっていただいていたこともあって、その後は、新会社を作る社長の息子さんのお手伝いをすることになります。ただし、3年という期限は設けさせてもらいました」。最後のご奉公という意味もあったのだろう。「6店舗くらいですか、出店もサポートし、期限の3年が過ぎたもんですから退職させていただくことにします」。
若竹のホームページを観ると、創業は2000年4月となっている。ちょうど3年、育ててくれた会社、社長への恩返しを果たし、田口は新たなステージへと踊り出す。
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