本文より~
バスケットボールと少年、鈴木。
茨城県取手市は、千葉県とほぼ隣接している。地図で観れば、利根川を越えることで、県を行き来できそうな位置関係にあった。
鈴木博氏が、この取手市に生まれたのは1967年7月13日。ご両親は米農家をされていた。「兄の影響で小学5年生からバスケットを始めるんですが、それまでは目立たない少年だったと思います」と鈴木氏。
4年生の時。鈴木家は、同じ取手市だが、市内より田舎のほうに引っ越すことになった。1学年、1クラス。少人数の学校だったことも、多少は影響しているかもしれない。バスケットボールを始め、氏の性格は、いっそう明るくなっていった。
バスケットボールで頭角を現した鈴木氏は、クラスでも、学校でも否応なく目立った存在になった。競争意識もこの頃から高まったそうだ。
生徒数の多い中学に進学してからもバスケットボールを続けた。「いったん野球部に入るんですが、兄がキャプテンだったもんですから、『こっちにこい』と(笑)。それでまた、バスケを始めることになるんです」。
当時からバスケットボールは人気のスポーツの一つで、1学年に50人くらいの部員がいたそうだ。そのなかで鈴木氏は1年の終わりにはレギュラーに抜擢されている。ついでに言うと、足も速かったそうだ。とくに長距離。学校代表で、駅伝に出場したこともある。
「兄貴は、私よりもっとスピードがあった。バスケも巧かったし…」。
鈴木氏の話を聞いていると、よく「兄」という言葉がでてきた。「もっとも影響を受けた1人であり、兄の背中を追っかけてきたと言ってもいいくらいですね」と言って笑う。たしかに、鈴木氏にとって「兄」は特別な存在だったようだ。
兄がやれば、弟の鈴木氏もやる。兄が進む道は、鈴木氏の進む道でもあった。ところが、高校は、別々の学校に進んだ。「兄は、県でも有名なバスケットボールの強豪校に進学します。しかし、練習がきつく、夜も遅いんです。そんな兄を観ていて『これは、たいへんだな』と。それで私は、無名の学校に進学しました」。
バスケは好きだったが、兄と違って、もっと楽にという思いがあったのだろう。しかし…、バスケの神は、そう簡単に鈴木氏を手放さなかった。
鈴木博氏が、この取手市に生まれたのは1967年7月13日。ご両親は米農家をされていた。「兄の影響で小学5年生からバスケットを始めるんですが、それまでは目立たない少年だったと思います」と鈴木氏。
4年生の時。鈴木家は、同じ取手市だが、市内より田舎のほうに引っ越すことになった。1学年、1クラス。少人数の学校だったことも、多少は影響しているかもしれない。バスケットボールを始め、氏の性格は、いっそう明るくなっていった。
バスケットボールで頭角を現した鈴木氏は、クラスでも、学校でも否応なく目立った存在になった。競争意識もこの頃から高まったそうだ。
生徒数の多い中学に進学してからもバスケットボールを続けた。「いったん野球部に入るんですが、兄がキャプテンだったもんですから、『こっちにこい』と(笑)。それでまた、バスケを始めることになるんです」。
当時からバスケットボールは人気のスポーツの一つで、1学年に50人くらいの部員がいたそうだ。そのなかで鈴木氏は1年の終わりにはレギュラーに抜擢されている。ついでに言うと、足も速かったそうだ。とくに長距離。学校代表で、駅伝に出場したこともある。
「兄貴は、私よりもっとスピードがあった。バスケも巧かったし…」。
鈴木氏の話を聞いていると、よく「兄」という言葉がでてきた。「もっとも影響を受けた1人であり、兄の背中を追っかけてきたと言ってもいいくらいですね」と言って笑う。たしかに、鈴木氏にとって「兄」は特別な存在だったようだ。
兄がやれば、弟の鈴木氏もやる。兄が進む道は、鈴木氏の進む道でもあった。ところが、高校は、別々の学校に進んだ。「兄は、県でも有名なバスケットボールの強豪校に進学します。しかし、練習がきつく、夜も遅いんです。そんな兄を観ていて『これは、たいへんだな』と。それで私は、無名の学校に進学しました」。
バスケは好きだったが、兄と違って、もっと楽にという思いがあったのだろう。しかし…、バスケの神は、そう簡単に鈴木氏を手放さなかった。
最強教師、赴任。クラブ活動がいっぺんする。
「無名高校の生徒だったんですが、私は県の代表にも選ばれます。私の時には、無理でしたが、のちに県南の大会で優勝するチームになるんです」。
楽をするはずだったのではないか? どういうことだろう。
「高校2年の時です。全国大会でも優勝の常連校の顧問がうちの高校に赴任します。当然、うちの部を指導することになって。緩かった空気がいっぺんしました。生徒たちも、できるかどうかは別にして、『全国優勝』を意識するようになっていきました」。
「リーダーが替わるだけで、こうも全体がかわるのか」と鈴木氏は驚いたに違いない。
「店長がかわれば、店全体がかわる」と信念を持って語る背景には、この時の体験も少なからずはベースになっているはずだ。
「先生からは基本的なことをおろそかにせず、基本的なことが着実にできるようになりなさいと指導されました」。
こちらの発想も、いまに生きている。いい先生との出会いだった。「やればできる」という自信もまた植え付けられたのではないだろうか。バスケットボールも一段と巧くなった。プロを意識したこともなくはない。
「大学進学も考えたんですが、親に反対されて。膝がもうボロボロだったんです。そういう私のからだを気遣ってくれたんだと思うんですが、とにかく反対され、それで、就職。兄貴の後をもう一度、追いかけはじめました」。
楽をするはずだったのではないか? どういうことだろう。
「高校2年の時です。全国大会でも優勝の常連校の顧問がうちの高校に赴任します。当然、うちの部を指導することになって。緩かった空気がいっぺんしました。生徒たちも、できるかどうかは別にして、『全国優勝』を意識するようになっていきました」。
「リーダーが替わるだけで、こうも全体がかわるのか」と鈴木氏は驚いたに違いない。
「店長がかわれば、店全体がかわる」と信念を持って語る背景には、この時の体験も少なからずはベースになっているはずだ。
「先生からは基本的なことをおろそかにせず、基本的なことが着実にできるようになりなさいと指導されました」。
こちらの発想も、いまに生きている。いい先生との出会いだった。「やればできる」という自信もまた植え付けられたのではないだろうか。バスケットボールも一段と巧くなった。プロを意識したこともなくはない。
「大学進学も考えたんですが、親に反対されて。膝がもうボロボロだったんです。そういう私のからだを気遣ってくれたんだと思うんですが、とにかく反対され、それで、就職。兄貴の後をもう一度、追いかけはじめました」。
・・・続き
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